十一
真理子が会社に着いたのは、午前十時を過ぎていた。医師の説明が意外と長かったのだ。
滝川がお茶を運んできたので、高木を呼んでくれるように言った。
お茶を一口啜ると、ハンドバッグの中から、メモ帳を取り出した。
まもなく高木がやってきた。机の前の椅子を勧めて高木を座らせると、近寄るように言って、メモ帳を見せた。
「これは何の記号と数字なんでしょうか」
真理子は率直に訊いた。
「ああ。それは製品の型番と売れたロット数です」
「ロットって?」
「製品の数のことです」
「そう。わたしにはよくわからないわ」
真理子がそう言うと、高木は「ちょっとお待ちくださいね」と言って、社長室を出て行った。しばらくして戻ってくると、プリントアウトされた用紙を真理子の前に広げて見せた。
「このTS2というのが、今のTS-Word バージョン2という意味です。その隣の三百というのが、売れた本数を示しています。他の、例えばTSC4.5というのは、TS-Copyバージョン4.5のことです」
「TS-Copyって」
「このTS-Copyというのは、バックアップソフトのことです」
「ごめんなさいね。そう言われても、わたしには何のことなのか、わからないの」
「そうでしょうね。すぐにこれらの記号や数字を理解するのは、難しいでしょう」
「今、うちの製品で一番売れているのは、どれなの」
「このTS-Word バージョン2です。バージョン1から累計すると、一万五千ロット以上売れています。次にいいのは、このバックアップソフトで、累計で一万ロット以上売れています」
それから真理子は、会社の年商から純利益まで、一通りのことを高木から聞いた。
高木の説明からは、赤字を何とか出さないでやっているという印象を受けた。
「これはというヒット商品がないのが、ネックです」と高木は率直に言った。
「この前、ゴーサインを出したTS-Word バージョン3はどうなの」
「前評判はいいです。β版のモニターからも好意見が寄せられています」
「そう。それで発売日はどうなっているの」
「前宣伝では、八月中旬ということになっているんですが、日にちまでは製作日数との兼ね合いもあるので、まだ決定していません」
「それじゃあ、遅いんじゃないの。早く決定しなくちゃいけないんじゃないの」
「その通りです」
「午後一時に全取締役と、担当者を会議室に集めてくれる。わたしが社長代理になることと発売日を決めるわ」
「わかりました」
午後一時には、会議室に取締役と担当者が集まっていた。
正面の机には、真理子とその右隣には高木が座っていた。
「これから社長代理の件とTS-Word についての会議を始めます」
そう高木が口火を切った。
「わたしは富岡真理子です。富岡が事故に遭ってしまい、当分、出社はできない状態です。本来なら、予め通知をしてから取締役会を開いて代理の社長を決めるのが筋でしょうが、今は急を要するので、この場で社長代理を決めて頂きたいと思います。そこで、富岡が復帰するまで、わたしが社長代理を務めたいと思います」
そこまで真理子が言うと、高木の方を見た。賛否をとってくれという合図だった。
高木は「それでは反対の方がいらっしゃったら挙手をお願いします」と言った。誰も手を挙げる者がいなかった。
「それでは、富岡真理子が社長代理をするということでよろしいでしょうか」と言うと、誰かが拍手をして、それに続いて全員が拍手をした。
「それでは富岡真理子が社長代理ということで、決定させて頂きます」
すぐに真理子が話し始めた。
「社長代理にお選び頂きありがとうございます。早速ですが、TS-Wordの件について、まず発売日を決定したいと思いますので、よろしくお願いします」
「営業部の田中です。すでに製作に入っていますので、製品自体は八月上旬にはできます」
「どのくらいの数を生産しているんですか」
「六千ロットです」
「もっと多くはできませんか」
「そう簡単には……」
「キリのいいところで一万ロットでお願いします」
会議場がざわついた。
高木も真理子の顔を見た。そして「それは」と言いかけたが、真理子はそれを遮って「確認しておきたいんですが、ロット数というのは本数と考えていいんでしょうね」
「ええ、そうです。しかし、六千ロットを一万ロットにするとなると、生産が追いつくかどうか……」
田中は途惑ったように口ごもった。
「発売日はいつを想定していますか」
「今のところ、八月二十一日月曜日を想定しています」
「八月十六日水曜日にできませんか」
「できると思います」
「それまでに生産は間に合いますか」
「一万ロットとなると難しいと思います」
「では最初の六千ロットでは、どうですか」
「大丈夫です」
「では、八月十六日水曜日を発売日として、最初の生産は六千ロットでお願いします」
田中が立ち上がって、「あのう、六千ロットの販路は確保していますが、一万ロットになると、在庫はどうするんですか」と言った。
「製作することは簡単ですが、在庫管理が難しいと思うんですが」
「わたしは売れると思っていますが、在庫管理は当然必要ですよね。至急手配できますか」
「在庫管理部の林です。まだ一ヶ月ほどありますから、何とかなると思います」
「そうですか。では、任せます。次に宣伝の方に移りたいと思います。今までTS-Wordの発売は八月中旬となっていますが、雑誌等の広告を八月十六日水曜日にすべて差し替えて頂けますか」
「わかりました、すぐに手配します」
「では、確認します」
真理子は、TS-Wordの発売を八月十六日水曜日とし、最初の六千ロットを発売日に間に合わせること。そして、生産を続けて一万ロットまで製作し、順次販売していくこと。それらを確認し、了承を求めた。皆が賛同して、会議を終えた。
会議が終わると、隣に座っていた高木が「社長代理の最初の仕事としては、なかなかでしたよ」と言った。
「でも一万ロットというのは多過ぎませんか。これまで売れたTS-Word一万五千ロットというのは、累計ですからね」
「大丈夫よ。今度のは売れるわ」
真理子は富岡の手帳を思い出した。TS-Wordにつけられた「Go」の文字に何重にも丸が付いていた。これは富岡がいけると思っていた証拠だと考えた。それを信じるしかなかった。真理子は、何しろ自分はずぶの素人なんだ、と思った。そして、一回ぐらい思い切ったことをしてみたかったのだ。
会議室から出て、社長室に戻ると、真理子は両手を上げて背伸びをした。