小説「真理の微笑 真理子編」

三十

 TS-Wordの販売は以前好調が続いていた。社内は活気に満ちていた。

 木曜日になると、販売宣伝部の松嶋が社長室にやってきて、「このまま行くと、販売数が足りそうにないんですが……」と言ってきた。

「一万ロットを超えるっていうこと」と真理子が訊くと、「それは確実だと思います」という返事が返ってきた。

「それなら、増産しましょう」と言うと、「どのくらいにしましょう」と言うので、「あなたの判断に任せるわ」と答えた。

「わかりました」と言って、松嶋は出ていった。

 

 富岡を見舞いに行くと、ベッドを半分ほど起こしていた。

「気分はどう」と訊くと、何か答えようとしているようだったが、くぐもった声しか出なかった。

 しばらく富岡の様子を見ていた真理子は「また、明日ね」と言って病室を出た。

 

 週が明けて月曜日になった。

 病院に寄って、会社に来ると、騒然としていた。

 社長室に入って、お茶を持ってきた滝川に「どうしたの」と訊くと、「今、各販売店からの報告が続々と入ってきているところなんです」と言った。

「そうなの」

「どうやら、凄くいい結果みたいですよ」と言って、滝川は出ていった。

 午後三時頃になって、高木が社長室に入ってきた。

「各販売店の集計が出ました。初期出荷の六千ロットは売り切れました」と言った。

「ほんとに」

「ええ。四千ロット追加しておいて良かったですね。この分だと、一万ロットもすぐに売り切れるんじゃないですかね」

「そんなに凄い勢いで売れているの」

「ええ。私も驚いているくらいです」

「増産の方だけれど、どうなっているの」

「販売宣伝部の指示で、増産中ですが、注文に追いつかないほどですね」

「そう。増産については任せたわね」

「ええ、それはもう。いけいけどんどんですよ」

「頼もしいわ」

「それとオペレーターの数も増やさなければならないかも知れません」

「そう。それはどこが担当してるの」

「総務部です」

「総務部部長は誰だったかしら」

「長谷川です」

 真理子は内線で長谷川を呼んだ。

「今、高木専務から聞いたんだけれど、オペレーターの数が足りないんですって」

「今は何とかなっていますが、これ以上売れると足りなくなりますね」

「じゃあ、増やしてちょうだい」

「それは無理ですよ」

「どうして」

「オペレーターを置く場所がありません。今は会議室を臨時のオペレーター室にしてますが、そこでいっぱいの状態です」

「そうなの。じゃあ、今の状態でなんとかするしかないわけね」

「そうなります」

「わかったわ、ありがとう」

 長谷川が出ていくと、真理子は高木に「というわけなんだけれど、どうすればいいの」と訊いた。

「どうすると言われても……」と高木も困った顔をした。

「まぁ、いいわ。売れて困るなんて、これこそ、嬉しい悲鳴よね」

「そうですね」

「ありがとう。下がってもいいわ」

 高木が出ていくと、真理子はどうすればいいのだろう、と考えたが、いいアイデアは思いつかなかった。

 そのうち、六千ロットものTS-Wordが売り切れたことを思うと、嬉しくなった。高木の話ではまだまだ売れると言っていた。自分が言い出した一万ロットの完売も夢ではなくなってきていた。それどころか、これから増産しなければ、販売に追いつかないかも知れないのだ。トミーソフト株式会社は、大変な金脈を掘り当てたのかも知れなかった。

 

 病院に行くと、富岡はベッドを起こして、半身起こしていた。

 真理子はその富岡の頭の近くに座ると、「凄いことになっているわよ。もう初期出荷の六千本も売れたんですって。発売一週間でよ。でもまだまだ売れるって言ってるわ」と言った。

 真理子がそう言うと、富岡の目が見開かれた。そして、真理子の方を見た。ゴロゴロする声で何か言った。それが「ほんとか」と言っているように、真理子には聞こえた。

「ほんとよ」

 富岡はもう一度、何かを言った。本当なのか、確認したかったようだった。

「ほんとだってば」と真理子は言いながら、次第に興奮していく自分に気付いた。五万八千円のソフトが六千本売れるということがどういうことなのか、本当のところ、真理子には実感がなかった。しかし、会社ではその熱気に包まれていた。そして、今、富岡もその事実に驚いている。こんな富岡を見ていると、十年程前の富岡を真理子は思い出していた。ソフトが売れると、嬉しそうに家に帰ってきて、「今日はどこかに食べに行こう」と言ったものだった。

 そう思っているうちに、真理子は自然に富岡の顔を起こすと、その唇に自分の唇を軽く触れた。

「やっぱり、あなたは天才だわ」と真理子は言った。

 そして、富岡が何か言おうとしているのを遮るように、「嬉しいのね。わかっているわ」と耳元で囁くと、もう一度キスをした。