三十四
一月五日になった。僕はご祝儀を持って、タクシーでお茶の水の****ホテルまで行った。式は午前十一時から始まる予定だった。その三十分ほど前に着いた。控え室には、岸田信子と、峰岸康子の母が車椅子に乗って来ていた。
僕は二人に挨拶をして、ご祝儀を渡した。三万円包んでいた。
本当に僕らだけだった。
そのうちに案内の者が来て、式場に向かった。岸田信子が峰岸康子の母の車椅子を押していた。
神前式だった。三々九度の盃を交わし、玉串拝礼をした。
式が終わると、食事が用意されている個室に向かった。
岸田信子が峰岸康子の母の世話をする関係から、新郎の側には僕だけが座ることになった。
僕が乾杯の音頭を取ることになった。
「岸田秀明君と峰岸康子さんから岸田康子さんになられた二人の末永い幸せと、ご両家のご多幸を願って、乾杯」と言った。
それから食事が始まった。
二人は幸せそうだった。それを見ている岸田康子の母も目に涙を浮かべていた。
岸田信子がよく世話をしていた。
いい結婚式だったと僕は思った。
ご祝儀のお返しをもらって家に帰ってきた。
中には、赤ちゃんの服が入っていた。岸田信子が考えたのだろう。僕はありがたく頂いた。
次の日は、出生届を出しに区役所にタクシーで行った。安全防犯対策課には、緑川に午後に出署すると伝えた。
区役所には出生届書と印鑑と母子手帳を持っていた。
きくは京二郎と家で待っていた。
出生届はすんなりと受理された。思えば、これが初めての出生届の提出だったのだ(「僕が、剣道ですか?」シリーズ参照)。
出生届は出す前にコンビニでコピーを取っておいた。記念のためだった。帰って、きくに見せた。
十二時半になったので、黒金署の安全防犯対策課に向かった。あやめの入ったひょうたんは机の引出しの中だった。
安全防犯対策課に入ると、緑川が「大変なことになっていますよ」と言ってきた。
「どうしたんだ」と僕は訊いた。
「今、ちょっと前に入ってきた情報なんですが、島村勇二が甲府のコンビニ店に猟銃と拳銃を持って立て籠もったそうです」と緑川が答えた。
「テレビをつけてみろ」と言った。
「もう、つけてます。まだ、その情報は流れていませんね」と鈴木が言った。
僕はテレビの前に行った。メンバーも集まって見ていた。
ニュースキャスターが「あっ、たった今、情報が入ってきました。全国指名手配されていた島村勇二、四十二歳が、猟銃と拳銃を持って甲府市内のコンビニ店に立て籠もった模様です。店員と買物客を人質に取っているとの情報も入ってきました。まだ、確認は取れていません。もう一度繰り返します……」と言った。
テレビ画面は、ニュースショーのスタジオのままだった。まだ、今、現場にカメラが向かっている途中なのだろう。
「島村勇二が立て籠もっているコンビニ店は、甲府署のパトカーで包囲されたようです」とキャスターは言った。
サブキャスターが「島村勇二が猟銃と拳銃を持っていることから、SITの要請も出ているようですね」と言った。
しばらくして、現地の映像が流れてきた。市街地にあるコンビニだった。前に駐車場があり、そこを空けるようにしてパトカーが何台も並んでいた。
テレビカメラは近くの民家の屋上から撮っているようだった。コンビニは窓のシャッターは下ろされていた。出入口だけがシャッターが下ろされていなかった。そこから中はうかがい知ることができなかった。
交渉役の刑事がマイクで「人質を解放しなさい」と言った。
中からは、店員の携帯で甲府署に島村が要求を出しているようだった。
その時、緑川が電話を受けて「課長、署長がお呼びです」と言った。
僕は署長室に入って行った。副署長もいた。
「鏡君。急な頼みで済まないが、甲府まで行ってくれないか」と署長は言った。
「いいですけれど、何故ですか」と僕は訊いた。
「人質解放の交渉をしている時に、島村が『とにかく、鏡京介をここに連れてこい。話はそれからだ』と言ってるんだ」と署長が言った。
僕は「島村勇二なら言いそうなことですね」と言った。
「済まんが至急、行ってくれないか」と署長は言った。
「分かりました」と答えた。
僕は署長室を出ると、玄関に回った。署長と副署長もついて来た。
玄関にはパトカーが待っていた。僕はその後部座席に乗り込んだ。
「頼んだぞ」と署長が言った。
僕は頷いた。
パトカーのドアが閉まった。
パトカーはサイレンを鳴らして走り出した。
同じく、サイレンを鳴らした白バイが先導して行った。
すぐに首都高に乗った。そして甲府に向かった。
二時間足らずで中央道を降りて、甲府市内に入った。そして、問題のコンビニの前で止まった。
パトカーを降りると指揮官がやって来た。
「ここを取り仕切っている甲府署の陣内剛です」と言った。
その隣にいた人は「交渉人の鳥飼修です」と言った。
鳥飼は「鏡さんが来るまで人質は解放しないと言っています。わたしの代わりに島村勇二と交渉してもらえますか」と訊いた。
「それしか手がないんでしたら良いですよ」と僕は言った。
陣内が防弾チョッキを渡して、「これをワイシャツの下に着てください」と言った。
「分かりました」と僕は言って、すぐその場で上着を脱ぎ、ワイシャツを脱いで防弾チョッキを着た。それからワイシャツと上着を着た。上着を着るときは、随分と窮屈だった。結局、胸のボタンは嵌められなかった。
鳥飼が「これから鏡京介さんがわたしに代わって交渉をする」と言った。
島村は「鏡京介が来たのか」と言った。
鳥飼が「そうだ」と答えた。
島村は「鏡に出入口に向かって歩いて来るように言え」と言った。
僕はマイクを鳥飼から受け取った。
「これからは私が交渉をする。そちらの出入口に向かって歩いて行けばいいんだな」と言った。
「そうだ」と島村は言った。
僕はパトカーの陰から出て、駐車場の真ん中をコンビニの出入口に向かって歩いた。
まだ、日は落ちていなかったが、ライトが照らされていた。
僕の躰はライトの光に包まれていた。
「もっと、ゆっくり歩け。そしてマイクを捨てろ」と言った。
僕はマイクを捨てた。
そしてゆっくりと出入口に向かって歩いて行った。
出入口まで七、八メートルの距離まで歩いて行った。
すると、出入口の扉がすぅーと開いた。
銃口がこちらに向いていた。
今にも引き金が引かれそうだった。
「もっと近くに来い」と島村は言った。
僕は言われるように歩いて行った。
島村は猟銃の照準を合わせようとしていた。素人だから、なるべく近づいたら、撃つつもりなのだろう。
僕にも島村が照準を合わせようとしているのが分かった。