三十三
家に帰ると、「レンタルのベビーベッドは明日届くわよ」と母が言った。
「へぇー、いつ頼んだの」と訊いた。
「赤ちゃんが生まれてすぐよ」と母は言った。
「手回しがいいんだな」と言うと、「こういうことはわたしの方が慣れているからね」と言った。
「そうだね」
現代で生むのは初めてだもんな、と言いそうになった。
「きくは明後日、退院か」
「そう、だから、部屋を片付けておいてね」と言った。
「ちゃんと片付けてあるよ」と僕は言った。
「それならいいけれど。ベビーベッドは置けるわよね」と訊いた。
「大丈夫。それくらいのスペースはある」と言った。ベッドの横に置けばいいと思った。
ベッドには入りづらくなるが、そのくらいはしょうがないと思った。
次の日、ベビーベッドは運ばれて来た。きくは僕の右に寝るから、ベッドの右にベビーベッドを置いてもらった。中央に置いてあったダブルベッドを左にずらして、壁に付くようにベビーベッドは組み立てられた。
ベビーベッドが入ると、広かった寝室も狭く感じた。これはしょうがなかった。
大晦日だったので、年越し蕎麦を食べた。そのあと、子どもたちは「カウントダウンするんだ」と言って、遅くまで起きていた。
母はおせち料理を作っていた。歌番組が終わる前には、作り終えていた。
父は酒を飲んでいた。
そのうち、テレビから除夜の鐘が流れ出した。
もう少しで新年になる。
子どもたちは四階のリビングルームのテレビの前にしがみついていた。そのうち、カウントダウンが始まった。
ゼロになった時、みんなで「明けましておめでとう」と言った。
僕は父と酒で乾杯をした。母とはウローン茶と酒で乾杯した。子どもたちも父や母と乾杯をした。
僕は、今日、きくが退院して来るのでそこそこで切り上げて、子どもたちにも「早く寝ろよ」と言って、五階に上がって行った。
広いダブルベッドに寝転がった。
今日は、ここにきくと京二郎が来るんだと思っているうちに、眠ってしまった。
「もうすぐ時間ですよ」と母に起こされた。目覚ましをかけるのを忘れていた。
午前九時近かった。
きくの退院は午前十時までだった。
僕は顔を洗って、すぐに着替えた。
四階に降りて、「お袋は行かないの」と訊いた。
「わたしはここで待っていますよ」と応えた。
「そうか、じゃあ、行って来る」と言って、五階に上がり靴を履いて玄関を出た。
通りに出て、タクシーを捕まえると、病院まで行った。
病室に入ると、きくは起き上がって、帰る準備をしていた。
荷物は僕が持って、エレベーターで一階に降りた。受付で会計をして、タクシーを呼んでもらった。
ほどなくして、タクシーが来た。きくは赤ちゃんを抱いて、タクシーに乗った。僕は荷物をトランクに入れてもらい、きくの隣に座った。
家に着いた。四階までエレベーターで上がって行った。
父や母、ききょうと京一郎が玄関で待っていた。
「ただいま」ときくが言うと、「お帰りなさい」とみんなで言った。
僕は荷物を階段を使って五階の寝室に持って行った。それから四階のリビングルームに降りて行った。
リビングルームの長ソファの中央に、きくは京二郎を抱いて座っていた。
それから父を始めとして、一人ずつ、京二郎を抱いていった。最後に僕が抱き取ると、きくに返した。
僕が「上に行こうか」ときくに言ったら、父が「おせちを食べてからにしたらどうだ」と言った。
「それもそうだな」と僕はダイニングテーブルに座った。
きくも京二郎を抱えて、椅子に座った。
「食べている間はわたしが預かるわよ」と母は言って、きくから京二郎を取り上げた。
子どもたちもテーブルに着いた。
おせちの重箱が開けられた。二段になっていた。
最初の重箱には、かまぼこ、栗きんとん、伊達巻き、田作り、黒豆、数の子、きんぴらごぼうが詰められていた。伊達巻きが多めだった。
二の重箱には、里芋やクワイ、蓮根や人参など山の幸を使った煮物、筑前煮などの他に鯛や鰤などの焼き魚、海老を始めとする海の幸が詰められていた。
母の好きな紅白なますは別の皿に盛り付けてあった。
取り箸が入れられ、子どもたちは、かまぼこ、伊達巻き、黒豆を取っていた。
僕は鯛をほぐして、皿に取った。きくは紅白なますから箸を付けた。
明日は、抱っこ紐をデパートに買いに行く予定だった。僕も礼服を買っておく必要があった。岸田秀明と峰岸康子の結婚式は一月五日だったからだ。
一通り食べると、僕ときくときくに抱っこされた京二郎は五階に上がった。
きくは着替えると、京二郎を抱いて、ベッドに横たわった。
僕もきくの後ろに横たわり、きくの肩に手をかけた。
「少し、疲れましたわ」ときくが言った。
「眠ればいい」
「そうします」と言って、きくは京二郎を抱いて眠った。
僕はベッドから降りて、そっと毛布を掛けた。
午後四時になった。きくが起きた。京二郎も起きて、乳を欲しがった。きくが乳を与えた。
「風呂を沸かして来る。ぬるめにしておく。京二郎と入るがいい」と言った。
乳を飲ませながら、「あっ、わたしがします」ときくは言った。
「どうして」と僕が訊くと、「赤ちゃんを沐浴させるためです」と言った。
「沐浴?」
「ええ。ちょっと風呂場に来てくれますか」ときくが言った。
きくと四階に降りて行き、風呂場に入ると、大きなベビーバスが置いてあった。びっくりすると、「お母様がレンタルしてくれたんです。今日、届いたんですって」と言った。
「そうか」
僕はベビーバスを洗って、湯を入れた。
「何度ぐらいなんだ」ときくに訊くと、「三十八度ぐらいだそうです」と言った。
湯の温度を三十八度に調整して、ベビーバスに湯を張った。
「上がり湯もお願いします」ときくは言った。
「分かった」と僕は言った。
子どもたちはリビングルームでテレビを見ていた。正月番組をやっていた。面白いのだろう。ゲラゲラと笑っていた。
僕は五階に上がって、きくのバスローブと京二郎のバスタオルを二枚用意した。
四階に降りて行くと、きくが濡れてもいいような格好になっていた。
きくが京二郎を裸にして、静かに足先からベビーバスに入れた。そして、手で京二郎の躰を洗った。
洗い終わると、かけ湯をして、「バスタオルをお願いします」と言った。僕はバスタオルに京二郎を受け取った。きくは京二郎の躰を隈無く拭いていた。
新しいバスタオルに京二郎を移すと、「俺はベビーベッドに京二郎を寝かせる。その間に風呂に入るといい」と言った。
すると、きくは「わたしは産褥期で、一月はシャワーで、と言われています。シャワーを浴びたら、京二郎を見ますから、その間、お願いします」と言った。
僕は「分かった」と言った。
きくが上がって来たので、「風呂を焚いて、俺も入ることにする」と言った。
「そうしてください」ときくは言った。
次の日はタクシーでデパートに行った。きくと京二郎は家に残してきた。まだ生まれて間もなかったからだった。
最初に礼服売場に行った。
僕のサイズに合う礼服を店員に探してもらって試着した。礼服なんてどれも同じだと思っていたが、少しずつ違っていた。僕はスリムに見える礼服を選んだ。裾上げに二時間かかると言われたので、その間に抱っこ紐を買いに行った。
抱っこ紐もいろいろな種類があった。京二郎は新生児だから、新生児対応の抱っこ紐に限定された。新生児用のものと長く使えるものとがあった。長く使えるものは値段が高かった。
長く使えるものにした。
それを買って、食品売場に行った。
一通り、見て回り、最後に洋菓子の福袋を買った。
そして、礼服を取りに、紳士服売場に向かった。