三十一
昨日も子鹿幸子はいつも通りに、家に帰っていった。その後を追いながら、明日こそ、殺してやると誓った。
そして、六月二十二日水曜日が来た。朝から、帰ってきた時の準備をして、家を出た。
会社に着いても思うことは、子鹿幸子のことだけだった。そのことだけを取り出せば、恋愛に似ていた。しかし、目的は絞殺だった。恋愛とは対極にあった。いや、対極にあったのだろうか。やはり、恋愛に似ているのではないのか。
僕には分からなかった。芦田勇は凄まじく子鹿幸子に思いを寄せていた。それが殺意であっても、恋愛に似ていたのだ。
芦田は退社時刻が来ると、すぐに会社を出て、家に帰った。まだ、午後八時十分までには、時間があった。今回はロープを持っていくので、小さなショルダーバッグを隣町の雑貨店で買っていた。そこにロープと目出し帽を入れると、ポロシャツに袈裟懸けにかけた。
ハンカチはスラックスのポケットに入れ、皮手袋はしていた。
午後七時五十分になったので、運動靴を履いて家を出た。自転車では南秋田駅はすぐだった。
午後八時十分まで待った。すでに興奮していた。スラックスの中でペニスが勃起して、パンパンに張っていた。
やがて電車が来て、駅から人が出て来た。その中に、子鹿幸子もいた。白い喉が目に飛び込んできた。もうすぐだ。あの首にロープを巻き付けてやる。
子鹿をつけた。いつも通りの道を歩いて行く。いくつかのコンビニの前を通り、駅から真っ直ぐ三つ森公園の方に向かっていた。最後のコンビニを通り過ぎた時に、芦田勇は別の通りを通って、自転車を先回りして、公園に向けた。
そして、公園に着くと自転車を降り、ショルダーバッグも取り、中からロープと目出し帽を取り出して被ると自転車の前籠に入れた。犯行の時に、ショルダーバッグが邪魔になるのを恐れたのだ。
ロープはやはり一メートル二十センチに切って、その両端は瘤結びにしていた。ロープの両端を持って、引っ張ると力が漲ってきた。そして、興奮がますます高まっていった。
芦田は木陰で子鹿幸子を待っていた。ペニスは完全に勃起していて、スラックスに先走りの後を残していた。
子鹿幸子は一人で公園内に入ってきた。携帯を見ていた。
木の陰に芦田がいることも気付かなかった。
芦田は子鹿が目の前を通り過ぎると、すぐに右手でハンカチを持ち口を塞いだ。そして通路から木陰に引きずろうとすると、子鹿は激しく抵抗した。それで左手でロープを首に巻いた。鈴蘭テープの時とは違い、一回りさせると、ロープ同士がぐっと引き締まった。右手を離しても、子鹿は声が出せないようだった。木陰に引きずり込んだ。その時に少し滑った。転びはしなかったが、日曜日に降った雨のせいだったのだろう。
それから、首を絞めた。この時が溜まらなかった。ロープを引っ張りながら、射精をしていた。
やった。殺した。
そう、芦田勇は思った。最高に興奮していた。スラックスの前は濡れていた。射精は長く続いたのだった。
子鹿幸子が完全に死んだのを確認してから、ロープを外した。そして、ハンカチを拾い、目出し帽を脱いだ。
それから、自転車に向かった。ハンカチと目出し帽とロープを小さなショルダーバッグに入れると袈裟懸けにして、自転車に乗った。まだペニスは立っていた。
早く自宅に帰って風呂に入りたかった。そして、もう一度、ペニスをしごきたかった。
僕はおぞましい光景に呆然とした。
リストには書かれていなかったが、前の万秋公園の絞殺事件と今度の三つ森公園の絞殺事件では、同じげそ痕が採取されたのに違いない。それで、連続絞殺事件として扱われたのだ。
そうなれば、自転車よりも運動靴を見付けて照合する方が話が早い。
取調官の質問がもたもたしているように思えたが、げそ痕という隠し球があったから、それを悟られないように質問しているのだと思った。
その時、ミラー室のドアがノックされて、立ち会っていた刑事の一人が出て行った。
時間を止めた。ひょうたんを叩き、あやめに「今、外に刑事が出て行った。何を話しているのか、聞いてきてくれ」と言った。
「わかりました」とあやめが言った時、時間を動かした。
しばらくして、ひょうたんが震えた。時間を止めた。あやめが、ひょうたんの中から「一人の刑事が別の刑事に『被疑者の家宅捜索の令状が取れた。これから被疑者の自宅に向かう』と言ってました」と言った。
僕は時間を動かした。そうか、家宅捜索の令状を待っていたのか、あの取調官は、と思った。その時、取調室のドアが開き、メモ用紙のようなものが取調官に渡された。
「今、あなたの自宅の家宅捜索の令状がおりました。これから家宅捜索に入ります」と告げた。
「そんな馬鹿な。これは任意の事情聴取ではないのか。それなのに、人がいない間に家宅捜索の令状を取ったというのか。それは違法ではないのか。弁護士を呼べ」
芦田勇は興奮していた。
「弁護士は呼べますよ。どうぞ」と言って、電話機を被疑者の前に置いた。
芦田勇はポケットから手帳を出して、弁護士に電話をかけた。
「今、家宅捜索の令状がおりたと言われ、自宅に家宅捜索に入る旨が告げられました。これを止める方法はありませんか」と言った。
電話の向こうからは否定的な答えが返ってきたのだろう。
「では、先生、取調室まで来ていただけませんか」
「そうですか。わかりました。よろしくお願いします」と芦田は言って、電話を切った。
「すぐに内藤先生が来てくれるそうです」と芦田は言った。
「でも家宅捜索は拒否できませんよ」と取り調べている刑事は言った。
そして「では、続きをしましょう」と言った。すると、芦田は「弁護士の先生が来るまで、何もしゃべりません」と言った。
「それは黙秘権の行使と捉えていいですか」と取り調べている刑事が訊いた。
「どうとでも捉えてください」と芦田は言った。
取調官はマイクに「被疑者は黙秘権を行使した」と言った。
それからは、刑事が何を訊いても、芦田は何も答えなかった。