小説「僕が、剣道ですか? 6」

十一

 布団に入っていた。疲れていたが、眠くはなかった。

 ききょうは眠ったが、きくの眠りはまだ浅かった。きくが深い眠りについたところで、奥座敷に行こうと思っていた。

 その時だった。冷気が漂ってきた。女が来たのだ。きくが眠りから覚めるのを止めるには、時を止めるしかなかった。

 僕は時を止めた。その時、女の驚く表情が分かった。時を止めても、霊には関係なかった。それよりも女は僕が時を止められることに驚いたのに違いなかった。

 僕は起き上がると、女の手を掴んで、奥座敷に向かった。

 奥座敷に入って、女の手を離すと、女は座り込んで肩で息をしていた。

 僕は時を動かした。そして、「どうしたんだ」と女に訊くと、「稲妻が躰を駆け抜けていくようでした。わたしの躰は完全に痺れました」と女は答えた。

「そうじゃあなく、どうしてあんな早い時間に来たんだ」と言うと「あなた様を待てなかったのです」と女は言った。

「もう少しすれば、きくは完全に眠ったのに」と言うと、女は「申し訳ありませんでした」と謝った。

「それにしても、あなた様は凄い力をお持ちなのですね」と女は言った。

「時を止めることか」

「はい」

「あの力で、何度も窮地を脱してきた」と僕は言った。

「そうでしょうね。あんな力を持った方を見るのは、初めてでした。だから、驚きました」

「そうだな。これを知ったらみんな驚くだろうな」

「ええ。それにあなた様はこの世の人ではありませんね」と言った。

「と言って、霊でもない。あなた様は何者なのですか」と続けた。

「私は私だ。鏡京介だ」と言った。

「それはわかっています。でも、あなたに触れられた時に、この世の人の肉体を感じなかったのです。あなたはどこか別の場所にいる、そんな感じがしたのです」

「気の迷いだ。現にこうして、お前の前にいるではないか」

「そうなのです。それでわからなくなりました」

「分からないことは、この世の中にいくらもあるさ。これもその一つだ。私にもよくは分からないんだから」

「あなたにもわからないんですか」

「そうだ」

「あなたは、今日は草刈りをしていましたね」

「外に出られないのに、どうして分かるんだ」

「あなたの霊はわたしには見えます。何処にいてもわたしにはわかります」と女は言った。

「そして、何をしているかも」と続けた。

「あーあ、ついに、きくだけじゃなく、霊にも見張られることになったか」と僕はぼやいた。

「本音ではないくせに……」と女は言った。そして、「そんなにわたしは美しいですか」と続けた。

「勝手に人の心の中に入ってくるな」と僕が言うと、「わたしはあなたの心の中には入りません。かまをかけただけです」と言った。

「あーあ、霊のかまにも引っ掛かるようじゃあ、私は駄目だな」と僕は言った。

「あっ、じゃあ、本当に美しく見えるんですね」と女は嬉しそうに言った。

 僕は仕方なく頷いた。

「あなたの精気は、とてもいい香りと味がするんですね」

「私の精気を吸ったのか」

「いいえ、そんなことはとても。でも、手を触れられた時に、感じたのです」

「触っただけで分かるものなのか」

「わかりますとも、霊ですから」と女は得意そうに言った。

 そして「手を繋いでくれますか」と言った。

「いいとも」と僕は言って、女の手を握った。女は目を閉じた。うっとりするような顔になった。そして、時間が過ぎていった。

 

「京介様」と言うきくの呼ぶ声がした。

 女は慌てて消え、僕は時間を止めて、厠に入った。そして時間を動かし「私はここだ」と言った。

 厠を出ると、桶の水で手を洗い、手ぬぐいで拭って寝室に戻った。

「京介様の姿が見えないと心配になります」ときくは言った。

「そうか。慣れない家なので、目が覚めてしまう。夜の月を見て、帰りに厠に寄ってくる。それだけだ」

「幽霊にたぶらかされているのではないかと思ってしまいました」ときくは言った。

「そんなことはないよ」

「そうだといいんですけれどね」

「もう、寝よう」

 布団に入った。きくには、妙に鋭いところがある。いつまで、だませるのか、自信がなかった。

 

 次の日も晴れていた。今日の午前中には草刈りは完了するはずだ。

 朝餉を食べると、草刈りの準備をして中庭に出た。昨日刈り残したところから始めた。一時間ほどですべて刈り終わり、後は裏庭だけになった。裏庭は狭かったから、刈る作業はしにくかったが、刈り取る範囲が狭いので、昼前には作業は終わった。

 刈り取った草や薄や小木は、裏庭に全部集めた。

 中庭には広い空き地ができた。ここに畑を作るつもりだった。

 僕と風車は井戸場で手を洗い、僕は長袖のシャツを脱いだ。寝室に行って、着物を取ってくると、脱衣所でジーパンを脱いで手ぬぐいで躰を拭った後、着物を着た。安全靴は草履に履き替えた。

 昼餉を食べ終えると、風車と両国に向かった。まずは表札を作るために、墨と硯と筆と表札自体が必要だった。釘と金槌も買わなければならなかった。

 その後で、畑に植える苗や種を買うことにした。

 道具屋に入って、表札を選んだ。風車は大きい方が良いと言うので、縦長の桐の物を選んだ。その時に、「隣にもわたしのを……」と言って、竹の小ぶりの表札も買うことにした。

 墨や硯、筆はすべて風車に任せた。

 そして、釘と金槌を買うと店を出た。

「野菜の苗や種はどこで手に入れればいいんでしょうね」と僕が訊くと、「八百屋に行けばあるでしょう」と風車が答えた。

 なるほどと思った。実際に、八百屋で野菜の苗や種を手に入れることができた。

 畝の作り方やツタが生えてきたときの添え木の仕方までも教えてくれた。素人でも作りやすい野菜として、キュウリや茄子を勧められた。キュウリはツタが出て来たら、支柱があるとすくすくと育つと言われた。種をまく間隔から、支柱の作り方まで教わった。茄子は今からなら苗の方がいいと言われたので、苗を買った。茄子にも支柱が必要だった。

 キュウリは種を植える二週間前に土を作ることも教わった。たい肥を混ぜるとよく育つと言われ、たい肥も購入した。

 土を掘り起こすのに、踏み鋤があると便利だと教えられ、道具屋に戻って、購入した。

 饅頭屋を見付けたので、饅頭を七つ買った。

「七つもですか」と風車が言うので、「私たちは二つずつ、一つはききょう用です」と言った。

「ききょうちゃんは一つも食べられるんですか」

「残ったら二人で食べましょう」と僕は言った。

 

 家に戻ったら、道具などは前庭の横にある納屋にしまい、表札や墨、硯などは風車が持ち、僕は饅頭を持って、家の中に入っていった。

 居間に行くと、きくがお茶の用意をしていた。

「そろそろ帰って来る頃だと思っていました」と言った。

 僕は饅頭を出して、出された皿に二つずつ載せた。

「もう一つ皿がいるよ」と言うと、きくは「えっ」と言った。

「ききょうのだよ。ききょうの分も買ってきたんだ」と言った。

「そうですか」ときくは慌てて、もう一枚皿を出した。そこにちょこんと饅頭を一つ載せた。

「さあ、食べよう」

 

 ききょうは、饅頭を半分ほど食べた。残りは風車が食べた。おやつが終わると、表札作りに取りかかった。

 卓袱台の上を片付けて、硯に水を垂らして墨を擦った。濃い墨が擦れると、懐紙に試し書きし、濃さが決まると、表札に「鏡京介」と一気に書いた。見事な字だった。そして、竹製の小ぶりの表札に「風車大五郎」と書いた。

「さすがにうまいですね」と僕が言うと、「まあまあです」と答えた。

 その表札を持って、門のところに行き、金槌を使って釘で、表札を打ち付けた。

「鏡京介」の隣に、小さく「風車大五郎」という表札が並んで付けられた。

 こうして表札を付けると、ますます自分の家だという実感が湧いてきた。