小説「僕が、剣道ですか? 5」

二十六

 草道はでこぼこしていて、台車に乗った妊婦には快適とは言い難かっただろう。しかし、それよりも陣痛の方に気持ちが行っていたかも知れない。

 僕も心が急いた。まさか、台車の上での出産は勘弁してくれと願った。

 一キロが遠かった。いくら台車を押しても、農家は近付いてくるようには思えなかった。

 風車が先に農家の方に走っていった。そこの者に事情を話して、出産の準備をさせようとしているのだろう。

 亭主は妊婦の手を握っていた。揺れる台車では、妊婦の不安も大きいだろう。僕は、台車が持ってくれることを願うだけだった。

 きくは妊婦の側にいて、励ましていた。出産の経験があるだけに、まだ十五歳でしかないのに頼もしかった。

 僕はいざとなったら、時を止めるつもりだった。

 しかし、今のこの状況ではなるべくそれは避けたかった。

 今は、この重い台車を押すしかなかった。

 農家から人が出て来た。荷車を出してきてくれた。

 僕の押している台車よりよほど大きかった。

 台車と荷車が近付いた。僕は台車を止め、妊婦を抱え上げ、荷車に乗せた。

 荷車を押してきた者は、今度は荷車を引いて歩き出した。

 僕は台車に戻り、その後を追った。

 こうして、農家に着いた。

 荷車に乗っていた妊婦は農民と一緒にすぐに農家の中に入っていった。

 亭主と風車も一緒に入っていった。

 きくは僕を待っていた。

 僕はきくのところまで行くと、台車を庭の隅に置かせてもらった。そして、農家に入っていった。

 妊婦は奥の座敷にいて、亭主はその妊婦についているようだった。座敷の襖が閉められていた。

 風車は土間の廊下に座っていた。

 僕も風車の隣に座った。きくも僕の隣に座り、ききょうを降ろしていた。

「隣の家に取り上げ婆を呼びに行っているところです」と風車は言った。

「お隣と言っても結構遠いのかな」と言うと、風車は頷いた。

「今、お湯を沸かしているところだそうです」

「そうですか」

 きくがききょうに哺乳瓶から白湯を飲ませていた。

 時がのろのろと動いているように感じた。僕らにすることはなかった。

 白髪の老婆がお茶を載せたお盆を差し出してきた。

「喉が渇いておるじゃろ」と言った。

「ありがとうございます」と僕も風車もきくも言った。そして、お茶を飲んだ。

 なかなか、取り上げ婆は来なかった。

 僕らが襖の閉められた奥の座敷に視線を向けると、老婆は「そう簡単には生まれやせんよ」と言った。

 それもそうだと思ったが、落ち着かなかった。

「蒸かし芋しか作れんが、食べるけ」と老婆が言うので、「ええ、ありがたくいただきます」と僕も風車も言った。

 老婆は竈に向かった。

 考えてみれば、僕らが農家に留まる理由はなかったが、赤ちゃんが無事に生まれてくるところに立ち会いたいという気持ちは捨て難かった。

 蒸かし芋ができた頃に、取り上げ婆が来た。

 僕らが蒸かし芋を食べている頃に、突然慌ただしくなった。

 いよいよ出産が始まったのだ。

 盥が用意され、その中にお湯が入れられた。

 どれくらい時間が流れただろう。そのうち、産声が聞こえてきた。

「男の子だそうです」と様子を窺っていた風車が言った。襖が開けられ、赤ちゃんが連れてこられて、うぶ湯に浸かった。そして、抱き上げられると白い布で拭かれ包まれた。そして母親の元に戻っていった。

「お母さんは今日はうちに泊まっていくしかないが、あんた方はどうするのけ」と老婆が言った。

「いや、私たちはこれで失礼します」と僕が言った。

「そうけ」と言うと、老婆は奥の座敷に行った。

 すると、奥の座敷から亭主が走ってきて、「ありがとうございました」と言った。

「いやいや、困ったときに、助け合うのはお互い様ですから」と風車が言った。

「私たちはこれで失礼します」と僕が言うと「あなた方がいてくださったおかげで助かりました。ありがとうございました」と亭主は言った。

 僕らは頭を下げて、土間を出た。庭の隅に止めてあった台車を取ると、草の生い茂る道を戻っていった。

 

 宿場に着いたのは、少し遅くなった頃だった。

 個室がなかなか取れなかった。それでも、何件か探して、個室が取れるところを見付けると、そこに泊まることにした。

 湯に浸かりながら、風車が「今日は大変でしたね」と言った。

「まったく」

「鏡殿もおきくさんのお腹に赤ちゃんがいるんだから、他人事じゃなかったでしょう」と言った。

 なるほど、そう思うものなのかと僕は思った。

 でも月数からして、きくが赤ちゃんを産むのは、江戸に着いてからだと思った。江戸にはいい産婆もいるだろう。僕は心配はしていなかった。ただ、きくの躰には注意が必要だった。こんなときに、公儀隠密に狙われているのは、困りものだったが、相手がいることだから、仕方なかった。今は向こうが狙ってきているが、そのうち、それもできなくなるだろうと僕は思った。公儀隠密が活動できなくなるほど、壊滅的な打撃をそのうち与えるつもりだった。そうでなければ、江戸に向かう意味がない。このまま現代に逃げてしまえば、追手は来れないのだから。でもそうはしたくなかった。こうまで執拗に狙う相手をこのままにしておくものかという気持ちが僕には強かった。

 

 夕餉の席でも、風車は今日の出産の話で盛り上げてくれた。あの妊婦が苦しんでいたのに、僕が通り過ぎていたのを、風車が声をかけたのだ。現代人は他人を無視するが、江戸時代の人である風車は、放ってはおけなかったのだ。風車のおかげで、あの夫婦はどんなに助かったことだろう。

 僕は風車を見直していた。