十五
門弟がいなくなった道場で、相川小次郎、佐々木大五郎、落合敬二郎、長崎三郎、島村時四郎、沢田熊太郎に稽古を付けた。
六人で半円を作らせて、正眼の構えから小手を狙わせた。六人順番に打たせて、すぐ次を打つように言った。
僕は六人相手にすべて小手を封じた。小一時間ほど打たせた。休みを与えなかったので、六人はグロッキーになった。
「先生は速すぎて無理ですよ」と相川はぼやいた。
「これぐらいの速さに付いてこられなければ、もっと速くなればもっと付いてこられないということになるではないか」
「先生の剣は神業です。私たちとは桁が違う」
「慣れだ。そのうち、私の剣も見えてくる」
次にやる時には、少しスピードを落とそうと思った。剣が見える程度にスピードを落とし、だんだん上げていけばいいと思った。
庭に干してあるおむつをきくが取り込んでいた。きくも躰を動かし始めていた。
風呂に一人で入り、夕餉をとると、座敷に向かった。
やはり、ききょうの所に最初に行った。
ききょうは籠の中にいて、何が可笑しいのか、笑っていた。人差し指を差し出すと吸い付いてくる。それが面白かった。しかし、きくがすぐに止めさせた。
「赤ちゃんはおもちゃじゃないんだから」と言った。
きくはききょうを抱いて寝るようになった。
僕はのびのびと寝られたが、少し寂しくもあった。
次の日、道場に立ち合いたいという者が来た。道場破りではなかった。諸国を回っていて、強いと聞いた道場で一手、手合わせを願って来たのだと言う。それは本心だろう。
会ってみた。諸国を歩いてきたという風情をしていた。強そうにも見えた。
「聞いていたのと違って遥かに若いですな」と男は言った。
「お名前は」
「山中徳之信と申す」
「それで流派は」
「自己流でござる」
「分かりました。立ち合う前に、見て頂きたいものがあります」
近くにいた門弟四人に木刀を持たせて、少し間隔を空けて立たせた。
「彼らの木刀を叩き落として見せます。その瞬間が見えたら立ち合いましょう」
僕は門弟の中心に立ち、蹲踞の姿勢を取った。そして、立ち上がり、木刀を叩く音が響き、再び蹲踞の姿勢を取った。僕は山中徳之信の前に戻ってきた。
山中徳之信は何が起こったのか、分からなかった。木刀は床に落ちていた。
木刀を持っていた門弟は、自分の手を見ていた。ただ、強い衝撃が走り、木刀を取り落としてしまったのだった。だが、その衝撃の走った瞬間が分からなかった。
僕は「見えましたか」と訊いた。山中徳之信は首を左右に振った。
「信じられん。これが人間業か」と言った。
「見えたら立ち合うと言いましたが、それだけ諸国を歩いてきたのだから、一手だけお相手しましょう。その一手はあなたの得意技で来られよ」
僕は道場の中央に立った。
山中徳之信は、右手に木刀を引いた構えを取った。佐伯主水之介の八方剣と似ていた。
利き手から木刀を繰り出してくるのだろう。僕は木刀を上段に構えた。
そして、山中徳之信の方に向かって歩いて行った。山中徳之信は右手の木刀を振り抜いた。僕はそのまま歩き続け、山中徳之信の木刀はあたかも僕の躰を通過していったように見えた。僕は通り過ぎてから振り向いた。
山中徳之信の木刀が向かってくる時に、その木刀が届かないように左に僅かに避け、また元の位置に戻ったのだった。だから、山中徳之信の木刀は空を切った。
そのことは誰の目にも止まらなかっただろう。本当に木刀が触れるか触れないかの瞬間に移動したのだから。
山中徳之信も振り向き、相対した。だが、木刀を振るう前とは、まるで違っていた。
山中徳之信は自分が持つ木刀を触って、信じられないことが起こったとでも言いたいような顔をしていた。
そして「参りました」と頭を下げた。
「今まで出会った中で一番お強い。こんな人がいるなんて世間は広いもんですな」と言った。
木刀を返し、山中徳之信は、道場の神棚に一礼をして帰っていった。
門弟たちが僕の周りに寄ってきた。
誰もが木刀を持って「私の木刀も打ち落としてください」と言った。
相川たちを見たが、その目が、どうぞ、と言っていた。
僕は門弟を型の順番に並ばせて、それぞれ正眼に構えさせた。型の通りに動き、相手の正面に来た時、素早く木刀を打ち下ろした。木刀を打ち落とされた者は、稲妻に打たれたような感じだったろう。それを全員にした。これでは稽古にはならないが、稽古にならない経験をするのも悪くはないだろうと思った。どんなスポーツをする者でも、トッププレイヤーの試合をテレビで見る。そこにたとえ辿り着けなくてもいいのだ。トッププレイヤーの試合を見ることで、自分たちのやっている競技の奥深さを知るのだ。そして、その頂を目指して、僅かな一歩を踏み出していくのだ。
夕餉の時に、御前試合の話が出た。
「七月に行うことになった」
僕は「そうですか」と聞いていた。他人事だと思っていたからだった。
「鏡殿も出ることになった」と家老が言われた時は、箸を落としそうになった。
「えっ」
「藩内随一の腕を持つ者が出なくてどうする」と家老に言われた。
「それは違います」
「どう違うんだ」と家老の嫡男が言った。
「それは」と僕は言いかけて、言葉が続かなかった。
言葉を変えた。
「相手は決まっているんですか」
「ああ」
「誰ですか」
「おぬしと佐伯主水之介殿、おぬしもよく知っている堤竜之介殿、そして斉藤頼母殿の口利きで推挙された竹田信繁殿だ」
「四人ですか」
「そうだ」
「そうですか」
「佐伯主水之介殿は山奉行でな、藩内随一の剣の使い手と言われている」と家老は言った。
僕は立ち合ったこともあるとも言えず、頷いて聞いていた。
「竹田信繁殿については、よく知らぬ。ただ、側用人の斉藤頼母殿が推挙されたのだから、それなりの腕なのだろう」と言った。
もう半月先の話だが、これを聞いた者は長い時間を過ごすのだろうな、と思った。
「勝った者は御師範役に取り立てられる」
えっ、と思った。それじゃあ、仕官することになるじゃないか。それはできなかった。勝つことはできなかった。どう負けるか、考えなければならなかった。
長い半月になりそうだった。