十四
もう六月に入っていた。
二週間が過ぎた頃に、きくに陣痛が来た。取り上げ婆が呼ばれて、その時を待った。盥に湯が張られた。
一刻が過ぎた頃、赤ん坊の泣き声が聞こえた。
僕は、白い布に包まれた赤ん坊を抱き上げた。きくの言った通り、女の子だった。
その子をきくに抱かせた。きくは泣いていた。そして笑っていた。
寝る時は、大きめの籠に白い小さな布団が敷かれて、そこに白い布に包まれた赤ん坊が横たえられた。きくが籠に手を入れて、小さな赤ちゃんの手を握っていた。
そして、いつのまにか籠から赤ちゃんを出して、抱き締めていた。
僕が起きた時は、きくは赤ちゃんを抱いて眠っていた。
習字は得意ではなかったが、仕方がないので、硯と筆を出して、墨で「ききょう」とひらがなで書いて、籠の側に置いた。
庭で木刀を振っていると、「ききょう、ですか」ときくが起きてきて言った。
「そうだ」
「いい名ですね。京介のきょうの字が入っているんですね」と言った後、赤ちゃんに「あなたは、ききょう、ですよ」と言った。
それから「ききょう」と何度も呼びかけた。
道場に出ても、何となく落ち着かなかった。
時々、席を外しては、ききょうを見に行った。
これが自分の子なのかと思うと、感慨深かった。
でも、すぐに高校一年生だぜ、っていう考えがもたげてくる。高一で子どもがいる。考えられなかった。
昨夜の夕餉の席でも、子どもが生まれた話が真っ先に出た。
家老は「男の子なのか、女の子なのか」と訊くので「女の子です」と答えた。
「そうか、女の子か。可愛いじゃろう」
「ええ」
「名はつけたのか」
「ええ、決めております」
「そうか。何と言う」
「ききょうです」
「ききょう、か。いい名だ」
「ありがとうございます」
その後も延々と子どもの話は続いたが、僕はほとんど忘れた。子どもが生まれた際の、この屋敷の仕来りなどのようだったが、後で佐竹に訊けばいいと思った。
きくはきくで大変だったらしいが、まだ子を産んだばかりだというので、女中たちにも遠慮はあったようだ。
三、四日も経つと、女中たちの誰かがききょうを抱いていた。
ききょうは、女中たちに可愛がられた。あまり泣きもせず、よく笑うからかも知れなかった。
僕が、人差し指を差し出すと、吸い付いてくる。それを見ていたきくが、ききょうを取り上げ、「よく手を洗ってからにしてくださいね」と言って、乳首を吸わせた。
きくの乳首は大きくなっていた。そこにききょうが吸い付いていた。
堤道場に行った。子どもが生まれた話をしないわけにはいかなかった。
門の所に、いつものようにたえがいた。絡ます指の時間も長かった。
庭から、桟敷に上がった。
たえがお茶を入れて来た。お腹は大きく膨らんでいた。九月になれば、たえも子を産むのだ。
そこに堤がやってきた。
「女の子が生まれたんですね」
そう言った。
「ええ」
「門弟たちが話していました」
「門弟たちはどこから」と言うと、堤は笑った。
「もう鏡道場と堤道場は選抜試験のおかげで、一緒のようなものじゃないですか。鏡道場の門弟たちから話はすぐに伝わりますよ」
「その鏡道場というのは、止めて頂けませんか」
「でも、みんなそう呼んでいますよ」
「まずいなぁ。あそこは島田家の道場ですから、島田道場というのが正式名称です」
「それなら、そのように看板に掲げられるといい。今のままだと、完全に鏡道場ですから」
「そうですね」
「ところで、お子の名は何とつけられたのかな」
「ききょうです」
「ききょう」
たえがそう口にした後、「京介様のお名前が入っていますね」と言った。
「なるほど、そういえばそうだ」と堤は言った。
「いい名でござるな」
「ありがとうございます」
たえがお腹をさすって「この子は京太郎ですからね」と言った。
「男の子か女の子かわからぬうちから、この始末ですよ」と堤は笑った。
「選抜試験に落ちた者はがっかりしているでしょう」と僕は話題を変えた。
「それはそうですが、三ヶ月に一度ある選抜試験のおかげで、気の緩みなく、皆、稽古に励んでいます」
「そうですか」
「ええ」
「今日は、子どもの話をするつもりだったのですが、堤先生と立ち合いたくなりました」
「私とですか」
「ええ」
「それは構いませんが、何故、急に」
「選抜試験の最中だったのですが、山に入っていったのです」
「山にですか」
「ええ」
「そこに誰かいましたか」
「はい」
「佐伯主水之介殿ですね」
「はい」
「やり合ったのですか」
「はい」
「もちろん、鏡殿がお勝ちになったのでしょうね」
僕は答えなかった。答えなくても堤には分かっていたと思う。
「彼には秘剣がありました」
「ほう」
「それをお見せしようと思います」
「何故、私に」
「さぁ。でも、忘れぬうちに誰かに見せたくなったのです」
「わかりました。拝見しましょう」
道場にいた。
僕は道着に着替えていた。
たえは道場の隅から見ていた。
思えば、堤と立ち合うのは初めてだった。
道場の周りは、門弟が固唾を呑んで見守っていた。
堤は正眼の構えをした。僕も同じく構えた。
しばらく、木刀を持ったまま見合っていた。堤は動かなかった。この点では、佐伯と同じだった。僕が間合いを詰め、剣先が届く範囲で、鍔迫り合いをした。
そして、離れた。
「これからいきますよ」と僕は言った。
堤は頷いた。
佐伯がしたように、僕も木刀を右手に持ち背中に思い切り引いた。そして、半身の構えで堤に相対した。そのまま堤に向かって走った。
僕の半身はがら空きだった。しかし、堤は打ち込んでは来なかった。右手に持った木刀を半円を描くように切りつけていった。
堤は後ろに下がりながら、その木刀をかわそうとした。しかし、僕の木刀の方が速かった。堤はかわせないと思うと木刀を縦に立て、両手で木刀を支えて、僕の木刀を受け止めた。
僕は木刀を引いた。
「お見事でござる」
堤は佐伯流八方剣を破って見せたのだった。僕が最初にやったのと似ていた。
だが、佐伯の八方剣はもっと速い。それを今のように受けきれるかは、やってみなければ分からなかった。ただ、木刀でなく、真剣なら、堤は斬られていただろう。
真剣の方がよりスピードが出るからだった。そして、重い。半円を描くように繰り出されてくる真剣の速さと重さには、堤は届かない気がした。
しかし、一度見た技なら話は別だ。全く知らなくて、佐伯流八方剣を破って見せたのだから、次に佐伯流八方剣に出会った時は、今の堤ではないはずだ。
堤も木刀を引き、お辞儀をした。僕も慌ててお辞儀をした。
「それにしても凄い剣だった。あれが真剣なら、やられてましたな」
堤は分かっていたようだった。
「あのような剣を、一度見ただけで覚えられたのですか」
「いや、一度、だけではありません。二度です」
「二度も」
「はい」
「そして、二度とも破ったのですね」
僕は答えなかった。
道着を着替えて、堤道場を出たのは、午後三時過ぎだったろうか。
佐伯の剣が火とすれば、堤のは水だった。