小説「真理の微笑 真理子編」

二十

 水曜日は午前七時には目覚めた。

 今日が最初の難関だということはわかっていた。ただ、真理子の心の中は醒めていた。心配をするという気持ちは、欠片ほどもなかった。だが、その演技はしなくてはならなかった。七、八時間の演技は、結構疲れるだろう。しかし、今日、それをやり通さなければならなかったのだった。

 午前九時になると、控えめに化粧をしてベージュのスーツを着た。

 鏡の前に立った。

「うん、大丈夫だわ」

 真理子は自分自身を鼓舞するように言った。

 

 病院に着いたのは、午前九時半だった。

 手術までには、まだ三十分もあった。

 六階に上がり、ナースステーションに行った。富岡の妻であることを言い、今日手術があることを伝えた。

「富岡修さんなら、準備があるので、すでに手術室に向かわれています」

「付き添うように来たのですが、何処で待てばいいのでしょうか」

「ちょっとお待ちください」

 真理子が待っていると、間もなく「B棟の四階の手術室で行われますので、そこの受付に行ってください」と言い、B棟への連絡通路が四階と八階にあると言い、そこへの行き方を教えた。

 手術が四階で行われるのであれば、四階の連絡通路を使ってB棟に向かった方が良いと、真理子は考えた。

 エスカレーターで二階下に降り、言われたように真ん中の通路を先に進んでいった。すると、こちらからはB棟と書かれた両開きの自動ドアに出会った。そこを進んで右に回った。すると、受付と書かれたところに出た。

 看護師がいたので、「富岡修の妻です。主人の手術の付き添いに来ました」と告げた。

 看護師は、日誌のようなものを見て、「富岡真理子さんですね」と言った。

「はい」と答えると、ノートにチェックを入れて、「この先を行って最初の角を左に曲がると、大きく1と書かれた手術室がありますから、その前のソファに座って、付き添いをお願いします」と言った。

「そこに座っているだけでいいんですね」

「はい」と言ってから「必要があるときは、看護師がお声かけします」と付け加えた。

 真理子は対応してくれた看護師に頭を下げて、言われた通りに廊下を進んでいき、最初の角を左に曲がると、すぐ近くに扉に1と書かれた手術室があった。

 その前のソファに座った。

 時計を見ると、午前十時少し前だった。やがて、十時になると、手術室の上のランプが点灯し「手術中」と書かれた文字が浮き出すように見えた。

 真理子は自分の手帳を取り出すと、七月十九日の欄に、午前十時手術開始と書き込んだ。

 手術室の前にいても、何もすることがない。急に喉が渇いてきた。飲料水の自動販売機がないか探したが、手術室が並んでいるだけで、それらしいものを見つけることはできなかった。真理子は、受付に行き自動販売機がないか訊いたが、この棟にはないという返事だった。ただ、A棟にはあるので、そちらを利用されたらいかがですか、と言われた。

 真理子の喉の渇きは、意識し出すと、止まらないので、すぐにA棟に向かった。

 目的の自動販売機はすぐに見つかった。天然水と書かれたラベルの飲料ボトルを購入した。そして一口、二口と飲んだ。

 緊張していたのだろう、水を飲むと落ち着いた。

 付き添い用のソファに戻ると、時折、手術室から出てくる看護師に「どうなんでしょう」と訊いたが、「手術中ですので、お答えできません。手術が終わったら、医師から説明がありますので、お待ちください」と言われた。

 真理子は待つしかなかった。

 そのうち、お昼の時間になった。だが、食欲はなかった。

 ただ、ソファに座っているだけというのもさすがに疲れてきたので、気分転換にここから離れることにした。受付に断ってから、A棟の方に向かった。

 A棟の地下一階には、食堂とコンビニがあった。

 コンビニでサンドイッチと缶コーヒーを買うと、中央の広場になっているところにあるテーブルに座った。

 真理子の前のテーブルに親子連れが座った。子どもは小さく、ようやく歩けるようになった頃だろうか。よちよち歩きで、テーブルから離れていこうとするのを、母親が何度も引き留めていた。この光景を真理子は漠然と見ていたが、そのうち羨ましいという気持ちを自分が持っていることに気付くと、テーブルから離れた。真理子は、サンドイッチも食べ終え、缶コーヒーも飲み終えていた。

 時計を見ると、午後一時を少し過ぎていたところだった。まだ、手術室の前に戻る気になれなかった真理子は、コンビニに再び入っていって、並んでいる商品を見て回った。

 シュークリームが目に入ると、急に食べたくなった。それを取るとレジで精算して、さっきの親子からは、離れたところにあるテーブルに座って食べた。そして、食べ終わると、飲み残していた天然水のボトルをショルダーバッグから取り出し、口を注ぐように水を飲んだ。

 手術室の前のソファに座ったのは、午後二時近くだった。

 看護師が手術室から出てきたが、今度は尋ねることはしなかった。何か用があれば、向こうから声をかけるはずだと思った。

 手帳を広げてみたが、明日以降は空欄だった。二十五日のところに、顔形成手術と書かれているだけだった。

 八月の頁を開いて、八月十六日水曜日の欄にTS-Word六千ロット発売と書き、矢印を引いて、四千ロット追加と書き込んだ。

 

 手術は午後五時過ぎに終わった。中からストレッチャーに乗せられた包帯だらけの富岡が出てきた。

 ストレチャーの両側に看護師がいた。その後に、マスクを外しながら上森が出てきて、真理子の前に来ると「私が医師団を代表してご説明します」と言った。

「はい」

 真理子は背筋を伸ばした。

「ご主人の手術は成功しました。こちらの予定していた通りに、大変、上手くいったと言ってもいいです」

 そう上森が言ったので、真理子は頭を下げながら「ありがとうございます」と言った。頭を下げる時に、涙腺を刺激して、顔を上げた時には、目から涙を流していた。

「とは言っても予後の経過は注意深く見ていかなければなりません。特に感染症には注意が必要です。しかし、心配しないでください。うちには優秀なスタッフがついていますから、万全を期します」

「わかりました。本当にありがとうございました」

 真理子は再び、頭を下げた。その真理子の横を上森は通り過ぎていった。

 

 A棟の六階に上がると、ナースステーションの前に行った。

 看護師に「富岡修の妻です」と言ったら、「今、富岡さんは手術室から戻られたばかりですから、まだ看護師が作業をしているので、少しお待ちください。それからこのマスクをして頂けますか」と言って紙製のマスクを真理子に渡した。

「術後は病原菌に感染しやすいものですから、入室時には必ず、手指の消毒を行ってください。それから、あまり近づかないようにお願いします。また、面会時間も十分程度にお願いします」

「わかりました」

 病室から看護師が出てきた。

「入室されても良いですよ」

 真理子は、マスクをした姿で、入口にあったアルコール消毒液を手に取って消毒をしてから、中に入っていった。念のためなのか、看護師も続いて入ってきた。

 富岡の様子は包帯で包まれているのでわからなかったが、前と変わらないように見えた。

 看護師が真理子の耳元で、「見事な手術でしたよ」と言った。「感染症に気をつければ、順調に回復すると思います」と続けた。

 真理子は「ありがとうございます」と言った。

 面会時間は十分だったが、それで十分だった。富岡の手術は成功したのだ。

 真理子が帰ろうとすると、「当分、マスク着用でご面会ください」と看護師から言われた。

「わかりました」

 そう答えると、真理子はエレベーター室の方に向かった。