小説「僕が、警察官ですか? 2」

「今日は近藤さんは使わないんですか」

 きくがそう言った。

「ああ」

「どうしてですか」

「きく、もう一人子どもが欲しくはないか」と僕は訊いた。

 きくは、「わぁ」と言って、僕に抱きついてきた。

「欲しいです。何人でも」と言った。

「そうか。じゃあ、ききょうや京一郎に弟妹を作ってやろう」

 きくが唇を重ねてきた。

 僕はその口を激しく吸った。

 

 次の日、僕が安全防犯対策室に入っていくと、全員揃っていた。係長の緑川が「今日もよろしくお願いします」と言った。

 僕は「ああ」と答えながら、自分のデスクに座った。

「で、今日の予定は何」と僕は、緑川に訊いた。

「特にありませんが、来週火曜日、午前十時から予定されている花村幼稚園の安全防犯対策キャンペーンの打ち合わせをします」と言った。

 花村幼稚園は、かつて京一郎が通っていた幼稚園だった。

「誰が行くの」と僕は訊いた。

「私と鈴木浩一と並木京子の三人です」と言った。

「どんなことをするのか決まっているの」と訊くと、「例年ですと、ちょっとした寸劇をして、こんなことがあったら、親や幼稚園の先生などに話しなさいといったことだったと思います」と答えた。

「そうか。よろしく頼む」と僕は言った。

 デスクの上は、いろいろな書類で埋まっていた。大した事柄でもないのに、いちいち決裁をしなければならない。

 僕はそれらの書類を大して読みもせずに、決済印を押していった。

 

 昼が来た。僕は愛妻弁当と水筒を持って屋上に上がっていった。弁当を持ってきている者は、大抵ここに来る。課長クラスが来ることは滅多になかった。しかし、僕が赴任してきてからは、僕がその一人になった。僕は角の空いているベンチに座った。水筒を足元に置き、膝の上で愛妻弁当を開いた。

 チキンライスだった。ハート型に作った目玉焼きが一つ載っていた。それをスプーンで慌てて崩して、僕は食べた。何のレシピを使っているのか、きくが作る弁当は大抵美味しかった。

 ほうれん草をソテーした物を口にしていると、「ここいいですか」と若い巡査らしい者が隣の席に座ろうとしていた。

「いいよ」と言うと、彼は僕の横に座った。

「鏡警部ですよね」と彼が言った。

「君は誰。そして、どうして私の名を」と訊いた。

「僕は捜査一課の神原一樹です。鏡警部を、知らない者はこの署にはいません」と答えた。

「どうして」と訊くと、「それは……」と神原は口を濁した。

「いいから言えよ」と僕は言った。

「キャリア警部がわざわざ黒金署に来られたからです」と言った。

「どこに配属されたいか、と訊かれたので家から通える所を、と答えたまでだ」と僕は答えた。

「それで大変だったんですよ。黒金署は大して大きい警察署でもないし、警部に見合うポストがあるわけでもありませんから」と言った。

「そうか」

「ええ。だから、安全防犯対策課なんていう新しい課まで作ったんですよ」と言った。

「まあ、私にはお似合いだ」と僕は言った。

「でも、普通は地方警察の捜査一課クラスの課長になりますよね」と神原は訊いてきた。

「家から歩いて通えることを優先したからさ」と僕は答えた。四谷五丁目の家から、黒金署までは、大体、歩いて、三十分ほどだった。

「それなら西新宿署だってあるじゃあないですか」と神原が言った。

「私の家がどこにあるのか、知っているのか」と訊くと「四谷五丁目でしょう」と答えた。

「どうしてそれを知っているんだ」と訊くと、「新しく来る警部以上の自宅がどこにあるかぐらいは調べますよ」と答えた。

「そうか」

「でも、どうして黒金署なんですかね」と訊いてきた。

「それは上に訊いてくれ。西新宿署にポストの空きがなかったからだろう」と答えた。

「そうですか。失礼しました」と神原は弁当を広げずに立ち去って行った。

 僕はゆっくり、きくの作ってくれた弁当を食べた。

 

 午後になって、署長に呼び出された。階級は一つ上だった。僕が赴任してくるまでは、同じ階級だったが、定年間近になり階級が上がり署長になった。それまでの署長は地方のもう少し大きな警察署の署長になっていった。

 副署長もいた。

 僕はソファにかけるように言われて座った。

 女子巡査がお茶を運んで来た。

「どうだい。居心地は」と訊いて来た。

「申し分ありません」と答えた。

「そうか。所轄署を指定しなければ、北青森署の捜査一課に課長として行くはずだったんだが……」と言った。

「いえ、初めて聞く話です」と応えた。

「そうか。初めてか」と呟くように言った。

「で、どうして黒金署を選んだのだね」と訊いた。

 神原と同じことを訊くと思った。

「私が選んだわけではありません。家から歩いて通えるところを希望しただけです」と答えた。

 すると神原と同じように「だったら、西新宿署があるじゃないか」と言った。あっちの方が格が上だし、と言わんばかりだった。

「上からの意向ですから、私がどうこうするという話ではありません。しかし、この地区は好きですよ」と応えた。

 すると、副署長が「何か黒金高校とは過去にいざこざがあったようだが、そこの出身者が多い黒金組とは因縁でもあるのか」と言った。

「いいえ、特には」と僕は嘘を言った。ヤクザと因縁を持っているのは、警察官としてはタブーだったからだ。

 署長が「来週は、花村幼稚園にキャンペーンに行くことになっているようだな」と訊いた。

「はい、そうです」と答えた。

「しっかり、やってくれたまえ。幼児たちを相手にするのは、大変だと思うが」と言った。

「分かりました」と応えた。

 そこで会話が途絶えたので、「他に用がなければ、私はこれで」と言って僕はソファから立ち上がった。

「ああ」と署長が言ったので、「失礼します」と言って、署長室を出て来た。

 署長室を出るなり、何だったんだろう、これは、と思った。

 

 だが、相手から見れば、不思議だらけだったんだろう。黒金署はちっぽけな署だ。誰もが行きたがらない署の一つでもある。それにちっぽけな署だから、警部に相応しいポストもない。今いる課長を追い出すこともできない。受け皿として、仕方なく新しい課を作らざるを得なかった。そこに毒にも薬にもならない課が作られ配属されたのだから、何かあるのだろうと思うのが自然だ。

 でも、僕は答えたとおり、何もなかった。家から歩いて行けるところに配属されればいいと思った。西新宿署を考えないわけではなかったが、ポストがないのでは仕方なかった。黒金署に新たに安全防犯対策課を設け、そこに配属されると聞いた時には驚いた。しかし、治安の良くない所にある割には、西新宿署ほど忙しくはない。こぢんまりとした、自分にはお似合いの署だと思った。

 

 安全防犯対策課に戻ると、緑川が「どんな用でしたか」と訊いてきた。

「何、世間話さ。ここの居心地はどうかとか、何とか、そんな話だった」と答えた。

「そうですか」と言うと、緑川は去年のパンフレットを見せた。そして、今年の物も合わせて出した。

「パンフレットはもう印刷しないと間に合わないので」と言うので「任せるよ」と応えた。

「わかりました」

 僕は椅子に座ると、手元の書類を取り上げた。

 その時、あれっと思った。安全防犯対策課は今年からできた部署だよな。それなのに、どうして、去年の広告やパンフレットがあるんだ。去年はどこがやったんだ。

「なぁ、去年までそのキャンペーンはどこでやっていたんだ」と訊いた。

 緑川が「交通安全課でした」と言った。

「そこの仕事がこっちに回ってきたのか」と訊くと、緑川が「はい」と答えた。

 そうか。出来たての部署だから、仕事がない。だから、回ってきたのか、と思った。

 安全防犯対策課らしい仕事を考えないといけないな、とも思った。