小説「僕が、剣道ですか? 7」

    僕が、剣道ですか? 7 

                           麻土 翔

 

 秋も過ぎ、寒さが増してきた頃だった。

 みねは、年若いきくをたてて、二人は仲良く炊事をしていた。

 もうすぐ朝餉だった。

 みんなが、卓袱台の前に座った。僕が「頂きます」と言うと皆が「頂きます」と言って箸を取った。

「風車殿、昨日はどうでした」と僕が訊いた。

 みねが風車の方をちらっと見た。

「それはもう……」と風車は言っただけだった。

 僕は「これは野暮でしたね」と言った。

 きくが箸を口元に持っていき、笑いを隠した。

 食事が進んでいたところで、風車が真面目な顔をして「こうして住まわせてもらっているのは、いいのですが、何もしないでいるというのはどうも心苦しくてなりません」と言った。

「今までと同じでいいですよ」と僕が言うと「それでは、どうも居心地が悪くて……」と風車が言った。

「風車殿は変なことを言われますね。私がいいって言っているでしょう」と僕が言うと「そうなんですけれど、何かしたいんですよ」と言った。

「そうですか」と僕は考えた。風車は剣の腕は立つ。ここに道場があれば、道場を開けばいいが、道場はない。それに江戸には、いくつもの道場がある。今更、道場を開いても、門弟が集まるだろうか。それが駄目だとすると……、と考えていて、寺子屋という考えが頭に浮かんできた。風車は達筆だ。習字をさせればいいのではないか。

「字を教えてはどうですか」と僕が言った。すると、みねが「筆学所ですね」と言った。

「筆学所というのですか」と僕がみねに訊いた。

「はい。吉原でも教えている人が来ますが、その人は筆学所と言っていました」と言った。

「では、筆学所を開きましょう。門にそう貼り紙をすれば、習いに来る人もいるでしょう。朝餉が済んだら、早速、その準備をしましょう」と僕が言うと、風車は途惑ったように「はぁ」と言った。

 

 門に「筆学所」と書いた紙を貼った。

「これで教わる子が来るのでしょうか」と風車が言った。

「分かりません。ともかくやってみようじゃないですか」と僕は答えた。

 すると、すぐに八歳ほどの男の子が来て、「ここで文字を教えてもらえるんですか」と僕に訊いた。

「そうだが、教えるのは、私ではないよ。こちらの先生だ」と風車の方に手を向けた。

「こちらが先生ですか」

 風車は困ったような顔をしたが、すぐに頷いた。

「束脩(そくしゅう)(入門料)と儀謝(ぎしゃ)(月謝)はいくらですか」

「束脩はいらない。儀謝は月ごとにもらうから、月謝と呼ぼう。一分ということにするがどうかな。親と相談して来なさい」と風車が言った。

 男の子は頭を下げて走って行った。

「束脩は取らないんですか」と僕が風車に訊いた。

「そんなもの、取れませんよ。月謝だって、少し多めに言ってしまったかなと思ったくらいです」と答えた。

「どんなことを教えるか、考えておいた方がいいですよ。あの子が来たら、教えなくてはなりませんからね」と僕が言うと、「そうですね」と風車は真剣な顔になった。

 

 半刻もすると、さっきの男の子がもう一人少し小さい男の子を連れてきた。その後ろに母親と思える人がついてきた。

 表座敷に上げ、風車が応対した。僕が席を外そうとすると、袖を引っ張られた。

 みねがお茶を運んできて、座卓に置いた。

 母親が話し始めた。

「わたしどもは両国の和菓子をやっている富士というものです。わたしはとみと言います。富士にとみですから、よくからかわれます。この子は、長男が修太郎、次男が修二郎です。八歳と六歳です」

 風車は一々頷いていた。

「この子たちに、文字を教えたくても時間が取れなくて、そのままにしてきましたが、ここに筆学所があると修太郎に聞いたので、見に来たのです」ととみは言った。

 風車が何も言わないので、僕が「そうですか。筆学所は今日から始めたところなんですよ」と言った。

「そうなんですか」ととみは不安そうに言った。

 とみの不安が分かるので、僕は「何事にも始めはあるでしょう。ここもそうです。あなた方は最初の門弟になるかも知れない人たちです」と言った。

「はぁ」ととみの不安はさらに深くなったようだった。

 隣で硬くなっている風車に僕は言った。

「風車殿。いや、風車先生、硯と墨と筆と紙を用意してください」と言った。少し緊張を解いた方がいいと思ったのだった。

 風車が立って、離れに硯と墨と筆と紙を取りに行った。

「儀謝については、聞いていますか」と僕はとみに言った。

「月に一人一分だと修太郎から聞いています」

「それについては、どう思いますか」と僕は訊いた。

「ちゃんと字を教えてもらえるなら、そのくらいはと思っています」と答えた。

 僕は修太郎、修二郎に「毎日、来られるかな」と訊いた。

 二人は頷いた。

 風車が硯と墨と筆と紙を持ってやってきた。

「水を」と僕が言うと、風車はみねに硯に使う水を持ってくるように厨房に向かって言った。

 みねが小さな水差しに水を入れて、持ってきた。

「百聞は一見に如かずでしょう。今、風車先生がこの紙に文字を書きますから、それを見て頂けますか」と僕がとみに言った。

 とみは頷いた。そして、風車はどういうことになっているのかは分からなくても、自分が文字を書かなくてはならないことは分かったようだった。

 僕は風車の邪魔にならないように、茶碗をどかした。風車は硯に水を垂らして、座卓の上で墨をすった。

「風車先生に何て書いてもらいますか」と僕はとみに訊いた。

「では、うちの店の名前である富士屋と書いてもらえませんか」と答えた。

 風車は墨がすりあがると、筆を硯につけて、紙に大きく富士屋と書いた。達筆だった。

「どうです」と僕がとみに訊いた。

「お上手ですね」と答えた。

「そりゃあ、筆学所の先生ですから」と僕が言うと、とみは「失礼なことを申してしまいました」と言った。

 僕は笑った。

「あの先生は代筆も得意ですから、必要な時はどうぞ」と言った。すると、とみは袖で口元を隠して笑った。そして、胸元から、財布を取り出して、二分、座卓に置いた。

「よろしくお願いします」ととみは言った。

「時間はどうしますか」と僕がとみに尋ねた。この問いは風車にもしているつもりだった。

「何時から始められるんですか」ととみが訊いた。

「いつからですか」と僕は風車を向いて、とみの問いを繰り返した。

「いつ来られる」と風車が訊くと、修太郎と修二郎は、「いつでも」と答えた。

「だったら、朝餉が済んだら来るといい」と修太郎と修二郎に言った。

「今のところ、二人だけだから、昼餉まで学んで昼餉にいったん帰って、昼餉が済んだらまた来てもいいし、昼餉の後どうするかは、これから考えよう」と風車は二人に言った。その声はとみにも届いていただろう。

「風車先生、二分いただきましたよ」と僕は座卓の上の二分金を示した。

「これはどうもありがとうございます。では、明日から来てください」と風車はとみに言った。

「わかりました。よろしくお願いします」ととみは風車に頭を下げた。

 

 三人が出て行くと、風車は深く溜息をついた。

「さあ、風車先生、明日の準備をしなくちゃ」と僕が言った。

「何をしたらいいんですか」と風車が僕に訊いた。

「まず、ひらがなの読み書きを教えて、それから漢字を教えたらどうでしょう。あっ、それから、あの二人には、自分の名前を漢字で書かせる練習もさせるといいでしょう。そうすれば、きっとあの二人は母親に書いて見せたくなるでしょう」と僕は言った。

 どこでも、教育に関しては、母親が主導権を握っているんだから。