六十一
会社に戻るとしばらくは由香里の事が頭を離れなかった。
由香里は道路まで出て、介護タクシーが角を曲がるまで手を振っていた。顔や全体の感じは違っていたが、何となく夏美を思わせる雰囲気を由香里は持っていた。「わたしは今のあなたが好き」という言葉も、本来なら危険な言葉だったが、夏美が言っているような錯覚に陥った。だから、キスをしながら、夏美としているような気分になった。口を何度も重ね、そのうちに私は涙を流していた。
「泣いているの」
私は涙を流している事も分からなかった。だから、由香里に指摘されて、私は慌てて「いや、嬉しいのさ」と言った。
そう言うとまた由香里はキスをしてきた。私はその唇に、はっきりと夏美を思い描いていた。「あなたの唇が恋しい」という夏美を哀しいほどに思い描いていた。
高木が入ってきた。
「社長、明日は忘年会ですな」
「そうだね。私は挨拶をしたら抜けるから後は頼んだよ」
「そういきますかね」
「何だよ、何があるっていうんだ」
「いえ、私もわかりませんが、秘書室あたりで何か企んでいるような……」
「おいおい、脅かすなよ」
「去年は社長はマジックをされたんですよ」
「そうなのか」
「何もしないで帰るってのは難しいんじゃないですかね」
「一難去って、また一難か」
「何か言いましたか」
「いや、独り言だ」
「あっ、これ、社長が言っていた新製品のアイデアの企画書です」
高木が来たのは、これを持ってくるためだったのだ。
「そうだったな。目を通しておくよ」
「では、失礼します」と言って出て行った。
高木が出て行くと、企画書を開いた。すでに了承している案件だったが、内容を確認したかったのだ。
トミーワープロのバージョンアップは当然として、グラフィックソフトはまだトミーソフト株式会社から出していないから、製品としては魅力的だった。
それと、ユーティリティソフトとして、文書変換ソフトは今すぐにでも欲しいソフトだと思えた。パソコンでワープロソフトが使われ出しているが、まだワープロ専用機の方が断然数が多かった。当然、それぞれのワープロ専用機のファイルは別のワープロソフトでは読み込む事ができないか、読み込んでも文字化けを起こすしかなかった。ワープロ専用機の中には、文字データだけをテキストファイルに保存できるものもあったが、文字データが使えるというだけで文書形式そのものは使えなかった。しかし、文書変換ソフトはそれを解消するというものだ。Aというワープロ専用機で作成した文書も、Bというワープロソフトで作成した文書も、トミーワープロの文書形式に変換するのだ。これは便利なソフトだと思った。変換対応機種が増えれば、それだけ利用価値が上がるだろう。
私はトミーワープロのバージョンアップ版とグラフィックソフト、そしてこの文書変換ソフトに判を押し、次のプロジェクトはこれでいく事にした。
六時過ぎに真理子が迎えに来た。
「ようやく終わったわ」
「そうか」
「結構、大変だったわ」
「そうだろうね」
「でも綺麗になったわよ」
玄関を入ると、まず廊下がピカピカだった。室内用の車椅子に乗り換え、まず一階から見ていった。トイレもバスルームも綺麗だった。寝室は真理子がいつも掃除しているから分からなかったが、エアコンはかなり汚れていたそうだ。
二階に上がると、リビングもダイニングもキッチンも整然としていた。
床は文字通り磨いたようだった。
私は自分の書斎に入った。
本棚のガラスが綺麗に拭かれていた。富岡の指紋がついていそうで嫌だったのだ。
夕食はとる事にした。私は由香里のところで結構食べてきたので、あまり食欲はなかった。だから、寿司にした。
「退院してきた時と同じね」と真理子が言った。
「ああ」と答えながら真理子の方を見ると、その目の奥が怪しく光っているように感じた。