小説「真理の微笑 真理子編」


 意気盛んに会社に出向いていった割には、自分は何をしていたのだろうという反省しか思い浮かばなかった。
 訳もわからないソフトの制作にGOサインを出したほかは、金庫を開けてみたり、これもよくわからず書類を読んではただ判を押してきただけのことだった。
 何か役に立つようなことをしてきた感じが、全くしなかった。
 そう言えば昼食もとってはいなかった。
 高木が「何かとりますか」というようなことを言っていたような気がするが、「いりません」と応えたような覚えが微かにするだけだった。
 しかし、家に戻ってみると、ただ会社にいただけなのに、随分と疲れた感じがした。慣れない所に行ったせいもあるだろう。
 昨日から、食事らしい食事をとっていなかったので、何か食べなくちゃ、とは思ったが、食欲は全く無かった。それでも野菜ジュースだけは飲んだ。

 いつ眠ったのか、記憶が無かった。時計を見ると、午前十時を過ぎている。かなり寝坊をしたことになる。
 昨夜は午後八時頃眠ったから十四時間も眠っていたことになる。
 それほど、この一週間は疲れていたのだ、と真理子は思った。
 富岡を蓼科に見送ったのが、やはり午前十時頃だったと思うと、この一週間に起きた出来事は、思えばあっという間に過ぎ去っていたような気もした。
 起きてシャワーを浴びている間に、ふと蓼科の別荘に行ってみようと思い立った。途中で、富岡が事故を起こした現場も通りかかるだろう。そこも見てみたい気がした。
 別荘に泊まるわけではないので、軽装に、少し寒くなってきた時のために簡単に羽織れるものを鞄に詰め込んで、車に乗った。もちろん、別荘の鍵も持った。
 車を飛ばして四時間ほどで別荘に着いた。途中でロープに張られた事故現場も通ってきた。降りて見てみたが、険しい崖になっていて、富岡が引っ掛かっていたと思われる木々は見つけたが、どれかはわからなかった。
 別荘に入ったのは午後三時頃だったろう。
 鍵を開けて入ると、サンダルと運動靴が見えた。富岡は別荘に来ると、午前中にランニングをするのが趣味のようになっていたので運動靴はそのためにあった。
 次に下駄箱を開いてみた。そこには富岡の革靴が入っていた。その瞬間から何か違和感を覚えた。富岡は車を運転していて事故を起こしたのだ。夜のドライブを楽しんでいたのかも知れないが、運動靴も残っているのだから、下駄箱に革靴が残っているということは、靴を履かないでドライブをしたということなのだろうか。サンダルさえも残っている。しかし、そんなことは考えにくかった。では何を履いて車を運転したのだろう。
 玄関でローヒールを脱ぎ、中に入ってみた。居間のテーブルにブランデーの瓶とコップが見えた。長ソファを回り込んで居間に入ると、テーブル近くの少し大きめの椅子に座って、ブランデーを飲んでいる富岡が見えるようだった。しかし、変だな、と真理子は思った。電話で警察官と話した時には、確か富岡の体内からはアルコールが検出されなかったと言っていたような記憶がある。
 しかし、今、この状況を見ると、富岡はブランデーを飲んでいたように思える。
 真理子は立ち上がると窓に向かった。どの窓にも鍵がかかっていた。二方向に床につくまでの広い窓があるのだが、そのいずれの窓も閉められ、鍵がかけられていた。玄関を入ってくる時も鍵を開けて入ってきたことは覚えている。
 ということは、富岡は窓の鍵も締め、玄関の鍵も締めて車で出かけたのに違いなかった。だが、靴を履いていなかった。これは一体どういうことなのだろう。
 机の上に視線が向かった。何かがあった。近づいてみると手帳だった。いつも持ち歩いている聖書サイズのバインダー型の手帳だった。これを残して東京に戻るということはあり得なかった。
 そう思っているうちに、クローゼットを開けてみた。そこには富岡の服が掛けられていた。ジャケットとズボンだった。
 ジャケットの中を探った。財布と運転免許証の入ったケースが出てきた。ズボンを探ってみた。キーホルダーが無かった。キーホルダーは普段はズボンのポケットに入れていた。
 クローゼットの下の引出しを開いてみた。運動着が畳まれたままの状態で入っていた。
 無くなっているのは、パジャマ代わりにしていたTシャツとスエットのズボンだった。
 ということはTシャツとスエットのズボンで車を運転していたというのだろうか。財布も免許証も持たずに。
 それは変だった。あの運転に関しては几帳面な富岡が、免許証も持たず、しかもブランデーを飲んで運転をするなんて考えられなかった。財布も持ってはいなかったのだ。
 何かがおかしい。しかし、家は全て鍵がかけられていた。誰かが出入りした形跡は無かった。やはり、富岡がTシャツとスエットのズボンで車を運転していたということなのだろうか。だが、何も履かずに運転していたなんてことは考えられない。
 一体、これはどういうことなのだろう。
 考えてもわからなかった。
 真理子はブランデーを棚に戻すと、コップを洗い、食器棚に入れた。
 それからクローゼットから富岡の服を取り出すと、畳んで鞄の中に入れた。それと机の上にあった手帳はハンドバッグに入れた。
 靴も袋に詰めて鞄の中にしまい、サンダルと運動靴は靴箱にしまった。
 どうしてそんなことをしたのか。理由は自分でもわからなかった。
 不自然だと思ったものを全て持ち帰ろうとしただけだった。

 午後五時になろうとしていた。真理子は別荘を出ると、鍵をかけ、鞄をぶら下げてポルシェに乗った。
 まだ暗くはなっていなかった。しかし、山の夕方はすぐ暗くなる。暗くなる前に山を下りようと思った。
 家に辿り着いたのは午後九時を過ぎていた。途中で夕食をとったので時間がかかったのだった。
 車を走らせている間も、謎だらけの別荘のことが頭から離れなかった。別荘は特に何か荒らされていたとか、人が争ったとか、そういう感じはまるでなかった。
 言ってみれば、ブランデーを飲んでくつろいでいる富岡が、突然、あの別荘からいなくなって、靴も履かずに夜の坂道をドライブをしていたということだけだった。
 しかし、そんなことは考えられなかった。
 何かがあったのだ。
 あの別荘に入って、サンダルと運動靴を見た時、何か違和感を抱いた。富岡は変なところで几帳面だった。もし、別荘を離れて東京に戻ってこようとしていたのなら、サンダルと運動靴は下駄箱にしまうはずだった。
 次に来た時、何もない玄関を見るのが好きだったからだ。そこにサンダルや運動靴が置きっぱなしになっているとは思えなかったのだ。そして、下駄箱を見たら革靴がきちんと入っているではないか。
 何も履かずに夜の山道をドライブするとは、到底考えられない。しかし、今日見てきたことはそれ以外に説明がつくものではなかった。
 それに手帳が机の上に載ったままだったのも変だ。
 都内に入ってからは、考えることをやめた。これ以上考え続けていたら、事故を起こしそうだったからだ。
 家に入って、鞄の中身を開けた。富岡の服に革靴が出てきた。本来なら、それらを着、そして履いて運転しているはずなのだ。だが、実際はそうではなかった。今、見ているものは幻ではない。確かにここにあるのだ。これは一体、どうしたことなのだろう。
 真理子の頭は、解けない謎に包まれて溺れてしまいそうになっていた。