二十七
パンケーキは美味しかった。
峰岸康子も泣き止んで、パンケーキを食べ始めた。すぐに「美味しい」と言った。
秀明もパンケーキを食べた。
「本当だ。美味しい」と言った。
岸田信子はホッとしたように、パンケーキにナイフを入れた。
「凄くふんわりとしていますね。こんなパンケーキ食べたことがありません」と岸田信子は言った。
「そうでしょう。でも、私も食べるのは初めてなんですよ」と言った。
パンケーキを食べることで場も和んできた。
パンケーキを食べ終わって、皿が片付けられたところで、僕は話をし出した。
「お姉さんは君のことを心配していたんだ」と僕は秀明に言った。
「僕のことは心配してくれなくても、ちゃんとやって行けるよ」と秀明は言った。
「それでも心配するのが、姉弟というものだ」と僕は言った。
「時系列で考えてみよう。三ヶ月前に君は峰岸康子さんと会ったんだよな」と僕は秀明に訊いた。
「そうです」と言った。
「それから二ヶ月後に、峰岸康子さんのお母さんの病気が分かった。これは不運だったとしか言いようがない。峰岸康子さんは動揺したでしょう。大事なお母さんが重篤な病気に罹ったんだから」と言った。
「はい。心配で眠れませんでした」と峰岸康子は言った。
「そうでしょうね。この病気は根気よく治すしか方法がありません。先進医療に頼るのは仕方ないでしょう。でも、お金がない。だから、秀明さんに相談したんですね」と言った。
「ええ」
「で、君はいくらかかるのか、訊いたんだね」と僕は秀明に訊いた。
「そうです」と答えた。
「峰岸康子さんから、二百万円ぐらいかかると聞いたんだね」
「はい」
「それで預金を下ろそうと思ったんだね」
「ええ。通帳は姉に預けていたので、どうしてお金が必要なのか、問い質されました」と秀明は言った。
「なるほど。それで峰岸康子さんのことを話したのか」
「そうです」と秀明は言った。
「それを聞いたお姉さんは、結婚詐欺だと思った訳か。こんな話を聞けば、誰だって結婚詐欺だと思うね」と僕は言った。
「峰岸康子は決して結婚詐欺をするような人じゃない」と秀明は言った。
「それは会ってみて分かった」と僕は言った。
「どうすればいいんでしょう」と岸田信子は言った。
「病気のことは病院に任せるしかないでしょう。まず、お金のことですよね。当面、必要なのは、入院保証金の十万円だけだから、何とかなるでしょう。でも、先進医療費の方はなんとかしかなくちゃなりませんね」と僕は言った。
「そうなんです」と峰岸康子は言った。
「保険は利かないの」と訊いた。
「癌保険には入っていないんです。他の保険も入院費と手術費は何とかなるんですが、先進医療費の方はどうにもなりません」と峰岸康子は言った。
「そうだとすると、入院費と手術費が保険で何とかなるんだったら、先進医療費の方だけだね。これは、峰岸康子さんの貯めていた結婚資金と秀明さんの預金で足りるかどうかは、病気次第だね。いくら必要なのかは、先生にちゃんと話を聞いた方がいい。全額一度に払えなければ、病院にもローン払いができるところもあるから確認するといい。それでも駄目なら、借りるしかないが、幸い家は借家じゃない。家を担保に低金利でお金が借りられる。これはいくら治療に費用がかかったか確定してから、お金を銀行から借りる手続きをすればいい。ある程度のまとまった額は借りられるはずだ。二人で返していけば、それほど返し終わるのに時間はかからないよ」と僕は二人に言った。
「そういうことなら、わたしもお金を出すわよ」と岸田信子が秀明に言った。
「とにかく、峰岸康子さん。水商売のバイトなんて考えちゃ駄目だ。お母さんの見舞いにも時間が取れなくなって行けなくなるぞ」と僕は言った。
「わかりました」と峰岸康子は言った。
それから二人はそわそわし出した。
秀明が「僕ら、先に帰っちゃいけないかな」と言った。
「鏡さんに失礼でしょう」と岸田信子は言ったが、僕は「構いませんよ。もう話は済んだことだし」と言った。
「では、先に失礼します」と言って二人は出て行った。
「しょうのない子たちですね」と岸田信子は言った。
「でも良かったじゃないですか。結婚詐欺じゃなくて」と僕は言った。
「ええ、事情がわかって、ホッとしました。鏡さんのおかげです」と岸田信子は言った。
岸田信子が心持、躰を寄せて来た。並んで座っているので、僕は少し気になった。
「後は峰岸康子さんのお母さんの病状次第ですね。良くなればいいんですけれどね」と僕は言った。
「そうですね」と岸田信子は言った。
峰岸康子の意識を読み取った限りでは、信子の肝臓癌の進行度はステージ三か四だった。ステージ四なら、基本的には抗がん剤の投与と放射線治療になる。転移しているということだから、ステージ四かも知れない。とにかく、かなり重い症状だった。
峰岸康子は母親と二人暮らしだったから、母親の存在が大きいのだろう。だから、安易に夜のバイトも考えたのだ。峰岸康子の心は揺れ動いている。とすれば、岸田秀明が峰岸康子を支えていかなければならない。
岸田秀明が峰岸康子を愛していることが分かったので、最悪のときには、岸田秀明が峰岸康子に付いていてやる必要があった。
おそらく、治療費の清算をする時がその時なのかも知れなかった。
「わたしは気を回し過ぎたんですね」と岸田信子は言った。
「この状況なら、気になるのも当然ですよ。それより、峰岸康子さんのお母さんのことが心配ですね」と言った。
「そうですわね」と岸田信子は言った。
「二人のことは見守ってやっていてください」と僕は言った。
岸田信子の不安をかき立てるようなことばかりを言ってもしょうがなかったからだ。
「そうします」と岸田信子は言った。
「出ますか」と僕が言った。
すると、岸田信子は「もう少しだけ、こうしていていいですか」と言った。
「構いませんけれど」と答えるしかなかった。
それから三十分ほどして店から出た。
会計は僕が払うと言ったが、「お呼び立てをしたのはわたしですから」と言って、岸田信子が払った。
「ごちそうさまでした」と言うと「こちらこそ、ありがとうございました」と岸田信子は言った。
店を出た所で別れた。
僕は歩いて、家まで帰った。
途中でショートケーキを三つ買った。きくとききょうと京一郎の分だった。
家に着くと、きくが出迎えてくれた。
ショートケーキの箱を渡した時に、すうっと肩のところに鼻を寄せて匂いを嗅いだ。
「女の人と会って来たんですね。肩から良い匂いがしますよ」と言った。
「そんなんじゃないよ」と言った。
すると、ショートケーキの箱を目の前に突き出して、「これが怪しいじゃないですか」と言った。
きくには隠し事はできないな、と思った。
「確かに会ったけれど四人でだ」と言った。
「四人で会ったんですか」ときくが言った。
「そうだ」
「どんな話をして来たんですか」ときくは訊いた。
僕はおおよそのことは話した。
「そんな相談をあなたにするなんて、その女、おかしいですよ」ときくは言った。
「そうか。心配していたけれどな」と僕は言った。
「そういう甘いところにつけ込まれるんですよ」ときくは言った。
「別につけ込まれてはいないけれど」と僕は反論した。
「そういうのが、女の手なんです」ときくは言った。
「参ったな」と僕は言った。
「どうせ、美味しい物を食べて来たんでしょう」と言った。
「確かに美味しかったから、きくも連れて行くよ。子どもが生まれたらね」と言った。
「わたしはいいですよ、そんなお店」ときくは言った。
「そんなこと言うなよ」と僕は言った。
その時、子どもたちが出て来た。
助かったと思った。
「ショートケーキ、買って来たぞ」と言うと「わーい」と喜んだ。
「きく、早く食べさせてやってくれ」と言った。
「もう、その女の人とは会いませんね」ときくは言った。
「会わないと思う」と言った。
「会いませんね」ときくは繰り返した。
「会わないよ」と言った。
「だったら、許してあげます」ときくは言った。
僕はホッとした。
「さぁ、ショートケーキ食べましょうね」ときくはダイニングルームに向かった。