小説「僕が、剣道ですか? 7」


 風車の筆学所はますます評判を上げていった。風車はその風貌とは異なり、人柄が良かったからだ。そして、先生向きだった。教えることが好きだったのだ。
 教え子が増えるにつれ、離れにも長い座卓が置かれるようになったので、みねの身の回り品は、女中部屋らしい三畳間に移された。

 休み時間には、風車は得意の碁を教え子に覚えさせた。これも良かった。碁の楽しさに教え子はすぐに夢中になった。
 で、僕が碁石と碁盤を買いに行く羽目になった。
 部屋の隅には、いつの間にか碁の勝敗表が作られていた。十級から始まり、一級まであったが、まだ、上位者も七、八級止まりだった。十級同士は互選だったが、一級下がるごとに置き石が増えた。十級は風車とやるときは、九子置いて、なお、十目のハンディをもらっていた。それでも風車に勝つのは容易ではなかった。
 僕も碁はできたし、風車にも勧められたが、敢えて、子どもたちとはやらなかった。そのうちいなくなるのだ。そうなったときに、寂しさを覚えさせたくはなかった。だから、家にはあまりいずに、あたりを歩いていた。買物も進んでやった。
 ある店で、小さなひょうたんを見付けた。腰からぶら下げるのには、丁度いい大きさだった。それを買った。
 夜になって、あやめに「この中に入れるか」と訊いた。
「訳もありませんわ」とあやめはひょうたんの中に入った。
「これなら、昼までも外にいられるか」とあやめに訊いた。
「昼間は動けませんよ」とあやめは言った。
「動けなくてもいいんだ、移動できれば」と僕が言うと、「ひょうたんの中に入らなくても移動はできますよ」と言った。
「どうやって」と訊くと、「主様の躰に取り憑きますから」と言った。
「この躰か」と僕は言った。
「この躰がどうなっているのかは、分からないが、ここからいなくなるとき、この躰も消滅すると思う。だから、躰に取り憑くのはやめておいた方がいい」と僕は言った。
「そうなんですか」
「よく分からないんだ。分からないことは止めておいた方がいい」と僕が言った。
「だったら、ひょうたんなら、主様の行くところに行けるんですか」とあやめが訊いた。
「それも確信はないが、持っている物は現代というところに、これまでは一緒に来ていた。だから、ひょうたんも持っていれば来ると思う」と答えた。
「行くところは、現代というところなんですね」とあやめが訊いた。
「そうだ」
「では、主様の言われるとおりにします」
「でも、現代に来れる確証はないんだよ。このまま、ここにいるということも……」
「それはありません。主様のいない世界は、わたしにはいる意味がありませんから」とあやめは言った。
「そうか」
 僕はあやめを抱いた。

 昼間、ひょうたんを下げて歩いた。
 夜になってあやめに訊いた。
「どうだった」
「わかりません。わたしは意識がなかったものですから」と答えた。
「そうか。でも、ここに入っていられるんだよな」
「ええ、それはそうです」
「だったら問題はないな」
 僕は一つ問題が解決した気分になった。あやめを現代に連れて行ったらどうなるかなんて、考えてはいなかったのだ。

 師走になり、六日目に、きくに陣痛が来た。正徳元年十二月六日の朝方だった。僕は、取り上げ婆のところに走った。
 みねは湯を沸かした。その日、みねの教えている算盤は臨時に休みになった。赤ん坊が生まれる、その手伝いをするのでは仕方がなかった。教え子たちも納得して帰った。
 風車の方は、筆学を続けていたので、風車のそわそわとした感じが教え子たちにも伝わっていた。
 昼前に産声が聞こえた。
 男の子だった。
 僕はバスタオルに包まれた赤ちゃんを抱き、きくに見せた。
 きくは泣いていた。
 風車の筆学も午後は休講になった。風車自身が落ち着いて教えられる状態ではなかったからだった。休講は一と十五の日の休日に振り替えられた。どちらに来ても良かった。それは算盤も同じにした。

「今度は、男の子ですか」と風車が僕に訊いた。
「ええ」
「一姫、二太郎と言うではないですか。その通りになりましたね」と風車が言った。
 僕はまたも「ええ」と答えるだけだった。
「名前を考えないといけませんね」と風車が言ったので、僕は風車に「京一郎と書いてもらえますか。きょうは私の京介の一字からとりました」と言った。
「なるほど、京一郎という名前にするんですね」と風車が念を押した。
「はい」と僕は応えた。
「わかりました。書きましょう」
 風車は座卓に座り、硯で墨をすり、筆で紙に「京一郎」と見事な字で書いた。
「どうです」とそれを僕に渡した。
「やはり、上手いですね」と僕は受け取ると、きくの隣にいる赤ちゃんの横に置いた。
 それに気付いたきくが「赤ちゃんの名前ですか」と訊いた。
「そうだ」と答えると、「見せてください」と言うので、風車が書いた紙をきくの目の前にかざした。
「なんと読むんですか」ときくが訊いたので、僕は「きょういちろう」と答えた。
「きょういちろう」ときくが呟いた。
「ああ」
 僕はその紙を赤ちゃんの横に戻すと、「いい名前ですね」ときくが言った。
 僕は頷いた。そして、きくに「ありがとう」と言った。
 きくは静かに目蓋を閉じた。その目から涙が流れた。

 京一郎は僕が持ってきたおむつカバーでおむつをした。
 そして、きくの乳が足りなくなると、哺乳瓶に作ったミルクを飲んだ。