小説「僕が、剣道ですか? 6」

二十一
 六日間、風車は吉原から戻ってこなかった。
 僕はその間、畑仕事をした。いや、畑仕事らしきことをした。植えたキュウリの種からは、僅かに芽が出ていた。それが順調に育つのかどうかは分からなかった。茄子の苗は育ってきたので、添え木をした。
 風車がいない生活にも慣れてきた。僕が畑から戻ると、ききょうが寄ってきた。
 遊んでもらえると思ったのだろう。僕は、この前、きくとききょうとで両国に行って買ってきた鞠を取り出してきた。それだけで、ききょうは嬉しがった。
 ききょうを奥座敷に連れて行き、床の間の方に軽く投げた。すると、ききょうは、鞠を追いかけた。そして取ってくると、投げようとした。しかし、上手くは投げられなかった。僕はその鞠をまた投げた。ききょうは鞠を追いかけた。この繰り返しが、幾度となく続いた。そのうち、疲れてきたのだろう。ごろんと畳に寝転がった。
 そんなききょうを抱いて、寝室に向かった。そして、布団を出して、寝かせた。

 起きたききょうをおぶって、風呂の火をつけていたところに、風車が帰ってきた。
「どうしました」と訊くと、「先立つものがなくなって……」と風車は答えた。
 三十両ほど持っていたのだ。一日五両として六日が限界だったのだろう。
 風車の顔には、未練が残っていた。

「風呂が焚けたら、一緒にどうですか」と訊いたら、「いや、拙者は後で……」と答えた。躰に残ったキスマークを見られたくはなかったのだろう。
 今日も、ききょうと一緒に入ることになった。

 夕餉では、吉原の話はしなかった。
 きくは「どうしていたんですか」と何度か訊いたが、「いや、何……」と風車は答えるばかりだった。
 話題を変えるつもりで、僕は「夕餉の後に一局でもどうですか」と訊いたが、風車の頭は吉原のことでいっぱいだった。
「えっ、何て言われました」と訊き返された。
「いや、何でもありません」と僕は言った。

 次の日も風車は元気がなかった。
 昨夜、あやめに会った時も、「風車様はある女性に心を奪われていますね」と言った。多分、その通りなのだろう。こればかりは、どうにもならなかった。

 次の日になって、朝餉の後に、僕が畑仕事をしていたら、風車は中庭の隅で素振りをしていた。
「どうしたんですか」と僕が訊くと、「離れに籠もっていても、雑念だけが頭を過るので、それを吹っ切ろうと思いまして」と答えた。
「そうですか」
 少しは前向きになったんだ、とばかりに僕は思った。
「では、私も手が空きましたから、私と少しやりませんか」と言った。
「鏡殿とですか」と風車は言った。
「いや、ですか」
「いや、そうではなく、かなり躰が鈍っているものですから」と風車は言った。
「それはすぐに元に戻りますよ」と言った。
「でも、木刀は」と風車が訊いた。
「そのあたりの枝を切って、木刀代わりにしましょう」と僕が言った。そして、納屋から斧を持ってくると、小木を二つ切って、枝を払い、適当な長さに調整した。
 その一本を風車に放って渡すと、「いざ」と僕が言った。
 風車も「いざ」と言って、打ち掛かってきた。
 僕は風車に合わせて、打ち合った。風車は以前、対戦した時より随分と躰がなまっていた。
 僕は少し早く打ち、風車がそれに合わせられるようにした。風車はすぐに息が上がった。
「少し、躰がなまっているようですね」と風車が認めた。
「慣れれば元に戻りますよ」と僕は言った。
「そうだといいですけれどね」と風車は言った。
「また、昼餉の後にやりましょう」と言うと「ええ」と風車は応えた。

 昼餉は、風車はいつものようにお代わりをした。打ち合いをしたので、腹が空いていたのだろう。
 昼餉の後、ききょうがはいはいしてきた。遊んでもらえるものと思ってきたのだろう。それを無にすることもできないので、鞠でききょうと遊んだ。
 ききょうが疲れてきたところで、風車に声をかけた。
 僕らは、中庭で手製の木刀で打ち合いをした。
 やはり、風車の剣はなまっていた。僕は少しばかり激しく打ち込んだ。すると、風車の息が上がるのが分かった。その時は、手加減をした。
「元に戻るには、もう少し時間がかかりそうですね」と僕は正直に言った。
「そうですか」と風車は残念そうに言った。

 おやつは、ふかした饅頭だった。稽古後だったので、美味しかった。
 風呂は風車が沸かした。
 今日は、風車と一緒に入ることになった。だから、ききょうがぐずった。
 僕は風車の躰が見たかったのだ。やはり、少し痩せ衰えていた。僕の剣を受け損ねた傷も散見された。

 夕餉は、風車が帰ってきて、いつものように和やかに進んだ。ただ、風車は吉原のことは口にしなかった。
 きくは、今日の稽古の様子を風車に訊いていた。風車は「躰がなまっていて、もう少し練習しなければいけません」と答えた。

 きくが眠った後、時間を止めて、奥座敷に行った。女が待っていた。
 風車のことを訊いた。
「女に心が向いているようですよ」と答えた。
 やはり、そうか、と思った。しかし、お金がない風車はどうするのだろう。そのうち、借りに来るのではないかと思った。その時は、どうしようか、と考えたが、考えがまとまらなかった。
「男と女のことですから、なるようにしかなりませんよ」と女は言った。

 次の日も朝餉の後に、剣術の稽古をした。昨日よりはましだった。だが、僕が知っている風車には、まだ遠かった。

 剣術の稽古の間に、僕は畑の面倒を見た。キュウリの芽と茄子の苗が大きく育っていた。野菜の生長は早かった。そんな具合に、風車も元に戻ればいいのに、と思った。

 数日、稽古して、風車はかなり元に戻っていた。だが、まだ何か足りなかった。僕に向かってきた時に感じた気迫がなかった。剣に邪心が感じられた。

 その翌日、昼餉の後、風車はどこかに行った。おやつにも帰ってこなかった。
 風呂を焚く時間になって、にこやかな顔をした風車が帰ってきた。
「何かいいことでもあったのですか」と訊いたが、「いや、何」と答えるだけだった。

 風呂でも、いつもの風車と変わらなかった。しかし、何かいいことがあったのに違いなかった。それを話そうとしないのが不審だった。

 夕餉の時も、風車はいつもと同じだった。
 僕は特に風車には訊かなかった。後であやめに尋ねることにしたのだった。

 きくとききょうが眠ると、時間を止めて、奥座敷に向かった。
 女が座敷に座っていた。
「わたしに訊きたいことがあるのでしょう」と言った。
「どうして分かる。私の心は読まないと言ったのに」と言うと、「読まなくてもわかりますよ。風車様のことでしょう」と言った。
「そうだが」
「あの方は、今日は四谷に行ったようですよ」
「何しに」
「さぁ、何でしょう。でも、十両ほど持っていましたよ」
十両も持っていたのか」
「ええ」
「どうやって、手に入れたんだろう」
「さぁ、そこまではわかりません」
 そこまで聞いて、僕は風車が道場破りをしたんだと思い至った。
 このところの剣術の稽古はそのためだったのか、と思った。風車は元のように戻ったと思い込んでいるかも知れなかったが、僕から見ればまだまだだった。僕が手加減をしていることが分からないのか、と思った。
 分からないのだろう。今の風車の剣は曇っている。今日は、たまたま相手が弱かったのだろう。しかし、そのうち痛い目に遭うことは目に見えていた。
 僕はあやめを抱くことを忘れて、寝室に戻ってしまった。
 あやめを傷つけてしまった。