小説「僕が、剣道ですか? 2」

三十六
 朝食後、藩主に朝のお目通りをした。
「昨日はゆっくりと眠れたかな」
 滝川は僕に向かっていった。
「はい、ゆっくりと休ませてもらいました」
「そうか、それは何より。体調は万全かな」
「ええ、調子はいいです」
「それは良かった。時間まで、ゆるりとしていられよ」
「ははー」

 僕らは控えの間に通された。
 立ち合いの衣装が用意された。
 僕は着物を着、袴を穿いて、着物にたすき掛けをした。
 また鉢巻きが用意されたので、それを額に巻いた。
 やがて、時間が来た。
 太鼓が打ち鳴らされた。
 中庭に案内された。
 昨日と同様に、右側の席に、藩主滝川の姿があった。
 前方に氷室隆太郎がいた。
 中央に二人の若侍が木刀を掲げるように持っていた。本差だけでなく、脇差にあたる木刀も用意されていた。
「珍しゅうござるな」と僕が言うと、「拙者の得意とするのは二天一流でね」と氷室隆太郎は言った。二天一流とは、宮本武蔵の得意とする流儀であった。
 僕と氷室は歩み寄って、その木刀を手にした。僕が手にした木刀は少し軽い気がしたが、そのまま僕は脇差を腰に差した。
 そして、少し離れた。
 審判役の侍が、「始めぃ」と声を上げた。
 氷室は今まで出会ってきたどの侍とも違っていた。躰が冷えているとでもいうような感じを僕に与えた。
 なかなか、前に出られなかった。右に本差を持ち、左に脇差を持つ形は、なかなかに威圧感があった。
 じりじりと右回りに移動していた。
 そのうちに、氷室隆太郎と太陽が重なった。
 その時、氷室は打って出てきた。右の木刀が素早く繰り出されると同時に、左の脇差も突き上げてきた。僕は、両方の木刀をほんの一瞬で叩いた。
 が、次の瞬間、右の本差がまたも向かってきた。
 左右交互に打ち叩く行為が続いた。
 なかなかに踏み込めなかった。
 相手も同じだった。
 剣の素早さは同じぐらいだった。あるいは僕の方が速かったかも知れないが、両手に木刀を持っている分だけ、速さをカバーしていた。それに氷室隆太郎の凄さは、両方の腕とも両手で剣を持っているくらいに、力が強いことだった。片手で剣を持っていれば、両手で剣を持つよりも力は半減する。それが氷室隆太郎にはなかったのだ。
 僕は精神を統一して、正眼の構えから木刀を突き出した。
 木刀はスローモーションのように相手に向かっていく。相手は、スローに右手の本差を向けてきた。こちらの木刀の方が一歩速く、相手の胴に達していた、と思った。だが、その瞬間、相手の脇差が胴を守っていた。
 僕は離れた。
「見えているのか」と僕は訊いた。
「見えているとも」と氷室は答えた。
 容易ならざる相手だった。
 動きたくとも動けなかった。
 それは相手も同じだった。
 再び、踏み込んだ。僕の繰り出す木刀を相手は弾き返していった。
 そして、離れた。
 その時、相手の弱点が分かった。脇差の方だった。脇差は短い。リーチ差が活かせる。そして、その長さの違いが木刀の力も弱めていた。
 僕は本差を狙うつもりで向かっていき、氷室の脇差に渾身の力を込めて、打ち下ろした。その瞬間に氷室の脇差が手から離れた。と同時に僕の木刀が折れた。この力加減で木刀が折れるとは変だった。最初に感じた木刀の軽さが原因しているのかも知れなかった。
 氷室は、僕の木刀が折れたのを見ると、すかさず本差の木刀を打ち下ろしてきた。木刀を失った僕は、当然木刀では避けられなかった。仕方なく、真剣白刃取りの木刀版をやった。
 相手から木刀をもぎ取り、横に放り投げた。
「そこまで」と言う審判の声がかかった。

 中島と近藤が走り寄ってきた。
「良かったなぁ、無事で」と中島が言った。
「ほんとに肝を冷やしましたよ」と近藤が言った。
 僕は汗を手ぬぐいで拭った。
 その時だった。
「鏡殿、氷室殿、こちらにおいでください」と審判が言った。
 僕と氷室は審判のところに行った。
「お殿様が二人の決着を見たい、と仰せられている」と言った。
「もう一度、立ち会って貰えぬだろうか」
「私に異存はござらぬ。殿の申し出とあらば、受けなければしょうがないでしょう」
 氷室隆太郎はそう言った。
「氷室殿がそう言うのなら、受けねばならないでしょう」と僕も言った。
「ただし、やるからには真剣でお願い申す」
 僕は木刀が折れたことが気にかかっていた。あの程度で折れるとは、思ってもいなかったからだ。
「し、真剣ですと」と審判の侍が慌てた。
 審判の侍は、藩主のところに走って行った。そして、すぐに戻ってきた。
「許すそうです。ただし、何があっても文句を言わぬように、とのことです」と言った。
 そのことを審判の侍は、番頭の中島や近藤にも伝えた。
 中島や近藤は、僕のところに走り寄って来て、「お前、本気か」と中島が言った。
「あーあ、言わないこっちゃない」と近藤は嘆いて見せた。

 試合場に出ると、氷室隆太郎は「鏡殿、おぬし本気か」と尋ねられた。
「真剣でやるということだ」
「本気ですが」
「真剣でなかったから、二天一流は本差と脇差を使ったが、私の二天一流は真剣なら両方とも本差を使うが、いいのだね」
「どっちでも同じでしょう」
「本気でそう思っているのか」
「ええ」
「私と同じ技量を持つ者を二人相手にするのと同じことだぞ」
 僕は笑った。
「そんな馬鹿な。ただ、二本剣を持っているというに過ぎません」
「笑っていられるのも、今のうちだ。真剣でこそ、二天一流の価値がわかろうというものだ」

 太鼓が打ち鳴らされた。
 立ち合い開始の時を知らせるものだった。
 試合場には、真剣を持った鏡京介と氷室隆太郎がいた。
 審判の侍が「始めい」の声をかけた。
 僕はゆっくりと刀を抜いた。氷室は左に走った。そして、抜刀しながら斬りかかってきた。それを受けていると、左から刀が向かってきた。僕は飛び退いて避けた。
 僕の受けが弱ければ、斬られていたところだった。
 すぐに激しい剣の応酬が始まった。左右から繰り出される剣は、一様に鋭く速かった。そして何よりも力強かった。『私と同じ技量を持つ者を二人相手にするのと同じことだぞ』と言った氷室隆太郎の言葉が冗談ではなかったことが証明された。
 僕は苦戦した。
 少しずつ相手に押し込まれてきていた。
 ここぞとばかりに打ち掛かってきた。僕は凌ぐのがやっとだった。
 いつもならスローに見える剣も、氷室の剣はスローに見えなかった。いや、スローに見えていたのだが、この時の僕にはそれが分からなかったのだ。そうでなければ、とっくに僕は氷室の剣の餌食になっていたはずだから。
 とにかく、氷室の剣に堪えた。
 堪えた後は、今度は打ち込んでいった。小手、小手、胴の要領で愚直に攻めた。攻めながらスピードを上げていった。
 今度は相手がかわす番だった。とにかく四方から剣を繰り出し、相手の隙を狙った。しかし、相手に隙はできなかった。
 だが、相手に間を与えず、どんどん攻めていく他はなかった。少しでも気を緩めると相手が攻め込んでくる。
 三十分ほど、激しいせめぎ合いが続いた。
 僕はわざと隙を作って、相手に攻めさせてみた。すると、最初の鋭さが鈍くなっていることが分かった。人は疲れるものだ。まして、二本の剣を同じ力で振り回していたのだ。人の倍も疲れているのに違いなかった。
 僕は一気に攻め立てていった。相手が必死にかわすのがやっとといった感じで攻めていった。
 そして、相手の右の刀を大きく払いのけた。と同時に肩に刀を置いた。
 僕は自分が勝ったと思った。
「相打ちだな」と氷室隆太郎が言った。
 左脇腹あたりに剣を突き立てようとしていた。それは僕が氷室の肩に剣を置いた後だった。だから、その瞬間に僕の勝ちだったが、しかし、一瞬のこと故、誰もそれに気付いてはいなかった。
 僕はさっと飛び退いた。
「この代償は高くつくよ」と僕は言った。
 そして、再び剣を繰り出した。氷室も対抗した。しかし、次第に僕の剣のスピードが彼のより勝ってきた。彼に悟られぬように僕も剣のスピードを落として、斬り合いを続けていた。
 彼の右腕が僕の脇を通過しようとした時、さっと剣を引き、峰打ちでその右腕をしたたかに打った。これは誰の目にも止まらなかったに違いない。骨の折れる音がした。氷室の右手はもう剣が持てんだろう。そして、すぐに胴を峰打ちにして気絶させた。
「勝負あり。鏡殿の勝ち」
 審判の侍の声が響いた。
 周りで見物していた侍たちが響めいた。

 中島と近藤が駆け寄ってきた。
「凄かった」と中島が言った。
「ほんとに良かった」と近藤が言った。
「水が飲みたい」と僕が言うと、小姓が湯呑みに水を入れてきた。
「もう一杯」
 また小姓が走って戻ってきた。
 手ぬぐいで汗を拭うと、藩主の前に行き、片膝をついた。
「怪我を負わせてしまいました」
 僕はそう言った。
「仕方がない。いい試合だった」
 藩主は一言そう言って立ち上がった。