小説「僕が、剣道ですか? 2」

三十七
 帰りも湯沢屋で一泊した。
「あーあ、いい湯だ」
 中島と近藤は上機嫌だった。大任を果たした安堵感が滲み出ていた。
 僕はひたすら疲れを癒やしていた。
 風呂から上がり、夕餉を食べると、布団が敷かれる前に僕は眠ってしまった。それだけ疲れていたのだ。
 起きたのは、昼近かった。
 二人は早く藩に戻るより、この先の別の宿でもう一泊するつもりだった。

 城に戻ると、もの凄く歓迎された。
 藩主綱秀の前で、番頭の中島伊右衛門と近藤中二郎が、まず二十人槍の場面を演じて見せた。
「さぁて、そこにずらりと棒状の槍が鏡殿を囲んだ」と中島が言うと、「その時だった」と近藤が続けた。
「待たれぃ、と鏡殿が言った。それでは不服である」と中島が言うと、「本物の槍と真剣での勝負がしたい」と近藤が引き継いだ。
「これには黒亀のお殿様も驚いた。しかし、本物の槍と真剣での勝負を受けて立たないわけにはいかない。そこで、本物の槍と真剣での勝負が始まった」
 二人の講談は、ここからが本調子になっていった。
 僕は疲れていたので、本当は休みたかった。しかし、そんな雰囲気ではなかった。
 二十人槍の話が終わると、今度は氷室隆太郎との立ち合いの話が始まった。
「当世随一の剣客氷室隆太郎と鏡京介の立ち合いである。黒亀藩のご当主がこれを見ずに鏡殿を帰すはずがない」と中島が言うと、「帰すはずがない」と近藤が相槌を入れた。
 こうして、宴席は夜まで続いた。しかし、僕は疲れていたので、やはり途中で帰らせてもらうことにした。
 隣に居た者に「本人に帰られては、宴席がしらけてしまう」と言われたが、疲れはどうにもならなかった。
 藩主に先に帰る無礼を詫びて、宴席を後にした。

 屋敷に戻るときくが出迎えてくれた。
 すぐに風呂に入り、そのまま眠った。
 翌朝、起きたのは昼頃だった。
「お疲れになったでしょう」
「ああ」
 すでに三日経っているのに、疲労感が残っていた。
 昼過ぎに、城から使いの者が来て、すぐ登城するようにと言われた。
 僕はきくに着替えを手伝ってもらって、その使いの者と一緒に登城した。
 藩主綱秀の前で、番頭の中島伊右衛門と近藤中二郎がいて、今は氷室隆太郎との立ち合いの話をしていた。側には、筆記者がいて二人の話を筆で紙に綴っていた。
綱秀は「先程、二十人槍の話が終わって、今は氷室隆太郎の話になっている」と言った。「余りに面白いので、記録させて読もうかと思っているところだ」
 僕はもじもじと居心地の悪い思いをするだけだった。
「そうだ、おぬしを呼んだのは報奨金をつかわそうと思ったからじゃ」と小姓に三方を持たせて来て、僕の前に置いた。
「三百両ある。今回の褒美だと思って、取っておいてくれ」と藩主は言った。
 僕は頭を下げて「謹んで頂きます」と言った。
「ついでだが、五百石で仕官してはくれまいか」と言われた。五百石といえば、なかなかの石高だった。役職に就いていない者が貰える石高ではなかった。
「その件については、謹んでご辞退させて頂きます」と答えた。
「そうか、残念なことよのう。おぬしが側にいれば何かと安心なのだがのう」
「ありがたきお言葉、心に留めおきます」

 三百両を貰って城から帰ってきた。
 きくに見せると、驚いた。
「この前、七百五十二両もらって、また三百両ももらったのですか。千両を超えましたね」「ああ」
 僕は金蔵を呼んで三百両を蔵に入れた。

 道場に出た。
 練習中の門弟も稽古を止めて、僕の元に寄ってきた。
「二十人槍の話や氷室隆太郎様との立ち合いの話で道場は持ちきりです」と相川が言った。
「やっぱり先生は、この藩一番です」と佐々木が言った。
「そうですよ」と他の者も言った。
「分かった。久しぶりに稽古を付けるぞ」と僕が言うと、皆は散るように木刀を構えた。
 僕が道場の中央に立つと、次々に木刀で僕に向かってきた。僕は木刀でそれをかわしていった。
 小一時間ほども稽古をすると、僕も汗をかいてきた。そこで切り上げた。
 相川や佐々木、落合、長崎、島村、沢田を呼んで、今月行われる選抜試験について、訊いてみた。
「いつも通りです」と相川が答えた。
「もう慣れてきましたからね」と佐々木が言った。
 他の者も頷いていた。
「そうか、じゃあ、任せたぞ」
「はい」と六人の勢いのある返事が返ってきた。

 屋敷に戻り、少し早かったが風呂に入った。
 風呂を出ると座敷に向かった。
 ききょうを抱いた。
 そのうち夕餉の時間になった。
「殿は、二十人槍の話や氷室隆太郎との立ち合いの話がお好きで、今日も番頭の中島伊右衛門や近藤中二郎にその話をさせておられた。それだけじゃないぞ、二人の話を筆記者に書き取らせてもいらした」と家老が言った。僕は知っていたので、黙って聞いていた。
「鏡殿は仕官する気はないのか」とも言われた。
「五十石ぐらいなら、すぐにでも口利きするがな」と続けた。今日、藩主から五百石の仕官の話を断ってきたとは言えなかった。
 僕は首を左右に振って、その気がないことを示した。
「残念なことだな」と藩主の言われたようなことを言った。

 座敷に行くと、きくはききょうをあやしていた。
「もうすぐ寝ますよ」ときくは言った。
「そうか」
「今日は、疲れは取れましたか」
「ああ、道場で汗を流してきた」
「そうでしたか」
「久しぶりに門弟と打ち合うのもいいものだな」
「そうなんですか」
「何て言うか、ホッとする」
「そういうものですか」
 ききょうが眠った。
 大きなざるのようなところに敷いた布団に、ききょうをそっと寝かせた。
 そして、上に白い小さな掛け布団を掛けた。
「ききょうが眠りました」
「うん」
「わたしたちも寝ましょう」
「そうだな」
 行灯の火を消すと、きくが僕にしがみついてきた。
「寝るって言ったじゃないか」
「そう言いましたよ」
「こういう意味なの」
「他にどういう意味があるんですか」
 僕は答えられなかった。