小説「真理の微笑」

七十五
 三月になった。役員会も済み、必要な手続きを経て、企業決算も無事に終わった。
 トミーワープロはその後も順調に売れ続けた。昨年のビジネスソフト売れ行きナンバーワン賞を某出版社から授与された。その授与は、某ホテルの会場で行われた。私はスピーチでトミーワープロがヒット商品になった事は望外の事だったと語ったが、(株)TKシステムズで開発していた時から、このワープロソフトなら、専用ワープロ機にも勝てるという自負はあった。
 四月に由香里の子の隼人の「お食い初め式」を由香里のアパートで二人だけでした。
 テーブルの椅子に座った私が隼人を抱き、飯、汁物、飯、魚、飯の順で三回食べさせる真似をした。最後のご飯の時、ご飯粒を一つだけ口に含ませた。そして、箸で歯茎を軽く突っついた。
 四月の下旬には、茅野の建築会社の社長から電話がかかってきた。これから別荘を取り壊すがいいかという確認の電話だった。もちろん、OKをした。そして、別荘の取り壊しが行われた。「終わりました」という連絡が来た時、私はホッと胸をなでおろした。
「今の別荘じゃあ、俺が行っても上がれないからね」と真理子には言った。「そうね、あなたが行っても使いやすいように建て替えればいいわ」と真理子は答えた。その真理子のお腹も少し膨らんできた。
 五月には、トミーCDBが、トミーカードと名称を変え発売された。毎年五月に開催されるビジネスショーはそのトミーカードの格好の宣伝の場となった。トミーカードはカード型データベースソフトの売れ行きとしては、順調な滑り出しを見せた。
 六月に入ると甲信越地区に記録的な大雨が降った。各地で土砂災害があり、山崩れも起こったと報道された。
 その頃になると真理子のお腹が大きくなってきたのが目立った。
 由香里の口座には、高木によって毎月三十万円が振り込まれていた。その分は、私の年俸から差し引かれる事になっていた。私は週に一度ほど由香里のアパートを訪ねた。赤ん坊は日に日に大きくなっていくのが分かった。

 その日、久しぶりにメールボックスを開いた。夏美からのメールが沢山届いていた。
『隆一様
 畑の近くにタクシーが長い事止まっていました。わたしはてっきりあなたが会いに来たものと思いました。近づいていくと、ウィンドウを閉められました。顔を見るとあなたでない事がわかりました。その人はウィンドウを上げながら前を向きました。その仕草があなたを彷彿とさせました。もちろん、顔を見ましたから、あなたでない事はわかっています。でも、今のわたしには全てがあなたのように見えてしまうのです。
 もしかしたら、誰かを使いに出してわたしたちの事を探らせていたのかも知れないと思いました。それならそれでいいのです。わたしたちの事をあなたが気遣ってくれれば、わたしは嬉しい。
 夢を見ました。ちらっと見たタクシーの中の人の事です。その人があなたでない事はわかっています。しかし、目なのです。一瞬ですが、その人と目が合いました。わたしはあなただと思ったのです。思ってしまったのです。夢の中では、あなたは仮面を被っていました。他人の振りをしてわたしたちを見に来ていたのです。でも、いくら仮面を被っても目だけはごまかせませんよね。仮面が浮いて、その下から、あなたの目が覗いている。そんな夢を見ました。こんな夢を見るのもあなたに会いたいからです。
 あなたに会いたい。あなたに会う夢を見るしかない夏美をどうか哀れんでください。 夏美』
 このメールを読んで、私は哀しくなるとともに恐怖した。確かに夏美に会いたくてタクシーで近くまで行った。夏美は家の前の畑にいた。
 私は思わずドアのウィンドウを下げ肉眼で夏美を見た。そうしたかったのだ。
 私に気付いたのか、夏美はタクシーの方に向かってきた。私は慌てた。ウィンドウを上げるボタンを押すのが少し遅れた。その一瞬、夏美と目が合った。細い目を大きく見開いていた。ウィンドウを上げ終えると、タクシーを発車させた。窓越しに夏美を目で追っていた。夏美は立ち尽くしていた。その一瞬だけだった、夏美と目が合ったのは。それでも夏美はその目を私だと思う夢を見たと書いて寄こしたのだ。
 その日、私は真理子に無理を言って眼鏡店に連れていってもらった。私は、度のない薄い色のサングラスを買った。薄い色にしたのは普段していてもおかしくないようにだった。
「どうしてサングラスなんか」と言う真理子に「この頃、光が眩しく感じるんだ」と説明した。

 七月には夏美に五百万円を郵便書留で大きめの硬い材質の封筒で送った。中身は書類とした。夏美からは、メールで五百万円が無事に届いた事を知らせてきた。と同時に私に会いたいとも書いてきた。私は、元気で暮らして欲しい、それだけが今の俺の願いだ、とだけ書くのが精一杯だった。
 九月六日に、真理子に陣痛が来た。病院に介護タクシーで一緒に向かった。
 分娩室に入って三時間ほど経っただろうか、産声が聞こえてきた。
 看護師が抱き上げていたのは男の子で、すぐに母親に抱かせた。
 私は祐一が生まれてきた時の事を思い出していた。この子は祐一の弟だとも思った。
 私の子は「猛」と名付けた。最初に付けた名前通りだった。
 一週間後、真理子と赤ちゃんは退院した。
 そして、生後二週間が経とうとした頃、私は真理子と出生届を区役所に出しに行った。

 

小説「真理の微笑」

七十四
 ベッドの中で私はなかなか勃起しなかった。今日の事が頭から離れなかったからだ。
 今、私がここにいるという事は、真理子が富岡を殺そうとして果たせなかった事になる。とすれば真理子はどう思っているのだろう。今でも私を富岡だと思っているのだろうか。だとしたら、殺そうとした男と何度も肌を重ねている事になる。そんな事があり得るのだろうか。もしかしたら、私が富岡でないという事を知っていて知らない振りをしているのだろうか。ありそうな事だった。だとしたら誰だと思っているのだろう。高瀬が行方不明になっているから、高瀬だと思っているのだろうか。
 分からない。真理子が私をどう思っているのか、まるで分からなかった。
「今日は元気がないわね」と真理子が言った。
「躰にさわるんじゃないかと思って……」と言うと「馬鹿ね、そんなはずないじゃない」と真理子は笑った。
「いいわ、わたしが立たせてあげる」と言ってベッドの下に躰をずらした。
 しばらくして、柔らかい口に私のペニスが包まれた。真理子は、フェラチオに慣れているあけみほど上手くはなかったが、一生懸命だった。その一生懸命さに私のペニスは勃起した。真理子は素早く、自分の割れ目にペニスを入れると腰を動かし始めた。
「わたし、こんな事するの初めてなのよ」と言った。そして「あなただから、したの」と言って上体を倒した。
 えっ、と思った。真理子は私を富岡でないと知っていたのか、と疑った。
「どういう意味」と訊かずにはいられなかった。
「別に意味なんてないわ。あなただからしたのって言っただけよ」
 よく分からなかった。
「事故を起こしてからのあなたは、変わったわ。まるで別の人になったみたいにわたしにとても優しくしてくれたし、それに、この子の父親だもの」と答えた。
 まるで別の人になったみたいに、と言った真理子の言葉が、真理子の本心を語っているかのように聞こえてきた。真理子はあの事故で富岡と私が入れ替わった事を知っているのだろうか。気付いていてもおかしくはないのだ。これほど肌を重ねているのだ。別人だと気付く方が自然だった。私は、真理子は私を富岡だとは、ほとんど思っていないと思った。しかし、それでも真理子は私を富岡だと思うほかはなかったのだ。理由は二つあった。一つは、あの事故で奇跡的に私が助かっていなければ、真理子が富岡を殺した事になるからだった。あの事故で死体が出れば、ブレーキの細工から、最終的にそれを実行できたのは真理子だと警察は狙いをつけるだろう。しかし、それは状況証拠に過ぎない。真理子が犯行を否定すれば警察はそれ以上どうにもできないだろう。第一、動機を見つけ出す事ができないだろう、この調査報告書を見つけ出さない限りは。仮に見つけ出しても、それも状況証拠に過ぎない。どうであれ、あの事故で助かったのは富岡でなければならなかった。二つめは、真理子が妊娠した事だった。これで真理子に私を殺す動機がなくなると同時に、私が高瀬でなく富岡でなければならなくなったのだ。真理子が妊娠したのは私の子だ。だが、真理子にとっては富岡の子でなければならなかった。だから、真理子は私を富岡と思う他はないのだ。そして、これは三つめになるのか分からなかったが、真理子は私を明らかに愛しているという事だ。これはこれだけ肌を重ねてくれば、自ずと分かるものだ。
 真理子は私の口にキスをしてきた。自分のペニスを含んだ口だったが、その時は気にならなくなっていた。私は真理子とディープキスをした。
 真理子のつややかな背中に手を回し抱き締めた。そして、私と真理子とで富岡を殺したのだ、と思った。富岡に勝ったとも思った。その時、躰の中に痺れるような快感が走った。
 もう、どうでもいい。子が生まれるのだ。真理子にしても、私の素性を疑っていたとしても、生まれてくる子は富岡の子でなければならないはずだ。私も生涯、富岡でいなければならない。もう、真理子に富岡を殺す動機はなくなったのだ。私と真理子は同じ船に乗っている。この船が沈むときは一緒なのだ、と思った。

 

小説「真理の微笑」

七十三
 早く帰ってきた私に真理子は驚いて、「どうしたの」と訊いた。
「少し疲れているんだ」と応えると「それならベッドで休んだら」と言った。
「いや、そうもしていられない。気にかかる事があるんだ」
 つい、口に出してしまった。しまったと思った。
「なに」と言われたので「仕事上の事だ」と答えた。
 私は書斎に上がった、真理子もついてきた。
「気が散るから、一人にしてくれ」
 私はそう言った。今までこんな事は真理子に言った事がなかったので、真理子はびっくりしたようだった。
「心配だわ」
「大丈夫だ。思い出さなければならない契約について、すっかり忘れていたようなので確認したいんだ」と、思いついた嘘をついた。
「そうなの」
「契約については、忘れてしまったので済みませんでしたでは、済まないからね」
「それもそうね」
「だから確認したいと思うんだ。しばらくは一人にしておいてほしい」
「わかったわ。何かあったら呼んでね」と書斎から出て行ったので「そうする」と言った。
 真理子が書斎から出て行ったのを確かめると、金庫の前まで車椅子で行き、手帳を出してダイヤルを回し、鍵を開けた。中には契約書の類いがずらりと入っていた。今まではその一つ一つを見る事はなかった。だが、今は手に取ってみる気になった。契約書を見るためではなかった。何かが、ここにある、と思えたからだった。
 一つ一つを見ていくうちに、調査報告書というものが出てきた。ある調査会社に富岡が依頼したものだった。どこかの会社でも探っていたのだろうか。富岡ならやりそうな事だった。そして、すぐに(株)TKシステムズの事が頭に浮かんだ。
 そう思って中を見ると、二通の調査報告書が見つかった。その一通は意外な事に富岡真理子に対するものだった。その時、富岡は真理子の浮気を疑っていたのか、と思った。
 調査報告書を開いてみた。
 調査報告書の中には、真理子が由香里を尾行していた事が書かれていた。その調査は一ヶ月に及んでいた。由香里が産婦人科の病院を度々訪れ、区役所にも行った事、そしてそれを真理子が尾行していた事が詳細に書かれていた。
 そこからは、真理子が由香里の妊娠を知っていた事が容易に想像できた。
 もう一通の調査報告書は、真理子の調査とは別に、由香里に対する調査だった。富岡は由香里に自分以外の男関係があるのかないのかという事も調べさせていたのだ。何しろ真理子と富岡は不妊治療のためにクリニックに通っていたのである。それなのに、由香里だけが妊娠したというのであれば、富岡以外に男性関係があって、その男との間にできた子を富岡の子だと言い張っている可能性だって考えられるではないか。富岡はその可能性を疑ったか、否定したかったのだ。その報告書には、富岡以外の男性の影はない事が書かれていた。ともかく、その二通の調査書から読み取れる事は、富岡は由香里の男関係をはっきりさせる事と、真理子が由香里の事を何処まで知っていたのかを探る事だった事が分かる。どちらの調査報告書も私が事故を起こす一週間前に届けられていた。
 不妊治療を長年続けていて、それでも子どもに恵まれなかった真理子が、由香里の妊娠を知ったらどう思うだろうか。哀しみや怒りや絶望が一気に、真理子を襲ったのではないか。そして残ったものは、何だろう。憎しみではなかっただろうか。
 もちろん、それは最初は由香里に対するものだったろうが、不妊治療を続けていた事を考えると、富岡にも向けられたのではないか。
 今日刑事が言っていた、ブレーキに細工がされていた、という事が頭から離れなかった。刑事は高瀬を疑っていたようだが、高瀬がそんな事をしていない事は私がよく知っている。としたら、ブレーキに細工ができるのは、真理子しかいないではないか。真理子の父親は自動車修理工場をやっていた。真理子は子どもの頃から、その工場で遊び、車の事も詳しくなったのに違いない。真理子ならブレーキに細工する事ができる。というよりも真理子以外に富岡の車のブレーキに細工をできる者がいるのだろうか。そう思うと、ゾッとした。真理子も富岡を殺そうとしていたのだ。
 私は奇妙な気持ちになった。富岡を殺すという事では、目的が一緒だった。ただ、ちょっとした手違いがあったのだ。それだけだ。だから、私と真理子は、いわば共犯なのだ、と私は思った。

「あなた、コーヒーでも飲む」と、書斎の外から真理子の声が聞こえてきた。
「ああ、ここに運んでくれ」と、私は調査報告書を金庫に仕舞いながら答えた。この報告書は、後でスキャンしてファイル化したら、強力な暗号をかけてハードディスクとフロッピーディスクに保存し、シュレッダーにかけて処分してしまおうと思った。これで報告書の存在は私にしか分からなくなる。

 

小説「真理の微笑」

七十二
 一月もトミーワープロの売れ行きは好調だった。社内も正月気分が抜け、春に発売予定されているトミーCDBの発売に向けて、着々と準備が進んでいた。
 二月になった。
 社長室に入ってすぐに長野から刑事が面会に来ていると秘書室の滝川が伝えてきた。
 私は通すように言った。しばらくして二人の刑事が入ってきた。
 私は応接テーブルの向かいに座って、二人を迎えた。
 二人は警察手帳を見せながら、「島崎です」「高橋です」と名乗った。
 滝川がお茶を運んできて出て行くと、年配の方の島崎が「申し訳ありませんが、訊きたい事があってお訪ねしました」と言った。
 私は「自動車事故なのに、刑事さんがお見えになるのですか」と訊いた。
「それなんですが、あなたから、直接にはお話を伺っていないものですから」
「話すも何も、事故の記憶はないんですから、お話する事はありません」
「そう言われましても……」と島崎が困った顔をすると、若い高橋が「単なる事故ではなかったかも知れないんですよ」と繋いだ。
「事故ではなかった?」と聞き返した私には、島崎が何を言っているのか分からなかった。
「どういう事なんでしょう。あれは私の運転ミスだったんでしょう。ただの自動車事故だったんでしょう」と言う私の内心はドキドキしていた。富岡を殺害した事と何か関係でもしているのかと思ったのだ。
「そうじゃあ、ないんですよ。思い出してもらえませんか。あの夜の事を」
 島崎が躰を乗り出して訊いた。私にとって思い出したくはない夜だった。
 テーブルの下で両手を上に向けて見た。あの日のロープの感触がまだ掌に残っていた。
 私は覚えていないというように、首を左右に振った。
「そうですか。車に乗っていた時の事も駄目ですか」
 私は頷きながら、「車がどうかしたんですか」と訊いた。
 若い高橋が「車に乗っていておかしいとは感じませんでしたか」と言った。
「さぁ、どうだったか、記憶にないので分かりません」
「そうですか。事故の後、車を引き上げ、散らばっていた部品もかき集めて、科研に回したんですよ」
 年配の島崎が言った。「そうしたら、ブレーキに細工がしてある事がわかったんです」と続けた。
「ブレーキにですか」
「そうです、ブレーキにです」
「どんな細工ですか」
「詳しくは言えませんが、ブレーキを踏み続けていると、ある瞬間からブレーキが利かなくなる、そんな細工です」
「それじゃあ、私の事故は……」
「ええ、事故じゃありません」と島崎が言うと、私の全身から血の気が引いていった。
「そんな馬鹿な」
「だから、お訊きしているんです、あの夜の事を。山道でカーブが多いですからね。ブレーキは踏み続けていたでしょう。その時、ブレーキが利かなくなったんじゃないかと思いましてね」
 私は記憶を辿った。山道をブレーキをかけながら下りていった事は覚えている。その時、ブレーキが利かなくなった……。それは、思い出せなかった。急に車が道を外れて、空中に飛び出していく場面がフラッシュバックのように浮かんだだけだった。
 顔を押さえて、何も言わないでいると、島崎が「誰かがあなたを事故に見せかけて殺そうとした、そう私たちは考えています」と言った。
 私は顔を上げて「そんな」と言った。
「誰かに憎まれている、あるいは恨まれているといったような事はありませんか」と高橋が言った。
 私が憎まれ、恨まれている……、いや、私ではない、富岡だ。富岡が憎まれ、恨まれているのだ。もちろん、心当たりは私にはあった。それは高瀬隆一、私自身だった。
「わかりません」と私は答えた。
「そうですか」と二人はがっかりしたような表情を見せた。
 島崎が胸ポケットから封筒を取り出し、中の写真をテーブルに置いて「ちょっと、この写真を見てください」と言った。
 私は写真を見た。そこには私が写っていた。高瀬隆一である私が。
「誰ですか、その人は」と私は言った。声に震えはなかっただろうか、ちゃんと言えただろうか、という思いが巡ったが、仮に声に震えがあったとしてもそれは喉の痛みのせいにすれば良かった。
「手に取って、よく見てください」と高橋が言った。
 私の指紋を採ろうとしている事がわかった。その手には乗らない。
「ここからでも、よく見えますよ。知らない人です。もし、仮に事故前に会っていたとしても、今の私には誰だかは分かりません」
「そうですか。知りませんか」と島崎が言った。
「知っているんじゃないかと思ったんですがね」
「その人、業界の人なんですか」
「ええ、あなたと同じソフト会社の社長でした」
ソフト会社の社長。それなら何かの会合で会ったかも知れませんが、覚えてはいません」
「今はそのソフト会社は潰れましたがね」と島崎が言った。
「そうなんですか」
「社長が失踪したからです」と高橋が言った。
 私は何も言わなかった。
「警視庁の方でも随分捜しているようですが、未だに見つかっていません」
 それは、そうだろう。当人は、ここにいるんだから、と思った。
「でもちょっと妙な事がありましてね」と島崎が言った。
「妙な事?」
「ええ。茅野はご存じですよね」
「名前ぐらいなら」
「名前ぐらいなら……。とぼけちゃいけませんよ。あなたの別荘に行くには茅野を通らなきゃならないんですよ」と高橋が少し声を荒げた。
「失礼な事は言わないでください。とぼけてなんかいませんよ。事故があった場所すら覚えていないんです。私が覚えているのは、病院のベッドにいた時からの事だけです」
 確かに事故の事はまるっきり覚えていなかったが、富岡の別荘の事はよく知っていた。何度か下見をし、そして実行したのだから。
「知らないならそれでもいいでしょう。でも、高瀬の車は茅野の駐車場で見つかったんです。これはあなたの別荘に行く入り口に当たる所です。そして、あなたが事故に遭われてから、彼は失踪したままなんです。これって偶然ですか」
「何がおっしゃりたいんですか」
 私は彼らが想像している事が少し分かってきた。おそらく、富岡と高瀬は面識があり、二人の間でトラブルがあった。そして富岡の別荘で二人は会った。そこで何かが起こった。そう考えているのだろう。
 私の指紋を採ろうとしたのは、富岡の別荘の指紋と照合するためだ。そこに富岡以外の指紋が見つかれば……。
 私はぎょっとした。私は富岡の別荘には指紋は残さなかった。これは手袋をしていたから覚えている。帽子も被り、髪の毛一本も残してはいなかった。だから、富岡の別荘には私の指紋はない。富岡の指紋だけが残っているはずだ。
 だが、今の私は富岡の顔をしているが、中身は高瀬だ。そして指紋も高瀬のものになる。富岡の別荘から私の指紋が出ずに富岡の指紋しか出なかったら、警察はどう思うだろうか。
 私は写真に触らなかった事に心からホッとした。
「まぁ、高瀬の失踪には、それなりの理由があるからなんでしょう」と島崎が言った。
「それなりの理由って」
「もしあなたとの間に何かトラブルがあったとしたら、という前提ですが、そうだとすると、ブレーキの細工の理由も説明がつくんですがね」
「馬鹿げた事を」と私は思わず言った。そう、ゲスの勘ぐりという奴だった。高瀬は私だ。私が富岡の車に細工などするはずがないではないか。
 そう考えた時、ある疑問が浮かんだ。では誰がブレーキに細工をしたというのだ。ブレーキには細工がされていたのだ。高瀬である私が細工をしていない事は私が知っている。しかし、細工はされていたのだ。誰かが細工をしたのは事実だった。一体、誰が細工をするというのか。そう考えていた時だった。不意に真理子の顔が浮かんできたのだった。真理子の実家は、昔は自動車修理工場をしていたと言っていた事を思い出したのだ。「簡単なエンジントラブルならすぐ直せるわ」と言った真理子の声が、聞こえてきた気がした。
 私が押し黙ったままになったので、「何か思い当たる事でも」と島崎が訊いてきた。
 私は苦笑いしながら、「あまりに馬鹿馬鹿しいんで答える気になれなかっただけです」と言い返した。そして「もう、いいでしょう。お引き取りください」と言った。
「わかりました。これで帰ります」
 島崎がテーブルの写真を胸ポケットにしまうと、社長室から二人は出て行った。
 彼らがいなくなると、別荘の事が気になりだした。今すぐにでも取り壊したい気がした。電話帳からダイヤルサービスを使って、茅野にある建築会社を調べ、電話をした。
 すると「冬場は無理ですよ。雪が解けて春にならないと」と言われた。「それじゃあ、春になったらすぐに頼む」と言った。相手からは「わかりました」と返ってきた。

 高木が入ってきた。
「どうでしたか」と訊いた。刑事の事が気になったのだろう。「私の事故の事をまた訊きに来たんだ」と言うと、「ただの自動車事故なのに、しつこいですね」と応えた。
「そうなんだよな。向こうも仕事だから仕方なくやっているのかも知れないが……」
 そう言ったが、私に広がった不安はそう簡単には消えなかった。
「今年度の決算はいいですよ。取締役会は例年通りに開きますか」
「そうだな。それについては任せるから、しっかり頼む」
「承知しました」と言って高木が出て行くと、ざわざわとした気持ちが私の中に渦巻いていた。そして部屋の中を見回した。すると自宅の金庫が思い浮かんできた。あの中のものはまだよくは見ていなかった。あの中に何かあるのではないか。
 もう一度、高木を呼び、今日は早退すると言った。少し気分が悪いんだと言った。
 高木は「わかりました」と言ってから「介護タクシーを呼びますか」と続けた。私は「そうしてくれ」と言った。

 

小説「真理の微笑」

七十一
 帰るために会社に迎えに来た真理子は車を出すと「書店に寄ってもいい」と尋ねた。
「構わないよ」と私は答えた。
 真理子が書店に私の車椅子を押しながら入っていくと、赤ちゃんの名前の付け方の本が並んでいるコーナーに連れて行かれた。
 真理子は目の届くところの本を取り出しては、いろいろと見ていた。私は、手の届くところの本を見た。その本の帯には「子どもの名前は一生もの! そして、親からお子さんへの初めてのプレゼント」と書かれていた。
 由香里の子の出生届は今日出してきた。しかし、その名前は由香里が考えたものだった。私には富岡の子に名前をプレゼントする義理はなかった。
 真理子は何冊かを籠に入れると、レジに持って行った。

 家に帰ると、それらの本の入った袋をリビングのテーブルに置き、真理子は夕食の準備に取りかかった。
「後で一緒に見ましょうね」と、真理子は言った。だが、私はすでに袋を開いて、何冊かパラパラとめくっていたので「分かった」と言い、慌てて本を袋に戻した。
 夕食の後、二人で本を見た。
「男の子だったら、勇ってのはどお」
「勇か、勇ましい名前だね」
「あなたが修だから、おといを入れ替えたらそうなったの」
「おい、こらっ」と私が軽く手を上げると、「うふふ」と真理子は逃げるような振りをした。そして「ゆういち、っていうのもいいよね」と言った。私はゆういちという呼び方から、すぐに祐一を連想して「それはない」と言った。そして、真理子を見た。今のは偶然なのか、と思った。
「どうせ、勇ましいのなら、たけるがいいんじゃないか」
「どう書くの」と言うから『猛』と、本のページの余白に書いた。
「なるほどね。じゃあ、女の子だったら」
「九月生まれだよね。えり、とか」
 やはり「どう書くの」と訊くから、私はさっき書いた余白の隣に『恵梨』と書いた。
「富岡恵梨か。あっ、だったら富岡恵梨香の方がいいんじゃない」
「どっちでもいいよ。まだ、先は長いんだ。ゆっくり考えればいい」
「そうね」

小説「真理の微笑」

七十
 由香里は出産して一週間後に退院した。私はあいにく手が離せない用事があったので、病院には高木に行ってもらう事にした。会計は高木が済ませて、由香里を自宅までタクシーで送り届けてくれていた。
 こちらの用事が済んだので、由香里に会いに自宅まで行くと、タクシーの運転手が「お孫さんですか」と高木に訊いた事を由香里は可笑しそうに私に話した。
 由香里はテーブルの椅子に座っていて、赤ちゃんはベビーベッドの中で眠っていた。退院の日は分かっていたので、予め手配をして退院日に届けてもらい、組み立ててもらうように注文していたのだった。
「あなた」
 由香里が私が座っている椅子の肘掛けにかけている手を掴んだ。由香里の部屋は狭いので、松葉杖で玄関から上がって、すぐ食堂の食卓の椅子に腰かけていた。
「この子の名前、考えてくれた?」
「いや、まだだ」
「わたしね、隼人って付けたいと思うんだけれど、どお」
「隼人か、いい名だ。それでいいんじゃないか」
 由香里はベビーベッドに行き、中の赤ちゃんの手を掴んで「おとうちゃまは隼人でいいって言ってまちゅよ。あなたもそれでいいでちゅね」と赤ちゃん言葉で言った。
「躰は大丈夫か」
「大丈夫よ、病気じゃないんだから」
「そうか」
「なるべく早く出生届を出したいんだけれど、あなたも行ってくれる」
「私は……」と口ごもった後で、「一緒に行きたいが付き添えない」ときっぱりと言った。
「そう、じゃあ、わたしひとりで行くわ」
 そう由香里が言った時、不安が過った。由香里がどう書いて出すのか確認した方が良いのではないかと思ったのだ。勝手に子の氏名を「富岡隼人」と書いて出すのではないかという疑いが頭に浮かんだのだ。
「いや、待て、私も行く、一緒に出す」
 由香里は「ああ、良かった」と安堵の声を上げた。

 由香里は五日後に隼人の出生届を区役所に出しに行った。私もついていった。赤ちゃんはベビーシッターを頼んで見てもらう事にした。
 子の氏名は「斉藤」「隼人」と書き、父母との続柄の欄では「嫡出でない子」のところにチェックマークを付けた。
 後は父親の氏名の欄に「富岡修」と由香里が書くのを黙って見ていた。
 住所は由香里のアパートで世帯主も斉藤由香里と書いていた。
 それらを私は確認すると、由香里は出生届を係の者に渡した。

 

小説「真理の微笑」

六十九
 十九日になって由香里が出産した。
 陣痛がきたからこれから病院に行くという電話が、午前中の会社にいた私宛に由香里からあった。私は急ぎの仕事を片付け、高木に後の事を任せて病院に向かったが、電話から四時間ほどは経っていただろうか。病院に着くと、すでに由香里は出産を終えていた。
 病室に入ると由香里の隣のゆりかごに赤ちゃんが寝かされていた。
 由香里は赤ちゃんの方を見ていたが、私が入っていくのが分かると「あなた」と声を上げた。私はコートを脱いでハンガーに掛けると、由香里を抱きしめた。そして、「よくやった」と褒めた。それから、赤ん坊の顔をしげしげと見た。
「男の子よ。あなたに似ているわ」と由香里が言った。「うん」と答えながら、これは富岡の子だから私に似るはずがないじゃないか、とは言えなかった。
 看護師がやってきて、私に産着に包まれた赤ん坊を抱かせてくれた。
 赤ん坊を抱いている私に向かって「名前、付けてね」と由香里は言った。
「分かった」
 富岡の子を抱きながら、私はこの子の父親になるのか、と思った。

 介護タクシーで会社に戻ると、社長室前に高木がいて、「中に奥様が来ていらっしゃいます」と言った。「新年会の御礼もあり、得意様回りをしています、と答えておきました」と続けた。
「分かった」と答えると、私は社長室に入った。真理子は窓辺に立って外を眺めていた。
「忙しいのね」
「まあね」
「今日は区役所に行ってきたの」
「区役所」
「そう」
「何しに行ったの」
母子手帳を貰いに行ったのに決まっているじゃない」
「そうか」
 真理子はハンドバッグから母子手帳を出して見せた。
「病院に行って予定日を訊こうかと思ったわ。昨日はつい嬉しくなっちゃって、予定日を聞いたかも知れないんだけれど、忘れちゃって」
「そういうのって忘れるもんかなぁ」
「意地悪、言わないでよ。わたしは、赤ちゃんができたって事で嬉しくなって他の事は考えられなかったのよ」
「そうか、で……」
「出産予定日は妊娠届出書に書いてあったわ。妊娠届出書を医師から渡されていたのをすっかり忘れていたの。出産予定日は九月十六日よ」
「九月十六日か」
「ようやく、できたのね」
「そうなのか」と驚くと、「そうよ」と、真理子は実に楽しげだった。
 妙なものだった。今日、由香里の赤ちゃんを抱いてきた。由香里はその子の父親は私だと思っているが、その子の父親は富岡だった。そして、今、真理子は自分のお腹にいる子の話をしている。その子は紛れもなく私の子だった。真理子との間にできた子だ、嬉しいはずなのだが、真理子は富岡の子だと思っていると思うと奇妙な気分になった。