小説「真理の微笑 真理子編」

二十七

 翌朝、真理子は病院に寄った。いつものように富岡を見舞うためだった。

 ナースステーションに行き名前を言うと、「ちょっとお待ちください」と言われた。

 内線でどこかに連絡しているようだった。

 しばらくしたら、上森医師がやってきた。その顔には笑顔が浮かんでいた。

「どうぞ、病室にお入りください」

 真理子は手指の消毒をして病室に入った。後から上森医師も入ってきて、「富岡さん、意識を回復されましたよ」と言った。

「ほんとですか」

「ええ。今日、手の状態を見に来た時なんですが、富岡さん、僅かですけれど動かれたんですよね。それで声をかけてみたら、反応があったんです、見ていてください」

 上森医師は富岡の頭の近くに寄ると、「富岡さん、右手を上げてみてください」と言った。すると、富岡は右手を少しだけ上げた。

「もう一度、右手を上げてください」

 同じように右手を少しだけ浮かせた。

「ねっ、見ましたか」

「ええ、見ました」

「意識が回復されたんですよ。これで一安心です」

 真理子は近寄って、「真理子よ、わかる。ま・り・こ」と言った。

「そのうち、奥さんの名前も思い出すでしょう。今は、このくらいで……」と言った。

 真理子は立ち上がって、上森医師に頭を下げ、「ありがとうございました」と言った。

 上森医師は手を左右に振って、「私の力ではありません。富岡さんの気力がここまで持ち直してきたということなのでしょう」と言った。

 

 真理子はいったん家に戻ると、炭酸飲料水をコップに注いで飲んだ。

 富岡の意識が戻った、真理子の頭の中はそれでいっぱいだった。

 これで富岡が完全に回復すれば、元のままじゃないの、と真理子は思った。テーブルに両手をついて、顔を上げ、そのまま中空を見据えていた。

 

 翌朝も、病院の六階のナースステーションに行くと、「ちょっとお待ちくださいね」と言われて待たされた。しばらく待つと、昨日の朝も会った上森医師が何やら抱えて現れた。

「ちょっと、こちらに来てください」と案内されたのは、ナースステーション近くの小部屋だった。

 上森医師と真理子は机を挟むように座った。

「後で、病室に行けばわかると思いますが、今、上半身を拘束させてもらっています」

「…………」

「これは、意識が戻ったのはいいのですが、点滴の針を抜こうとする行為が何度となく繰り返し見られたからです。点滴の針が刺さっているのが、嫌だったんでしょうね。ベッドの柵も万一の場合に備えて、一時的に上げさせてもらっています。今は点滴の針が刺さっている右手を、そのベッドの柵に拘束させて頂いています。当院にも拘束に対するガイドラインがあります。それは、概ね三点に集約できます。一つは、切迫性です。患者の行動制限を行わない場合に、その患者の生命または身体が危険にさらされる可能性が高い場合です。二番目は、非代替性です。その患者に対する行動制限以外に患者の安全を確保する方法がない場合がこれに当たります。最後は一時性です。患者に対する行動制限は、決して好ましいものではありません。従って、長期間、常態的に患者を拘束することは、当院ではしないことにしています。富岡さんの場合、意識がもう少しはっきりしてくれば、点滴の針を抜いたりする行為などはしなくなると思いますので、それまでの期間については、一時的に拘束を認めて頂きたいのです。拘束に関しては、それを行った場合、速やかに患者本人、もしくは患者が同意できない状態にある場合においては、ご家族の承諾を必要とするという内規が当院にはあります。それで一時拘束に関するこの書類に目を通して頂き、同意の旨のサインを頂きたいんです」

 真理子は「わかりました」と言うと上森から手渡された書類を読んだ。ほぼ、今上森が説明した内容が書かれていた。一番下にあるサイン欄に、富岡真理子とサインをして、上森に渡した。

 上森は軽く頭を下げると、「では病室に行きましょう」と言った。

 上森に続いて、真理子も富岡の病室に入った。昨日までは上げられていなかった柵が上がっていた。

 上森は、富岡が拘束されている箇所を指で指し示した。マスクをしていた真理子は頷いた。

「当面、こういう状態が続くと思うので、よろしくご理解のほど、お願いします」

「わかりました」

 上森が出ていくと、真理子は富岡に近づいた。

 意識が回復してくると、こういう事態も起きるのかと、真理子は思った。

 

 病院を出ると、真理子は会社に向かった。

 会社ではTS-Wordの発売に向けて、どの部署も忙しく動き回っていた。

 真理子だけが、社長室に入ると何もすることがなく、少し取り残されたような気分になった。

 社長が何もしないでも会社が自然に回っていく、これが本来の会社の姿かも知れないと真理子は思った。

 

 終業時刻になると、会社を出た真理子は富岡を見舞いに病院に向かった。ナースステーションに行くと、長野から刑事が見えているという話だった。

「ご家族の方、以外、面会謝絶中ですよ、と言ったら、ご家族の方はいつ頃、見えられますか、と言うので当病院での面会時間を教えて、午後はこの面会時間の間に見えられます、と言ったら、そこらで待っていますよ、と言ってました」

 刑事が来ていると聞いて、真理子の心は穏やかではなかった。しかし、考えていてもしょうがなかったので、富岡の病室に向かったら、後ろから声をかけられた。

 振り向くと二人の刑事が立っていた。二人の刑事は「島崎です」、「高橋です」とそれぞれ警察手帳を出して名乗った。

 真理子は近くのソファに二人を誘って、そこで話を聞くことにした。

「一体、どういうことなんでしょう。事故のことなら、この前、事故現場まで警察官立ち会いの下で行きましたけれど」と真理子は言った。

「それは承知しています」と年長らしく見える島崎が言った。

「実は自動車事故の件で、富岡さんにお話が聞けたらと思って来てみたんです」

「富岡は、お話ができる状態ではありません」

「それは看護師さんに聞きました」

「昨日、ようやく意識が戻ったところなんです」

「そのようですね」

「で、どのような話なんですか」

「これは当人に聞かなければ、しょうがないんですが、ただの自動車事故じゃなかった可能性がありまして……」

「どういうことですか」

「詳しくは本人から聞くつもりです」

「まさか、自動車で自殺しようとしていたと言うんじゃないでしょうね」

「いえ、そういうことではありません」

「とにかく、本人は今話せる状態ではないんです。帰って頂けますか」

「わかりました」

「ちょっと、待ってください。わたしを待っていたようですけれど、わたしにも用があるんですか」

「いや、そういうわけじゃありません。ただ、さっき、自殺と言っていましたけれど、そのようなお心当たりでもあるんですか」

「ありません」

「それじゃあ、今日のところは帰らせて頂きます」

 そう言うと二人の刑事は帰っていった。何のために、富岡に会いに来たのか、さっぱりわからなかった。そして、自分に会うつもりはなかったと言っていたが、真理子が富岡の見舞いに来るのを二人の刑事が待っていたふしがあった。それは、どういうことなのだろうか。ただ、茅野の警察署からわざわざ出向いてきたのだから、手ぶらで帰るのではしょうがないから、真理子の様子でも見ていこうとしたのだろうか。

 考えてもしょうがないから、真理子は富岡を見舞うことにした。