小説「真理の微笑 真理子編」

 翌日、富岡の病院移送の件は、二日後に決まった。都内のとある大学付属病院が転院を許可したのだった。

 そして、その二日後になった。富岡の容態が安定していたので、すぐに転院の準備が始まった。

 真理子は、茅野の病院で会計を済ませると、富岡を乗せた救急車の後を真っ赤なポルシェで付いていった。

 赤灯を回して、サイレンを鳴らしながら、他の車を追い抜いていく救急車の後ろを付いていくのは、交通法規の上で許されなかった。何とか、救急車に追いつこうとしたが、交差点がある度に離されていった。最後は、そのサイレンの音も聞こえなくなった。

 二時間半ほどかかりその大学病院に着いた。車を駐車場に止め、病院の玄関を入ると、総合受付と書かれた所に向かった。対応に出た女性に、今日茅野から転院してきた富岡が何処に運ばれたのかを尋ねた。女性は、「ちょっとお待ちください」と言って、院内受話器を取って、どこかに電話した。しばらくして、彼女が受話器を置くと、真理子に向かって、「三階のICUに運ばれたそうです。右手にエスカレーターがありますから、それで三階に行けば、すぐナースステーションがありますので、そこでお訊きください」と言った。

 やはりICUに運ばれたのだった。茅野の病院とは違って、全体的に騒々しかった。いつも誰かが出入りしているような状態だった。

 真理子は右手のエスカレーターで二階に上がり、それからもう一度エスカレーターに乗って三階に着いた。

 ナースステーションはあいにく誰もいなかった。所在なく立っていると後ろから看護師が声をかけてきた。

「どなたをお探しですか」

「あのう、今、主人がここに運ばれてきたはずなのですが、どうしていいのかわからないものですから……」

 彼女は「ちょっとお待ちになってくださいね」と言って、ナースステーションの中に入っていった。そして、しばらくして出てきた。

「茅野の病院から転院されてきた富岡修さんの奥様ですか」

「はい」

「それでは転院の手続きをしますので、こちらに来てください」

 その看護師はナースステーションの前に真理子を案内した。

 そして、いくつかの書類を取り出して、「こちらに住所、氏名などを記入してください」と言ってナースステーションの中に入っていった。

 記入する書類は四種類あった。

 それらに記入をすると「これでいいですか」と真理子は、ナースステーションの中の看護師に呼びかけた。彼女はそれを受け取ると、記入箇所を確認した後、「保険証をお持ちですか」と尋ねた。

「持っています」

「では出してください。コピーをとりますので」

 真理子の手から保険証を受け取ると、コピー機でコピーをとり、すぐにそれを真理子に返した。

「わたしはどうしたらいいのでしょう」

「今、医師が容態を確認しているところなので、少しお待ち頂けますか。終わりましたら、お呼びします」

 真理子は近くの長椅子に腰掛けた。それから二時間近くも待たされた。

 やっと「富岡さん」と呼ぶ声がした。そっちを向くと看護師がこちらにどうぞと言って、診察室のような所に案内した。

 中には四十歳半ばほどの医師がいた。

「富岡修さんの奥さんですね」

「そうです」

「真理子さんですね」

「はい」

「わたしは、主治医の中川です。ご主人の容態について説明します。いいですね」

「わかりました」

「ご主人は茅野の病院から、今日、転院されてきました。茅野の病院での処置が良かったのでしょう。通常、あそこまで重度の熱傷を広範囲に負うと危ないのですが、今は安定しています。今の状態が急変しない限り、命に別状はないでしょう。問題は、顔です。ひどく損傷しています。このままでは普通には見られない顔になってしまいます。そこでもう少し容態が安定したら、すぐに顔を形成することが必要になります。しかし、今のご主人は鼻も顎も砕けて、元の形状を留めていません。ですから、顔を形成する時に参考になる写真が必要なのです。その写真を元に立体図を書き起こし、顔を形成していくことになります。それには元になる写真が数枚必要です。できれば正面からのと左右からの三枚の写真があればいいのですが、ご用意できますか」

「できる限り探してみます」

「形成に関してはまた書類を書いてもらうことになります。こう言っては自信がないように聞こえるかも知れませんが、過度な期待はしないでください。私たちは芸術家と違って、自由に粘土で顔を形成するようなことはできないのです。思うような顔に形成できるかは、やってみなければわかりません。しかし、やらなければ到底、人前に出られるような顔にはなりません。形成はするしかないのですが、期待したような顔になる保証はないということです。これについては書類をよくお読みになってください。そして納得がいったらサインしてください。しつこいようですが、期待通りの顔になる可能性は非常に低いと思ってください。病院と患者、そしてその家族とのトラブルの多いケースの一つなので、その点をご理解ください」

「わかりました」

「書類と写真については、看護師から説明がありますから、ここでお待ちになっていてください。私はこれで失礼します」

 真理子は出ていく医師に頭を下げた。

 医師が出ていくと間もなく看護師が入ってきて、ナースステーションの方に案内した。

 その窓口で、少し大きめの封筒を渡され、これに正面、右、左の写った写真を入れてきてくださいと言った。

 真理子は正面はともかく、右、左の写真が都合よく見つかるとは思えないと訴えた。すると看護師は、「正面でなく別の角度からの写真であればいいのです。とにかく、立体図を作れそうな写真があれば入れてきてください」と言った。そして「三枚でなくて、何枚でもいいですよ」とも付け加えた。

「ただ、複数の人が写っている場合には、誰が富岡修さんなのか、印をつけてくれると助かります」と言った。

「それからこれが形成に関する書類ですが……」と言って、冊子のようになっている書類を渡した。それには顔の各部位についての詳細な説明が記されていた。看護師は「富岡さんの場合は、この冊子すべての項目が該当します」と言った。

「よくお読みになってください。写真はなるべく早い方がいいのですが、いつお持ちになりますか」

「今日、これから家に帰って探します。ですから、早い方が良いと言うのであれば、今日中にも見つけ出して持ってきますが」

「それなら明日で結構です。明日、写真とこの冊子の最後のページの記入欄に必要事項を記入して、切り取ってお持ちください」

「これを持ってくるのはこちらでいいのでしょうか」

「ええ、構いません。九時からスタッフがいますから、誰かに渡してください」

「夫には会えるのでしょうか」

「今は無理です」

「そうですか。また明日来ます」

 真理子はそう言ってナースステーションの前から離れた。