十六
富樫に借りていた剣道の道具代を渡した。
「後でも良かったのに」と富樫は言ったが、「こっちは早い方がいいと思っているんだ」と僕は応えた。
「もう、連休だな」と富樫が言った。
「飛び飛びのな」と僕は応えた。
テレビで言っているような大型連休になるところはそうなるだろうが、公立学校はそのままだ。剣道部は連休中も、夏季剣道大会兼関東大会に向けて、練習をすると言う。まぁ、僕には関係のないことだから良いけれど。
授業が始まると、各教科からこの前の業者テストが返された。僕はほとんどが六十点台だった。このくらいがいいのだ。八十点以上も取れたが、何事もほどほどが肝要だった。大体僕の実力では四十点も危ないくらいなんだから。
昼休みに沙由理が来た。テストが何点だったか、訊きに来たのだ。沙由理は、あんな風でも成績は良かった。塾にも通っていた。狙っている慶明大学には、現役合格するだろう。で、僕は今のところ、募集人数より受験者の方が少ない大学には、現役合格する自信はあった。
「早く百点にしないとね」と沙由理は言った。
「それ、何のこと」と僕が訊くと、沙由理は耳元に顔を寄せて「あなたと愛し合った時間よ」と囁いた。
それ、いずれ百点を超えるだろう、と言おうしたが、やぶ蛇だと思って止めた。
放課後、バックネット裏から、グラウンドで走る絵理を見たが、遠くに感じた。もう、絵理とは無理か、と思うと寂しくもあり、悲しくもなった。
家に帰ると、きくが手を突いて出迎えてくれた。
「そんなことしなくてもいいんだけれどな」とは言ったが、悪い気はしなかった。
「習慣ですから」ときくは応えた。
三階に上がり、着替えて、手を洗うと、ききょうをベビーベッドから抱き上げた。京一郎は眠っていた。
そのままリビングにききょうを連れていって、少し離しては歩いて来させた。
「お母様とききょうと京一郎の服を買いに行きました。今、ききょうが着ているのは、新しい服ですよ」ときくが言った。
「そうか」
「赤ちゃんはすぐ大きくなるから大変ですね」ときくが言った。
「向こうにいた時はどうしていたんだ」と僕が訊くと、「着物だからどうにでもなりました」と答えた。
なるほどと思った。ベヒー服だとすぐにサイズが合わなくなるから、買い替えるのが大変だが、江戸時代は着物文化だから、そこは調整可能なんだ、と思った。
「ききょうは、美人になるな」と言うと、きくが「京介様に似ているからですよ」と言った。
「そうか、俺に似ているかな。むしろ、きくに似てないか」と言ったら、きくが喜んだ。
「あっ、そろそろ夕餉の支度をしなくちゃ」ときくはキッチンに入った。
夕餉か、と僕は思った。江戸時代が懐かしかった。
「ご飯炊けるのか」と僕が訊くと、「ええ、お母様に教わりました」と言った。
きくは米の計量カップを見せて、「これでお米を釜に四杯入れたら、お米を研いで、最後に釜の下から四番目の数字という文字が書いてあるところまで水を入れればいいんですよね」と言った。大体言っていることは合っていたが、不安もつきまとった。しかし、「今朝もわたしが炊いたんですよ」と言うのを聞いて安心した。今朝のご飯は普通に炊けていたからだった。
きくが米を計量して、お釜で研ぎ、炊飯器にお釜を入れたところで、母がやってきた。
炊飯器を開けてみて、「これでいいのよ」と言うと、タイマーをセットした。そうか、母が確認していたんだ。だったら、問題ないはずだ。
「今日は何」と僕は母に訊いた。
「カレーよ」と答えた。
やったー、と思った。カレーは子どもの頃から好きだった。
きくはまだキッチンにいた。母を手伝っているようだ。
「きくにカレーの作り方を教えるの」と僕は母に訊いた。
「そうよ」と母は答えた。
「それは難しいんじゃないかな」と言うと、「何事も始めがあるでしょ」と母が言った。
「そうだけれど」と僕が言うと、「こういうのは、作ってみなければ覚えないのよ。見よう見まねを繰り返しているうちに、作れるようになるわ」と言った。
母の言うことはもっともだと思った。
「そうだね」と僕は言うと、ききょうを連れて三階に上がった。
夕食は当然カレーだった。
父も帰っていた。
「きく、カレー作りはどうだった」と僕が訊くと、「とても面白かったです」と答えた。
「ジャガイモの皮むきなんて上手よね」と母が言った。ピーラーでむくんだから、誰でもできることだろう、と思った。しかし、きくがピーラーを使うのか、とも思った。
食べてみた。味付けは母のものだった。いつもの味って感じだった。
でも父は、「うん。おきくちゃんの作ってくれたカレーは美味い」と言っていた。
母は笑っていた。
「わたしじゃないんですよ。お母様が作られたんですよ」ときくは言った。
「でも、おきくちゃんも手伝ったんだろ」と父が言うと「はい」ときくは応えた。
「それなら、おきくちゃんも作ったことになる」と父は自分の意見を曲げなかった。
「で、カレーを作ってみてどう思った」と僕が訊いた。
「難しかったです。初めてですし」と答えた。
「そうだろうな」と僕は言った。
「でも、おきくちゃんが手伝ってくれて、いつもより速く作れたわ」と母が言った。
「味見はしたんだろう」と僕がきくに訊くと「はい、しました」と言った。
「どうだった」と僕は訊いた。
「珍しい味でした。でも、美味しいと思いました」と答えた。
「じゃあ、カレーの初体験だ。食べてみなよ」と僕が急かした。
きくはエプロンを取ると、自分で盛り付けようとしたが、母が「わたしがやるから見ていなさい」と言った。
カレーの皿に半分ほどご飯を舟形に載せ、空いたところにカレーをかけた。
それをきくの前に置いた。
きくは箸がないので困っていた。
僕が「手元にあるのがスプーンだ。それをこうして持つ」とやって見せた。そして、ご飯を取りながら、カレーを掬った。
「こうするんだ」と言って、きくにやらせた。最初は上手くいかず、何度かやり直して、ようやく、スプーンにご飯とカレーが掬えた。
「それをこうして、少しずつ口に入れる」と僕がやって見せた。
「一度に入れると熱いよ」とも言った。
きくは恐る恐る食べた。一口、二口と口に入れた。スプーンのカレーを食べきると、スプーンを皿に置いて「美味しいです」と言った。
「こんなの食べたことがありません」と続けた。
それはそうだろう。江戸時代にはなかった物だし、前に来た時には、作らなかった。その時は、きくの食べられそうなものを選んで食卓に出していた。
これからは、きくの食べたことのない物がいっぱい出てくることになる。その度に、どんなことを言うのか、楽しみだった。
夜になって、あやめと交わる時、「不思議な匂いがしますね」と言った。
「これはカレーの匂いだ」と僕は言った。
「カレーという物ですか。聞いたことがありません」
「それはそうだろう。あやめは食べたことも見たこともない物だからな」と僕が言うと、「主様にはその味の感覚はありますよね」と訊いた。
「当然あるよ。今日、食べたもの」と答えた。
そしたら、あやめはニヤリと笑った。
「ではわたしも体験します」と言った。そして僕と交わった。
「わかりました。美味しいものですね」とあやめは言った。
「交わることで分かるのか」と訊くと、「ええ」と答えた。
僕の頭の中を読むなと言っても、あやめには隠し事はできないな、と思った。
多分、自然に分かることなのだろう。と言うより、そう思うしかなかった。