小説「僕が、剣道ですか? 3」

三十四

 浅草から、都営浅草線に乗って来た時と反対の順序で高田馬場駅まで帰った。

 僕はつけてくる奴がいるので「俺んちに寄って行けよ」と富樫に言ったら「いいね」と言うので、一緒に帰ることになった。つけてくる奴がいるので、大きな通りを選んで帰ることにした。

 すると、黒塗りの車が僕たちの少し前で止まり、中から黒服の男が出て来た。

 そいつは僕の前に来ると、「済みませんが、あの車に乗って頂けませんか」と言った。

「今、家に帰るところなんだけれど」と言うと、「そこをお願いします」とその男は言った。有無を言わせぬ感じだった。ここで、揉めてもしかたがないので、僕は「分かった」と答えた。

 やり取りを聞いていた富樫が「いいのか」と言うので、「しょうがないだろう」と言った。

「それより、きくとききょうを家まで送ってやってくれ」と頼んだ。

「それはいいけれど、本当に大丈夫か」と言った。

「大丈夫だ。きくとききょうは任せた。頼んだぞ」と言うと、黒服の男と一緒に車の方に向かって歩いた。

 車まで来ると、黒服の男が「車にお乗りください」と言った。僕は黒塗りの車の後ろの席に乗った。ドアが閉められ、反対側のドアからさっきの男が乗った。

 すると、車は動き出した。

 車は新宿の方に向かい、そこを通り過ぎると、黒金町に入っていった。

 その間、黒服の男は何も言わなかった。僕も何も訊かなかった。

 車は黒金金融の前で止まった。黒金組の本拠地だった。

 とうとう、黒金組とやり合うことになるのかと思った。服の上から、ナックルダスターを触った。

 ドアが開けられ、「お降りください」と言われた。

 僕は言われたように降りた。そして、「こちらへ」と言われるままに、黒金金融の玄関をくぐった。

 中に入ると、すぐ前にエレベーターがあり、僕の前に一人、後ろに一人が立った。エレベーターが開き、前の男が「どうぞ」と言った。

 七階建てのビルだった。男は七のボタンを押した。エレベーターのドアが閉まり、エレベーターは上に上がっていった。

 七階で止まると、反対側のドアが開いた。廊下があり、両側とその先の突き当たりにも部屋があった。エレベーターを降りると、「こちらへ」と突き当たりの部屋に案内された。ドアの前まで来ると、身体検査をしようとしたので、「やめろ」と僕は言った。

「弾きなんか持っちゃいない。それでも身体検査をすると言うのなら、帰らせてもらう」と大きな声で言った。中にいる奴にも聞こえただろう。

 部屋の中から「いいから、お入れしろ」と言う声が聞こえてきた。

 ドアを黒服の男が開け、「中へどうぞ」と言った。

 中に入った。広い部屋だった。

 その中央に大きな机があり、そこに壮年の男が座っていた。

 その机の前には、ソファタイプの椅子があった。

「ようこそ、鏡京介さん」と机に座っている男は言った。

 僕は何て答えていいのか分からなかったから、軽く会釈をした。

「どうぞ、そこの椅子にお座りください」と机に座っている男が言った。

 僕は男の言うように椅子に座った。

 僕には相手が何をしようとしているのか、さっぱり分からなかった。

「どうして、ここにお呼びしたか、わかりますか」と机に座っている男が言った。

「いいえ、分からないので、それを考えていたところです」と僕は答えた。

 オーバーコートの中に手を入れ、革ジャンのナックルダスターの感触を再び確かめた。

「黒金不動産では、随分、派手にやってくれましたね」

 机に座っている男は爪磨きを出して、爪を磨きながら、そう言った。

「やりたくてやったわけじゃありませんよ」

「それはわかっています。でも、こちらも随分痛い目にあわされているんですよ」

「お互い様でしょう」

「そうかな」

「そうでしょう。こっちも、僕の彼女が犯されているんだから」

「女は犯されても大したことないでしょう。でも、ゴンは大変な傷を負った。これじゃあ、不公平じゃありませんか」

「それはそっちの理屈でしょう。あのまま彼女を助け出さなければ、どこかに売り飛ばすつもりだったんでしょう。人一人の命とちょっとしたぐらいの怪我が比較できますか」

「ちょっとしたぐらいの怪我だと」と後ろにいた二人の内のどちらかが言った。

「お前たちは黙っていろ。俺は、この方と話をしているんだ」と机の男が言った。

「普通は、黒金不動産の一件は簡単にはチャラにできない話なんですよ」

「それはそっちの問題でしょ」

「あなたには、理解できないかも知れませんが、我々の世界ではそうなんですよ」

「じゃあ、どうするんですか」

 そう言うと机の男が、突然、笑い出した。

「なるほど、肝の据わったお人だ。私たちの世界に来れば出世間違いなしだ」

「済みませんが、就職の話ならお断りしますよ」

「いやいや、そんなつもりはありません」

「じゃあ、何ですか」

「鏡京介という人に会ってみたかったんですよ」

「…………」

「黒金高校と揉めてるらしいじゃないですか」

「それがどうかしたんですか」

「うちの組にも、その高校の出身者が多いものだから、いろいろと情報が入ってきてね」

「それが何か関係あるんですか」

「いや別に」

「そろそろ、帰らせて貰えませんか」と僕は言った。

「もう少し話に付き合ってください」

「いいですよ」

「さっきも話したように、黒金不動産の一件は簡単にはチャラにできないんですよ」

「それは聞きましたが……」

「だが、あなたには大きな借りがある」と机の男は言い出した。

「えっ、僕には覚えがありませんが」

「覚えていないはずはありませんよ」

「どういうことですか」

「あなたは、急な階段から転げ落ちた乳母車を抱いたまま、トラックに衝突したことがあるでしょう」

 僕は頷いた。

「そのおかげで、乳母車に乗っていた赤ちゃんは助かった」

「ええ」

「その子の名は良太と言うんですよ」

「良太君ですか」

「そうです。その母親が神崎美代子、わたしの妻です」

「あなたの……」

「わたしは神崎茂といいます。その節はありがとうございました」

 机の男は頭を下げた。

「わたしは黒金組の若頭をしています。わたしの息子を救ってくれた人に手出しはできない。だから、黒金不動産の一件は忘れることにします。ただし、今回だけです。今回だけ、息子を助けてくれた借りがあるので、それでチャラにします。いいですね」

「分かりました」

「黒金高校との件にも口出しはしません。あなたがご自分で何とかするしかないでしょう」

「それでいいです」

「じゃあ、話はこれで終わりです」

「分かりました」

「おい、この方をお送りしろ」と机の男が言った。

 僕は彼に会釈をして、「どうぞ」と言う黒服の男に付いて部屋から出た。

 そして、黒塗りの車に乗った。

「どこまで」と訊くので、「新宿駅の南口」と答えた。

 そこで、車から降りると、車は走り去った。

 僕は黒金組とやり合わないで済んだことにホッとした。

 

 家に帰ると、富樫が「どうだった」と訊いた。きくも心配そうな顔をしていた。

 それで黒金不動産の一件を省いて、大方の話をすると「良かったな」と富樫に言われた。

 富樫が帰ると、きくは「富樫さんには全部は話していないんですね」と言った。きくにも、全部を話した記憶はなかったが、覚えてはいなかった。

 僕は自分の部屋に上がっていった。ききょうはベビーベッドで眠っていた。