小説「真理の微笑」

二十

 昼過ぎに体温と脈拍を測りに来た看護師が「明日の午後、シャワーをしましょうね」と言った。

「そこでですか」と、病室に備わっているシャワー室を見て言った。声はまだ上手く出せていなかったが、看護師も聞き取る事ができるようになっていた。

「いいえ、下の階の共同浴場でです。もう包帯はしませんから、上だけでも肌着があった方がいいけれど……」

「あると思うんですけれど、なければ妻に持ってこさせますよ」と言った。しかし、私は真理子が来たら一階の売店で肌着を買おうと思っていた。この二ヶ月と少しで私は随分と痩せてしまっていたからだった。それよりも何よりも、富岡が着ていた肌着なんて着たくもなかった。

 

 真理子は六時の夕食の後にやってきた。今日は遅かった。

「何かトラブったのか」

 もう習慣のようになっているキスの後に、私は尋ねた。

「そうじゃないんだけれど、サポート要員が少なすぎて、サポート・サービスが追いついていないのよ。開発部門の人たちまで電話対応に追われていて、大変だったの」

「そうか」

「このままじゃあ、通常業務にも支障をきたしかねないわ」

「そうだな」

 トミーソフト株式会社へは行った事がないので、どんな規模の所でやっているのか分からなかった。(株)TKシステムズなら、こんなヒット作を出したら、会社移転するしかない事は目に見えていた。

 私はどうしたらいいのだろう。と考えているうちに、閃くものがあった。さっき富岡が着ていた肌着なんて着たくもないと思った事が会社についても言えるのではないのか。そうだとしたら会社を新しくしてしまえばいいのだ。それには会社移転は好都合ではないのか。そして、会社移転に合わせて、社長室の事務用家具も含めて内装なども一新してしまえば、会社から富岡の痕跡を少しでも消す事ができる。一石二鳥ではないか。

 

「こんな事言うのは情けないのだが、会社がどんな所だったか分からないんだ」

「思い出せないの」

「ああ。何処にあるのかも、覚えていない」

 真理子は困った顔をした。

「そこは狭いのか」

「狭いって言うか……」

「今は手狭になっているんだね」

「そうね。バイトでオペレーターを何人か雇ったんだけれど、もう限界ね」

「会社移転しよう、もっと広い所に」

「それはそうしたいけれど、今のあなたの状態じゃあ……」

「俺が病院にいたって、会社移転なんて簡単にできるさ」

 真理子は私の顔を見た。私は真剣な表情をしていたのだろう。すぐに「経理と相談してみる」と言った。

 

 北村と渋谷界隈を歩いた事がある。いくつかのビルを見て、あそこに会社を持ちたいな、と言っていた事を思い出していた。

 表通りはどこも名のある会社の看板が並んでいた。しかし、表通りを一つ入れば、名前の知らない幾つもの会社が並んでいた。そんな所の方が性に合っていた。

 私たちは勝手に「あそこに決めた」と指さしていた。

 結局、真理子と話し合って、会社移転の話は、経理と営業に相談して決める事にした。

 

 私は、真理子に明日のシャワーの話をした。それで売店に肌着を買いに行く事にした。看護師を呼んで自分で車椅子に乗ると、私と真理子は一階の売店に降りていった。

 肌着は幾種類もあるわけではなかった。白のランニングシャツと、半袖と長袖のそれぞれS・M・L・LLしかなかった。私はMの長袖を選んだ。腕にはケロイドが残っていたからだった。バスタオルとフェイスタオルも買った。

 甚平のようなパジャマは毎日着替えていた。それはレンタルだった。バスタオルとフェイスタオルもレンタルできたが、毎日、シャワーを浴びるようになってから、レンタルすればいいと思って、レンタルはしていなかったのだ。

「ようやく、躰を洗えるようになったのね」

「うん」

「わたしも何か手伝える事あるかしら」

「いや、いいよ」

 私はお腹も背中もケロイド状態だという事は分かっていた。真理子が富岡の躰をよく見ていなかったとしても、躰つきを見て富岡ではないと思わないとも限らなかった。

「それより、会社移転の方の話を進めておいて欲しい。心に留まった物件があるなら、チラシでもなんでもいいから見せて欲しい」

「わかったわ」と言った後、「ほんとは裸を見られるのが恥ずかしいんでしょう」と珍しく真理子は冗談を言った。

「馬鹿」

 私は右手で真理子のおでこを押した。