小説「真理の微笑」


 混乱に陥っていた私に声が聞こえた。
「あなた、わたしよ」
 不意に頬に手が触れて、女の顔が現れた。しかし私には見覚えがなかった。いや、そう言えば時々この病室に足を運び、包帯越しに私の顔に触れた女があったのを思い出した。そして、遠い記憶の底から響いてくる小川のせせらぎのようにすすり泣く女の声も……。だが、それも朦朧とした意識の中の途切れ途切れの記憶に過ぎない。
 私はきょとんとしたまま、女の顔を見続けた。
「ねぇ、わかる。わたしが」
 細く高い鼻梁を挟んで二つの大きな瞳が、私を覗き込んでいた。髪はショートカットだった。耳にシルバーのイヤリングが鈍い光沢を放っている。
 私の近くに顔を寄せて、次第にその細面の顔に心配の表情が広がっていった。
「ねぇ、真理子よ。真理子」
 女は、多分、自分自身の名を言った。しかし、私には女の顔も名前も、覚えがまるでなかった。一体自分に何が起こったのか、私にはまだ良く理解できていなかったのだ。
 女はくるっと振り向き、「先生!」と助けを求めるように叫んだ。
 先程、私の顎をぐいっと持ち上げた医者が、彼女の後ろに立っていた。そして、彼は頭を振ると「ご主人はまだ話せませんし、あれだけの事故に遭われたんだから記憶が一時的に混乱しているという場合だってありますからね」と言った。
 彼の答えは女の不安に対して、ただ説明を加えたのに過ぎなかった。私はこういうタイプは……嫌い……だった。
 と、頭の中に引っかかる言葉が浮かび上がってきた。
『ご主人はまだ話せませんし……』
 えっ、ご、主、人……だって……。すると……。
 私は医者から視線を女に戻した。今にも泣き出しそうに潤んだ瞳を持つ、この美しい女性は、私の〈妻〉……なのか……。