僕が、剣道ですか? 7

三十六
 三学期になった。
 僕は、今年で卒業していく剣道の先輩三年生、十三人に対して、一人一人対戦していった。彼らにとって、これが最後の部活だった。僕との対戦は彼らからの要望であり、僕からの餞別だった。
 一対一で負けることはなかった。そして、気を抜くこともなかった。それでは餞別にならなかった。僕は全力で先輩たちに立ち向かっていった。そして、竹刀を弾くと、小手から、胴、面と立て続けに三箇所を打った。
 終わった後、礼をして、先輩たちは僕に近付いてくると「ありがとう」と言った。そして、「次のインターハイも優勝しろよ」と口々に言った。
 僕は「はい」と応えた。

 新しい家が完成した。
 学年末試験は三月上旬にすることになり、引越しはその前の週末になった。しかし、今の僕には、学年末試験はどうでも良かった。
 その土曜日に引越しが始まった。
 父と僕が今の家に残って、荷出しの指示をした。受け入れ先の新しい家には、母が行っていて、荷物の運び込み場所の指示をした。きくはききょうと京一郎を連れて、新しい家の方に行っていた。
 荷出しが終わったのは、お昼過ぎだった。それから、僕らは父の運転する車に乗って、新しい家に向かった。
 新しい家では、まだまだ荷入れ作業が続いていた。
 作業が終わったのは、午後六時少し前だった。それから、僕らは近所に引越しの挨拶がてら、引越し蕎麦を届けた。
 それらが済んだのは、午後七時過ぎだった。
 片付けるのは、後回しにして、近くの寿司屋に食べに行った。
 帰って来たのは、午後九時を過ぎていた。疲れていた。
 僕ときくは自分たちの部屋に行って、ベッドの厚いマットレスにシーツを敷いた。そして、新しい掛け布団にカバーをした。毛布にもカバーを掛けた。
 それから、着替えを持って四階の風呂場に行った。父が入っていたので、出てきたら声をかけて欲しいと頼んだ。
 とにかく上着やズボンの着替えだけはした。引越しで汚れていたからだ。
 そしてベッドに倒れた。きくも横に来た。
「これがわたしたちの家ですね」ときくは言った。
「そうだよ」と言うと「夢みたいです」と言って抱きついてきた。
「夢であるもんか、夢で……」と僕はきくを抱き締めた。
 父が風呂から上がったと声をかけてきた。
 僕は着替えとバスタオルを持って、きくの手を引いた。
「一緒に入ろう」と言った。今度のバスルームは大きかったので、一緒に入ることができたのだ。ききょうと京一郎を連れて、四階に下りていった。
 ききょうは僕が、京一郎はきくが抱いて洗った。お互いに浴槽に浸かると、きくを先に脱衣所に出し、ききょうから渡し、次に京一郎を渡した。
 僕が脱衣所に出て行った時には、二人ともおむつをして、パジャマを着ていた。
 僕はバスタオルで躰を拭くと、スウェットを着た。きくは浴衣を着た。
 そして、きくが京一郎を抱き、僕がききょうを連れて五階に上がっていった。
 京一郎をベビーベッドに寝かせ、ききょうときくはダブルベッドに横になった。ききょうが眠ったら、コンドームをつけて、きくを抱いた。最初は声を殺していたが、そのうち堪えかねて、声を出した。僕はきくを思い切り攻めた。きくの声はますま高くなっていった。
 汗をかいたので、トイレの横のシャワーを浴びて、着替えをした。きくもそうした。このシャワーは便利だった。
 ダブルベッドに戻ってくると、きくが手を伸ばしてきた。その手を掴んで握った。きくも強く握った。
「わたしは幸せです。夢なら覚めないで欲しいです」ときくは言った。
「そうだな。これが幸せというものかも知れないな」と僕は言った。
 手を握り合ったまま、眠ってしまった。
 目覚めると、きくが「おはようございます」と言った。
「おはよう」と僕は返すと、「今、何時」と訊いた。きくは時計を見て、「九時です」と言った。
「朝食にしますか」と訊くので、「そうだな。トーストパンにしてくれ」と言った。食パンをトーストすることは、きくも覚えた。
 きくはすぐに下のキッチンに下りていった。

 その日は日曜日だったので、一日中引越しの片付けをしていた。
 明日からは、学年末試験だった。

 その学年末試験も無事乗り切った。
 答案用紙が返されてくると、平均して僕は七十点台に上がっていた。今回は、時を止めてずるをしたわけではなかった。きくに教えるために、いろいろと勉強していたからだと思った。英語の点だけが四十五点だった。赤点すれすれだった。
 きくはもう少しで小学高学年の参考書を終える。そうすると、今度は中学校になる。中学校の勉強を教えるときは、英語も教えようかと思った。英語の表記が至る所にあるので、分かれば便利だろう。それに僕も中学から英語をやり直せるし、と思った。
 その時、富樫がやってきて、「お前んちに行ってもいい」って訊いてきた。
「今日か」と訊き返すと、「そうに決まってるだろう」と言った。
「まだ片付いていないんだ」と言ったが、「そんなのいつものことだろ」と言った。
「しょうがないな」と言うと「沙由理ちゃんも行きたいって」と富樫が言った。
「えっ」と言う間もなく、廊下の窓から顔を出して、富樫は誰かにOKサインを送っていた。誰かって、沙由理に決まっているだろう。
 沙由理が、うふふふ、と笑いながら入ってきた。
「試験も終わったし、丁度いいわよね」と言った。
 何が、丁度いいわよね、だよと、心の中では思ったが、口にはできなかった。

 家に着くと、エレベーターに乗り、四階に案内した。エレベーターに乗ることもびっくりしていたが、富樫も沙由理も家の構造を知らないので、こっちのリビングに連れて行くことにしたのだ。
 ブザーを押し、玄関を入ると、母ときくとがいた。
 母が「あら、富樫君」と言った後で、「そちらは沙由理ちゃんね」と言った。
「お邪魔しまーす」と二人は言った。
 きくは「いらっしゃいませ」と言った。三本指での挨拶はしなかった。江戸時代ではないから、ということを母に教わったのだ。
 富樫は「あれ、おきくちゃんいるの」と言った。
「そうか、春休みなのか」と勝手に納得した。
 きくがスリッパを出し、二人はそれを履いてリビングに入っていった。
「広いですね」と沙由理は言った。
「ほんとですね」と富樫も言った。
 前の家に比べれば倍ぐらい広くなっていた。
「こちらへ」ときくが二人を席に案内すると、「紅茶にしますか、コーヒーにしますか、それともお茶にしますか」と訊いた。
 富樫は「僕はコーヒー」と言い、沙由理は「紅茶をお願いします」と言った。
「わかりました」と言って、きくはキッチンに入っていった。
 僕は訊かないのと思っていたら、「京介様はコーヒーですよね」と言われた。
「うん」と答えた。
 母がテーブルに着くと、「どお、新しい家は」と二人に訊いた。
「素晴らしいです」と沙由理が言った。富樫も「本当にそうです」と言った。
「そう、嬉しいわ」と母が言った。
 僕が席に着くと「京介の部屋を見せろよ」と富樫が言った。
「わたしも見たいわ」と沙由理も言った。
「それは駄目」と僕は言った。
「何故」と富樫が言った。
「まだ、整理してないから」と答えた。すると母が「そんなことはないわよね。ちゃんと片付いているわよね。おきくちゃん」と言った。
「はい」ときくが答えた。
「ダメダメ、絶対駄目」と僕は言った。
 あのダブルベッドに京一郎のベビーベッドは、二人には見せられない。
 母はそれを分かって言っているのか、と言いたくもなった。
 母は楽しむかのように「見せてあげたら」と言った。
「駄目だって言ってるじゃないか」と僕は母に言った。
 母は目の端で笑って、「そお」と言った。
「じゃあ、今度来たときに見せてくれる」と沙由理は言った。
「次も駄目」と言った。
「じゃあ、いつならいいのよ」と沙由理は言った。僕は「ずうっと先」と答えた。
「それじゃあ、いつまで経っても見られないじゃないのよ」と沙由理は言った。
 そうかもな、と思ったが、それで事は収まった。
 しばらく四階を見て回った後で、二人はテーブルに着くと、まず富樫が「俺、思い出したことがあったんで先に帰ります」と言った。それに続くように、沙由理も「わたしもこれで帰ります」と言った。
 下まで送ると、沙由理が「今度来たときには、絶対、あなたの部屋を見るからね」と言った。
 今度があったらな、と思ったが、「ああ」と返事をしていた。
 二人と別れて、リビングに戻ると「お袋、どういうつもりなんだよ」と言った。
「あの二人に見せられないものがあるっていうことが問題なんじゃないの。連れてくるなら、自分の部屋を堂々と見せられるくらいの勇気を持ちなさい」と言った。
「分かった。いつか、その勇気を持つようにする」と僕は言った。

 春休みは、富樫と登山に行った。
 そして沙由理とはシティーホテルでたっぷりと甘いデートをした。それはこれからも、続くだろう。
 きくとは毎晩のように近藤さんのお世話になっている。
 あやめとも交わっている。
 僕は躰が幾つあっても足りない。

 そして新学期が始まる。
 今年は高校三年生になる。大学受験の年だ。どこを受験するかはもう決めている。無理でも国立を目指す。
 そして剣道インターハイ・男子個人の連覇がかかっている。それはやり遂げなければならない目標だった。
 高校を卒業したら、沙由理には本当のことを話すつもりだ。これは母との約束でもあったが、今は僕の問題としてそうすべきだと思っている。
 沙由理のことは好きだ。好きなだけに嘘があってはいけないのだ。
 そして、きくの戸籍問題にも立ち向かおうと思っている。きくをこのままにしておいていいはずがない。僕に解決策を見付ける義務がある。僕が何としてでも解決するのだ。
 きくを現代に連れてきてしまったのだから。その責任は重い。