小説「僕が、剣道ですか? 5」

二十五
 次の宿場に着くと、早速泊まるところを探した。
 個室に泊まれるところが見つかったのでそこにした。このあたり一帯は温泉が出るそうだ。僕は久しぶりにゆったりと湯に浸かれることに期待した。
 風車は早速、碁の手つきをしていた。
 風車には分からないことだが、今日も激しい戦いをしたのだ。時を止めるというのは、思っていた以上に疲れるものだ。その疲れは徐々に現れる。

 折たたみナイフで髭を剃り、頭と躰を洗うと湯に浸かった。目を閉じていると、眠ってしまいそうだった。
「境内にはどれほどの敵がいたのですか」と風車が訊くので、「五十人」と答えた。
「五十人もですか。でも、すぐにやってきましたよね。五十人相手に、よくそれほど時間をかけずに倒せましたね」
「相手が弱かったからです」と僕は嘘を言った。風車に話しかけられるのが面倒だった。
 頭を石につけて、目には手ぬぐいを載せた。その格好で湯に浸かっていると、眠ってしまった。
「鏡殿」
 風車の声がした。
「あまりの長湯は、かえって躰に毒ですよ」と言った。
 僕は起き上がった。
「眠っていましたか」
「ええ」と風車が言った。
「疲れているんですね」
「そうですね」
「今日は、碁は止めておきましょう」と風車が言った。
「そうしましょうか」と僕は言ったが、ほっとした。

 夕餉は意外に豪勢だった。鰺の塩焼きに鯉のあらいに鯉濃だった。後、煮物が二品ついて来た。
 酢味噌で鯉のあらいを食べた。初めてだったが美味しかった。
 風車は上手そうに食べた。きくも食べるは初めてだと言ったが「美味しい」と言っていた。
 鯉のあらいは、生ものだったので、ききょうに食べさせるのは止めた。その代わり、鯉濃の身をほぐして食べさせた。

 夕餉が終わると膳が片付けられ、布団が敷かれた。
 僕がすぐに布団に潜り込むと、「おやすみなさい」と言って風車は隣の相部屋に行った。
 きくがききょうを抱いて、隣に潜り込んでくると、「今日は大変でしたね」と言った。
 僕は目を閉じたまま「ああ」と言った。
「風車様がいましたが、忍びの者に囲まれた時は、生きた心地がしませんでした」と言った。
「そうだろうね」
「京介様が、時を止めて相手を倒されたことを風車様に知られはしませんでしたか」
「さすがにおかしいとは思っただろうが、時を止めているとは思ってもいないだろう」と言った。
「そうですよね。わたしも何度も経験しなければ、信じられませんでしたから」
「もう寝かせてくれ」と僕が言うと、「済みませんでした。きくの心遣いが足りませんでした」と言った。
「おやすみ」
「おやすみなさい」

 次の日も良い日だった。
 朝餉を済ませると、早速宿を後にした。
 宿を出ると、田んぼが続いていた。見渡す限り、青い稲の海原だった。遠くに農家が見えた。
 あたりに公儀隠密の姿はなかった。
 僕らはゆっくり歩いていたから、何人もの人に追い抜かれていった。
 江戸時代の人は健脚だったのだ。大仙道を歩くことなど日常的な人も多かった。
 少し歩いて行くと、若い夫婦が道ばたにしゃがんでいた。
 通り過ぎようとしたところ、風車が声をかけていた。
「どうしたんです」
「妻に陣痛が来たようなんです」と若い亭主の方が言った。
「えっ」と風車は驚いたが、それを聞いた僕も驚いた。
 きくが駆け寄っていった。
「京介様」と僕を呼んだ。
「この方は今にも、お子が生まれそうです」と言った。
「だが、ここは街道の途中だぞ」と僕は言った。前の宿場にも、次の宿場に行くにも一里はありそうだった。悪いことに、ちょうど宿場と宿場の間だったのだ。
「でも、子は待ってはくれません」ときくが言った。
 風車があたりを見廻して、「あそこに農家が見えますな。あそこに行くしかありませんね」と言った。
 その農家を見て、農家まで一キロぐらいかなと思った。
「そうだな」と僕は言うと、妊婦をどう運ぶか考えた。
 今、押している台車が目に入った。ここに乗せて行くしかなかった。
 荷物を整理して、婦人に台車に乗るように言った。
 婦人は不安げな目をした。しかし、亭主が「そうさせてもうらしかない」と言うと台車に乗った。
「ではあの農家に向かいましょうか」と僕は言った。
「お頼みします」と亭主が言った。
 僕は台車を押してみた。
 重かった。しかし、これで行くしかなかった。