小説「僕が、剣道ですか? 3」

三十九
 家に戻ると、沙由理から携帯が掛かってきた。
「無事、PTA会も切り抜けたようじゃない」
「お母さんから聞いたのか」
「ううん、ママは何も話してはくれなかったけれど、様子でわかるわ」
「そうか。で、何の用だ」
「何の用じゃ、ないわよ。PTAの役員会のことで、この前、カラオケを断ったでしょう。それも終わったんだから、カラオケに行きましょう」
 仕方ないな、と思った。
「で、どこで待ち合わせるんだ」
「新宿の区役所、わかる」
「調べれば分かるだろう」
「今度の土曜日、午前十時に一階の玄関のところで待っているわ」
「ちょっと、こっちの都合も訊けよ」
「何かあるの」
「別に何もないけれど」
「だったら、待ってるわ」
 そう言うと沙由理は携帯を切った。
 新宿の区役所って、どういうところを待ち合わせ場所にしてるんだ、と言いたくなった。

 一月二十日、土曜日。
 検索して新宿の区役所を見付け、そこに午前十時に行った。
 リバーシブルのオーバーコートと革ジャンはクリニーングした物を着て行った。
 もちろん、武器は持っていなかった。
 沙由理と会うと、どんどん連れられて歩いて行き、いつの間にか歌舞伎町に入っていた。歌舞伎町から少し先に向かう途中の通りには、ラブホテルが並んでいた。
 へぇー、と思っているうちに腕を掴まれて、その一つに入った。ルームキーを沙由理が受け取り、三〇三号室に入った。
「ここって竜崎雄一のクラスの番号と同じね」と沙由理は言った。
「それをなんで君が知っている」と僕が訊くと、「わたしは何でも知ってるの」と答えた。
 沙由理は服を脱いで裸になった。そして、僕を誘った。僕も裸になり、沙由理に飛びかかっていった。
 ホテルを出たのは午後三時半頃だった。
「五時間もいたのよ、凄かったわね」と沙由理が言った。
「この後、どうする」と沙由理が訊くので、「疲れたから帰る」と答えた。
 新宿駅で沙由理と別れた。
 僕は歩いて家に帰った。

 一月二十二日の月曜日は、ききょうの二回目の予防接種の日だった。西日比谷高校には、午前八時に、風邪で学校を休みます、と電話連絡した。
 午前十時に、この前予防接種をした小児科医にきくと一緒にききょうを連れていき、二回目の予防接種を受けてきた。
「次回の予防接種は、四週間後の二月十九日月曜日です」と看護師に言われた。
 帰る時に、きくに似合いそうな防水加工がしてあるナップサックを買った。これでどこかに行くとき、ききょうの哺乳瓶やミルクなどを僕のショルダーバッグに詰めなくても済む。

 金曜日の夜、沙由理から携帯が掛かってきて、明日か明後日、まだラブホテルに誘われた。僕は都合が付かないからと言って、断った。

 そして一月三十日になった。明日は満月だった。
 何となく、今日、赤い月を見る気がした。
 だから、クラスメートや特に富樫とは良くしゃべった。
 そして、家に帰った。
 午後八時に家族と夕食を済ませると、きくとききょうとで風呂に入った。
 出て来ると、自分の部屋に上がっていった。
 ベッドに横になっていると、窓を開けたきくが「京介様」と呼んだ。
 窓に行くと、空に赤い月がぽっかりと浮かんでいるのが見えた。
「赤い月ですね」ときくが言った。
「お前にも、あの月が赤く見えるのか」と訊いた。
 きくは「はい」と答えた。
 ということは、明日、タイムスリップする日だということになる。

 寒いので窓を閉めた。
 タイムスリップするには、何らかの衝撃が必要になる。僕はトラックにぶつかった以外は落雷によって、タイムスリップした。現代に戻る時も落雷によって戻ってきた。
 すると、また落雷を待つしかなかったが、このあたりは高いビルが建ち並んでいて、低いところに雷が落ちてきそうにもなかった。
 どこか広い場所が必要だった。
 僕は考え、そして決めた、西日比谷高校のグラウンドに。
 明日、午後十時には、西日比谷高校のグラウンドに行くんだと心に決めた。
 そうすれば、準備をしなくてはならなかった。
 きくに巾着を出させた。中には十八両と三八七〇文が入っていた。
 これはきくに持たせるつもりだった。万が一、離れ離れになっても、きくが困らないようにと思ったからだった。
 一階の風呂場に行って、棚からトランクスと肌着、長袖のシャツ、そして靴下をビニール袋に入れられるだけ入れた。
 そして上に上がってきて、ショルダーバッグに詰めてみた。トランクスと肌着、それと長袖のシャツを入れるといっぱいになった。長袖のシャツを出して、靴下をその分入れてみた。トランクスと肌着は必需品としても、長袖のシャツと靴下は必需品というわけでもなかった。長袖のシャツは着る機会もそう多くはなかった。三枚だけにした。靴下は五足にした。すると、少し隙間ができた。
 その時、きくとききょうのことが頭に浮かんだ。
 きくはともかくききょうの服やバスタオルは必要だった。
 ききょう用のバスタオルやタオルを部屋の戸棚から出した。
 それをまず、ショルダーバッグに詰めた。それからトランクス五枚と肌着三着、長袖二枚、靴下三足を入れてみた。
 それでショルダーバッグはいっぱいになった。
「何をしているんですか」ときくが訊くから、明日、きくの時代に戻れるかも知れない、という話をした。
 そうしたら、きくは慌てて、あれやこれや用意し出した。ナップサックに詰めるとすぐにいっぱいになった。
「哺乳瓶とかミルクなんかもいるぞ」ときくに言うと「そうですね」と答えた。
 浅草に行った時のように、哺乳瓶と保温用の水筒とミルクの袋、赤ちゃん用の水の入ったペットボトルをナップサックに入れようとしたが全部は入らなかった。しかし、それらは必要だから、きくに詰めるように言い、他のものは何とかしなければならなかった。
 ミルクはもっと買っておくべきかも知れないと思った。入りきらない物があるのだから、ナップサックももう一つもっとデカい物を買おうと思った。
 しかし、落雷するには金属の長い刀のようなものがいる。それはどうする。
 しばらく考えた。すると、思い出した。最初に黒金高校の連中とやり合った時に、金属棒を奪い取って、それを線路の下のコンクリートの間に隠したことを思い出した。それを使えばいい。明日、取りに行ってこようと思った。
 双眼鏡は向こうでも使えるから、ショルダーバッグに入れた。

 ベッドに入ったが、なかなか眠れなかった。きくも同じようだった。
 だが、そのうちに、眠った。

 次の日は午前七時に起きた。ききょうを抱いて下に下り、出勤前で忙しくしている親父に抱かせた。母は怪訝な顔をしていた。
 朝食を済ませた親父が家を出る時、きくが玄関で「いろいろとお世話になりました」と言った。父は何のことか分からないようだった。
「じゃあ、行ってくるよ」と言って家を出た。玄関の戸が閉まるまで、きくは頭を下げていた。
「何なの」と母は言った。
「後で説明するから」と僕は言って、西日比谷高校に電話した。
「一年四組の鏡京介です。済みませんが、風邪をひいて、熱があるので今日は休みます」と言った。
 母が「わけを話して」と言うので、一時間ばかり話をした。
 途中から、母は泣き出した。
「おきくちゃんとききょうちゃんは、今夜、元の時代に戻るのね」と言った。
 隣にきくも座って話を聞いていた。そして、母と同じく泣いていた。
「こっちに来て」と母はきくに言った。きくが側に寄ると、抱き締めて泣いた。
 僕は立ち上がると、「ちょっと行ってくる所があるから」と言ってリビングを出た。
 家から出ると、新宿に向かい、それから黒金町に入っていった。線路の下のコンクリート沿いを歩き、目的の金属棒を見付けた。
 それをオーバーコートの中に隠すと、家まで持って帰った。
 リビングに上がると、母はききょうを抱いていた。そして、子守歌を歌っていた。僕は涙をこぼしそうになった。
 金属棒をベッドの下に入れると、リビングに下りていき、「買い物に行こうと思っている」と母に言った。
「わたしも行くわ」と母が言った。
「いいよ」と僕は応えた。

 まずデパートで防水加工の大きなナップサックを買った。それからベビー用品売場に行き、向こうでも使えそうな物を買った。ミルクはできるだけ多く買った。紙おむつは嵩張るだけだからやめた。ガーゼや包帯は買った。はさみも買った。そして四十枚入りの中程度のビニール袋も買った。
 それらを買って家に帰ると、大きなナップサックに詰めてみた。少し余裕があったので、小さいナップサックに詰められなかったききょうの着る物や余分にバスタオルや白い新しいタオルを入れた。向こうに行ったら、僕の着物も必要になると思い、それも詰め込んでみた。そうしたら、いっぱいになった。
 午後二時になっていた。後、八時間だった。
 僕は自分の部屋に行き、穿き替え用のジーパンを詰め込んでいないことに気付いた。すぐにクローゼットからジーパンを取り出し、なるべく小さく畳んで、ショルダーバッグに何とか入れた。
 午後三時に、きくとききょうには現代で食べる最後のおやつを食べた。買い物の途中で買ってきた大福だった。ききょうにはすりつぶした果物を食べさせた。
 おやつを食べながら、きくが涙すると、母も泣き出した。
 おやつを食べ終わると、もう一度、持って行く物の点検をした。ききょうのミルク用のペットボトルは一本だけにした。嵩張るし、いずれ、向こうに行けば無くなる。いざとなれば、沸かした湯を冷まさせればいいだけのことだ。それよりもミルクの袋を沢山詰め込む方を選んだ。
 午後六時になった。
 きくとききょうには現代での最後のお風呂に入った。ききょうを先に洗って、外で待っていた母に渡し、僕はきくに背中を流してもらった。
 ゆっくりと湯船に浸かった。
 午後八時になると、父はまだ帰ってこなかったが夕食にした。
 すき焼きだった。今日は高い牛肉を買ってきていた。
 きくは初めて食べるすき焼きに「美味しいです」と何度も言った。母はこのきくの「美味しいです」を聞くのは、これが最後なのかと思ったのか、涙した。
 僕も泣かないように食べるのに苦労した。
 食べ終わったら、すぐに着替えをした。
 ぼくは肌着に長袖のシャツ、トランクスの上にジーパンを穿き、靴下を履いた。
 そして、革ジャンの内ポケットに折たたみナイフを入れ、リバーシブルのオーバーコートを着た。
 きくも着物を着て、抱っこ紐でききょうを抱いた。背中には小さめのナップサックを背負った。巾着はきくに持たせた。
 僕はベッドの下から、金属棒を取り出し、オーバーコートに隠した。
 それから、ショルダーバッグを肩から提げ、大きなナップサックを背負った。
 時計と財布と携帯は、西日比谷高校まで必要だから、持って行くことにした。
 準備ができたので、リビングに下りていった。
 父も帰ってきていた。きくは父に別れの挨拶をしたが、父は何のことか分からないようだった。
 午後九時になったので、母を急がせて、安全靴を履き、金属棒をオーバーコートに隠して、外に出た。
 母には西日比谷高校までついて来て欲しいと頼んでいた。
 僕の予想通りだとすれば、僕は校庭に倒れ、意識を失うはずだ。万が一、タイムスリップに失敗した時も母がいれば、きくやききょうが助かるかも知れない。
 そうでなくても、母は一緒に来るつもりだった。
 電車に乗り、西日比谷高校に着いたのは、午後十時十五分前だった。
 学校の正門は鉄柵で閉じられていた。
 僕はそれを乗り越えて、校内に入った。きくも母に肩車をされて、門の上まで来たので、僕がきくを掴んで、校内に入れた。金属棒は最初に鉄柵の間から校内に入れていた。
 きくとききょうは鉄柵を挟んで、母と最後の別れをした。
 僕は時計と財布と携帯を母に渡した。
「後は頼んだよ」と言うと、僕ときくとききょうは校庭に向かった。その時、急に空が暗くなり、乱雲が立ち込めてきた。
 僕ときくとききょうは校庭の中央に立った。
 そして金属棒を空に向かって突き上げた。
 その直後だった。激しい稲光が起こった。それは僕らの躰を貫いていった。
 僕は、光の中に包まれた。きくとききょうは側にいた。離れないように、きくを掴んだ。きくとききょうの魂が抜け出ようとしていた。それを僕の魂が、きくとききょうの躰の中に押し込んだ。
 だが、僕の躰は魂と離れた。
 その時、強い光の渦に巻き込まれた。
 僕は意識を失った。
                               了