僕が、警察官ですか? 3

十五
 午後一時になると、ズボンのポケットにひょうたんを入れて、緑川に「ちょっと出てくる」と言って安全防犯対策課を出た。
 四階の待合席に行った。午前中に僕に声をかけてくれた女性に目礼して、席に座った。
 ズボンのポケットのひょうたんを叩いて、「さっきのように頼むよ」と言った。
「はーい」と言うあやめの声がした。
 あやめが情報を取ってくる間、ただ待つわけにはいかなかった。僕は昨日、まだ再生していなかった二月二十六日、三月二十八日、四月二十九日の中上祐二の映像を見ることにした。
 二月二十六日は、中上祐二は一日中部屋に引きこもってパソコンを操作していた。新しいアイデアが浮かんだのだ。それに夢中になっていた。したがって、二月二十六日のアリバイは、中上にはなかった。
 三月二十八日は、午後八時半頃に、黒金高校時代の友人、武下と沢島に会っていた。三人で黒金駅前のカラオケ店で午後十時まで歌っていた。中上の三月二十八日のアリバイはあった。
 そして、四月二十九日のアリバイはもっと完璧だった。四月二十八日から三十日まで台湾旅行をしていたからだ。中上祐二の出入国記録を調べれば一発で分かるアリバイだった。
 このアリバイがあるからこそ、中上祐二は自分が連続放火事件の真犯人だという偽の犯行声明を出せたのだ。いざとなれば、台湾旅行をアリバイにすれば良かったからだ。
 小心者の考えることだ、と思った。
 その時、ひょうたんが震えた。
「今、散会しました」と言った。やけに早いなと思った。
「映像を送ります」とあやめが言った。
「分かった」と応えた。
 映像が送られてきた。僕は待合席を立ち上がると、屋上に向かった。自販機で缶コーヒーを買うと、いつものベンチに座った。そして、映像を再生した。
 まず最初に「はい」と言って手を挙げたのは、二係の岡山だった。
 彼は立ち上がると、「二係の岡山です」と言ってから、「今、二係ではあくまでも山田が連続放火事件の犯人として取調を行っている最中です。この方針に変わりはありません。従って、今回、起きた放火事件は切り離すべきだと思っています。それは、先ほど澤北刑事が言われたように、放火の仕方が違うことから明らかです。澤北刑事が説明されたので、同じことは言いませんが、今回の放火事件は模倣犯だと思います。しかし、放火方法までは、マスコミにも伏せてありますから知らなかったのでしょう。とにかく、前の三件の放火事件に便乗して行った放火だと思います」と言った。
 次に「はい」と手を挙げたのは、二係の秋口刑事だった。
 秋口は立ち上がると、「二係の秋口です。わたしも岡山刑事と同意見です。これまでの連続放火事件とは別だと思っています。今回の犯人は、山田が取調を受けていることを知っています。従って、もう一回放火事件を起こせば、警察が誤った被疑者を取り調べていることになります。それが犯人の狙いでしょう。犯人は、警察に対して、不信感を持つか、敵意を持った人物だと思っています。操作を攪乱させることが狙いだと思います」と言って座った。
 次に「はい」と手を挙げた者も同じようなことを言った。また、その次に手を挙げた者も同意見だった。二係の者はまだ他にも手を挙げている者がいたが、捜査一課長が「今手を挙げている者で、これまでと別の意見の者はいるか」と言うと、手を挙げていた者が手を下げた。
「ということは、二係の者たちは、山田がこれまでの連続放火事件の犯人であり、今回の放火事件の犯人は別にいると考えていると思っていいんだな」と言った。
 二係の者は全員「はい」と言った。
「では、二係の者はこれまで通り、山田を取り調べ、三係は新たな放火事件の犯人を追ってもらいたい。捜査方針はこれで行く。以上だが、意見のある者はいるか」と捜査一課長は言った。
 誰も手を挙げなかった。
 捜査一課長は、管理官、署長の顔を見てから、「では、捜査会議をこれで終了する」と言った。
 刑事たちは捜査本部から駆け出していった。

 僕はズボンのひょうたんを叩いた。
「今、中上は部屋にいるか」
「気配は感じますが、遠過ぎてわかりません」とあやめは言った。
「だったら、行くしかないか」と言って、僕は立ち上がった。
 安全防犯対策課に立ち寄って、緑川に「出かけてくる」と声をかけて出た。
 二十分もかからずに、中上のいるアパートに着いた。その一階下の部屋の前に来ると、時間を止めた。
 ズボンのポケットのひょうたんを叩いた。
「中上祐二がいるか、確かめてきてくれ」と言った。
「はーい」と言う声がした。そして、すぐに「います」と言った。
「だったら、私の頭にある映像を中上に送れ」と言った。
 僕は喜八が二月二十六日、三月二十八日、四月二十九日に火付けをしているところだけを切り取って頭に思い浮かべて、中上に送るようにあやめに指示したのだ。その際、警察は、今度の事件は模倣犯だと思っている、ということは思い浮かべた。それ以上、余計な情報を中上に伝える気はなかった。
 しばらくして「送りました」と言うあやめの声が聞こえてきた。僕は時を動かして、その場を離れた。
 新しい情報を得た中上が何をするのかは、あやめを使わなくても僕には分かっていた。
 今、第二の声明文を作るのに夢中になっていることだろう。
 時計を見た。午後四時半だった。早く、黒金署に帰って退署しなくてはならない、とまず思った。次に思ったのは、これから声明文を作ってマスコミに送るとしたら、午前〇時を過ぎるかな、ということだ。明日の朝刊に間に合うのが、せいぜいだろうと思っていた。

 午後五時に黒金署に着くと、すぐに安全防犯対策課に戻り、鞄を取ると、「お先に」と言って部屋を出た。部屋を出てから、ズボンのポケットのひょうたんは鞄に入れた。
 新たな声明文を作るのに、どれくらい時間がかかるのだろう。僕なら、一時間もあれば書けそうだったが、声明文を書き慣れていない中上にそれができるとは思えなかった。

 家に帰ると、きくが出迎えてくれた。
「躰はいいのか」と訊くと「ご覧の通りです」と答えた。
 きくに手伝ってもらって、着替えると、すぐに風呂に入った。
 風呂に入りながら、考えた。
 とうとう、禁じ手を使ってしまった。中上祐二に情報を与えたことだった。いくら、山田の冤罪を晴らそうとしても、放火犯に情報を与えるのは、いき過ぎていた。それは分かっていた。分かっていたが、止められなかった。
 中上とすれば、突然閃いたように送られてきた映像が本物かどうか知りたいだろう。それには声明文を作ってマスコミを刺激するのが一番だった。そして、警察もだった。その反応で、自分の頭に浮かんだ映像が本物かどうか分かる。それを確かめないでは、寝られないだろう。
 風呂から上がると、枝豆をつまみにビールを飲んだ。
 テレビを見ていた。すると、突然、キャスターの動きが慌ただしくなった。女性キャスターが「今、犯人から第二の声明文が送られてきました、詳しい内容は追って知らせます」と言って、CMに切り替わった。
 僕は飲んでいたビールを吹き出しそうになった。こんなにも早く、中上が声明文を送ってくるとは予想だにしていなかったからだ。中上があの映像を検証するのには、時間がかかるはずだった。そして、声明文が作れたとしても、国内の誰かのパソコンを乗っ取り、それから海外のサーバーを幾つも経由して、警察やマスコミに声明文を送るとしたら、時間がかかるに決まっていた。僕はそう思い込んでいた。だが、それは違っていたようだ。
 CMが明けると、「先程の犯人からの声明文ですが、前回と同様にインターネットを使って同局まで送られてきました。その全文を表示します」と言って、テキスト画面に変わった。
『わたしは、連続放火事件の真犯人である。警察は、これまでの放火の仕方と今回の放火の方法が違っていることで、別人だと思っているようだがそれは違う。灯油がなくなったのに過ぎない。それとマッチだが、火をつけるのに、両手を使わなければならない。それがネックだった。それを解消するために、今回は百円ライターを使って、直接、ゴミ袋に火をつけた。これで、どうして、犯行方法が変わったか、わかるだろう。』
 文面はこれだけだった。だが、これで十分だった。今まで、犯行の態様を隠してきたが、それを犯人は言い当てている。そして、何よりも重要なのは、前回までと今回の犯行の仕方が違っていることを指摘していることだった。これは秘密の暴露に近かった。
 このテレビを見ている、捜査一課二係と三係の慌てぶりが分かるようだった。

 

僕が、警察官ですか? 3

十四
 自宅に戻ったのは、午後十一時半を過ぎていた。
 きくは起きて待っていた。
「寝ていればいいのに。躰にさわるよ」と言うと、きくは「病気じゃないんだから、大丈夫です」と応えた。
 椅子から立ち上がろうとすると、きくが「ウィスキーを飲みたいんでしょ」と訊いた。
「ああ」と答えると、「だったら、座っていてください。わたしが作りますから」と言って、食器棚からグラスを取り、冷蔵庫から氷をグラスに入れると、水の入ったポットも取り出した。
「おいおい、俺はオンザロックが好きなんだ」と言うと、「それは躰に悪いと聞きました。水割りにしましょうね」と言って、ウイスキーのボトルを取り出すと、人差し指を横にしてボトルの酒の量を量り、一指分だけ注いで、水を入れ、マドラーでかき混ぜて、僕に渡してくれた。それから、ピーナッツの袋を開け、小鉢に少し入れて、差し出した。
「どうぞ」と言った。
「こんなこと、どこで覚えたんだ」と訊くと「テレビで知ったんです」と答えた。
「テレビか。よく見ているのか」
「ええ。よく見ています。だって、わたしの知らないことをいろいろ教えてくれますから」と言った。
「いろいろと考え事があるから、先に休んでいてくれ」と言うと、「わたしも一緒にいますよ。妻ですから」と言った。
 僕は笑った。妻か、と思った。僕の世話係をしていた頃には、考えもつかなかったことだろう(「僕が、剣道ですか?」シリーズ参照)。

 それから三十分ほど飲んで、寝室に向かった。着替えをしてベッドに入った。きくはすぐに眠った。
 僕は時間を止めて、ひょうたんを持ってリビングルームに戻った。
 ひょうたんの栓を抜くとあやめが現れた。
「今日は疲れたんじゃあ、ありませんか」
「まぁね」
「わたしが癒して差し上げますね」とあやめは言った。
「それは……」と言っているうちに、あやめは僕に巻き付いてきた。
「大丈夫です。優しくして差し上げますから」とあやめは言った。
 僕は結局あやめと交わった。
 終わった後、「もう今日になってしまったが、今日も黒金署に連れて行くのでよろしくな」と言った。
「まぁ、嬉しい」とあやめは言った。
 僕はシャワーを浴びて、躰を拭いた後、脱いだ寝間着を着て、ベッドに入った。そして、時間を動かした。

 次の日、黒金署に行くと、大騒ぎだった。昨日の放火のことが記事になっているだけでなく、犯人の犯行声明文が掲載されていたからだった。犯行声明文は、各マスコミのパソコンに直接届いたようだった。
 犯行声明文は、次のようなものだった。
『今回の放火は、二月二十六日、三月二十八日、四月二十九日の放火を起こしたのと同一人物がやったものである。それはわたしだ。わたしは捕まらない。そんなヘマはしていないからだ』
 それだけだった。だが、これで十分だった。マスコミだけでなく、黒金署も大変だった。犯行声明が本当ならば、今、勾留している山田は白ということになる。それは大失態を意味していた。それは避けねばならなかった。今回の放火は単独事件として、捜査一課三係が担当することになった。
 午前十時から三階の大会議場で、捜査一課二係と三係の合同捜査会議が開かれることになった。黒金署の内部的には、今回の放火事件を単独事件として扱うとしても、この犯行声明文が出ている以上、前の連続放火事件を無視して会議を開くことはできなかった。
 午前十時になると、僕は鞄からひょうたんを出して、ズボンのポケットに入れ、緑川に「ちょっと席を外す」と言って安全防犯対策課を出た。そして屋上に行った。隅のベンチに座ると、ズボンのポケットのひょうたんを叩いた。
「はーい」と言うあやめの声が聞こえた。
「ここから、三階の会議室に行けるか」と訊いた。
「日当たりが強いので無理です」とあやめが言った。
「そうか、じゃあ、四階に行ってみる」と言った。
 ここは庶務課や会計課や各種相談窓口などがある場所だった。待合席もあった。そこの隅に座った。
 この下に会議室がある。ズボンのポケットのひょうたんを叩いた。
「ここならどうだ」と訊いた。
「行けます」と答えが返って来た。
「じゃあ、会議室の映像を取ってきてくれ」
「はーい」と言うあやめの声がした。
 すると「そこでお待ちの方、どうぞ」と言われた。
 僕は警察手帳を出して見せて、「少し休んでいるだけなんで気にしないでくれ」と言った。
「失礼しました。わかりました」と声をかけてくれた女性は言った。
 そのうちお昼になった。ズボンのポケットのひょうたんが振動した。
「お昼になったので、会議は一旦中断しました。また、午後一時から会議をするそうです」とあやめが言った。
「分かった。取りあえず、今までの映像を送ってくれ」と言った。目眩とともに映像が送られてきた。そして、終わった。
「ありがとう。また、午後も頼むな」とあやめに言うと、僕は安全防犯対策課に向かった。
 安全防犯対策課に入ると、鞄から愛妻弁当と水筒を取り出し、屋上に向かった。隅のベンチに座ると、愛妻弁当を開けた。エビの唐揚げ二匹を使って、その反っている部分でハートマークを作っていた。段々、手が込んできていると思った。
 弁当を食べながら、あやめからの映像を再生した。
 本部席には、署長、管理官、捜査一課長、捜査一課二係長と三係長の五人が並んでいた。係長が本部席に並んでいるのは異例だが、事件の特殊性からそうなったのだろう。
 まず、捜査一課長がマイクを持って話した。
「第五回目の捜査会議を開く。これは合同捜査ではないが、事案に鑑みて、一緒に捜査会議をした方がいいと思って、この形式になった。そのことを重々、承知して欲しい。まず三係から説明をお願いする」と言った。これが五回目だとすると、もう四回も捜査会議が開かれていたのか。僕は迂闊にもそれに気付かなかった。
 三係長の熱田宗広が澤北刑事に目配せした。
「はい」と言って手を挙げて、澤北が立った。
「三係の澤北です」と言ってから、「今、三係では捜査方針を二手に分けて捜査しています。わたしは、今回の放火は単独犯行だと思っています。それは放火の仕方が違うからです。前の三件は、灯油を撒いてマッチで火をつけています。しかし、今回の犯行は、ゴミ袋に直接火がつけられています。マッチの燃えかすもいまだに見つかっていません。したがって、これまでの連続放火事件と切り離して考えるべきだと思います」と言った。
「はい」と手を挙げたのは、三係の福地刑事だった。
 福地は立つと、「三係の福地です。わたしもこれまでの連続放火事件と切り離して考えるべきだと思っています。今までの放火はどちらかというと内向的な感じがします。しかし、今回の犯人はそうではありません。自分の犯行を堂々と明かしています。何より、問題なのは、犯行声明です。これは誰にでも書けます。そこが問題なのではなくて、送りつけ方です。警察署だけでなく、各マスコミにも送っています。それも、コンピューターを使って送っています。今、捜査中ですが、海外のいくつものサーバーを経由しているために、どこから送られてきたかわからないそうじゃありませんか。と、すれば、コンピューターについて深い知識と技術を持っている者が犯人だということになります。それは、今までの連続放火事件の犯人像にはなかったものです。そして、コンピューターについて深い知識と技術を持っている者が犯人だとすれば、二十代から三十代の者が犯人だと思われます」と言って座った。
 次に「はい」と手を挙げたのは、三係の高木刑事だった。
 高木は立って、「三係の高木です」と言った。
「わたしも、実は今回の放火は単独犯行だと思っていますが、犯行声明があるので、連続放火事件として考えてみる立場に立ちました。そこで、気になるのは、犯行現場です。この四箇所の犯行現場に共通しているのは、人に見られにくいということです。つまり、土地勘があるということです。犯人はこの黒金町に住んでいる者だと思われます。そして、この四箇所を点で結んでみると、どこも、十五分と離れていないことがわかります。犯人は、放火現場近くに住んでいると思われます」と言って座った。
 この後も次々と三係の意見が述べられた。それを要約すれば、内心では今回の犯行は単独犯行だと思っているが、犯行声明が出されている以上、連続放火事件としても扱わなければならないという、相反する心情が読み取れた。
 午後は二係の意見を聞くということで散会した。

 僕は食べかけていた愛妻弁当をかき込むように食べると、水筒のお茶を飲んだ。

 

僕が、警察官ですか? 3

十三
 五月中旬を過ぎようとしていた。山田の自供を取れずに、捜査一課二係は焦っていた。山田の勾留期限はあと僅かだった。こうなれば、山田は頑張り通すだろう。自供が取れなければ、釈放するしかなくなる。しかし、僕は毎日のように山田を陰から応援していた。それが功を奏していたのだ。取調も厳しくなるだろうが、山田は崩れないと僕は思っていた。
 そんな折だった。五月二十二日、新たな放火事件が発生した。黒金町の路地裏でボヤ騒ぎが起きたのだ。発見したのは通りがかりの若者だった。丁度、午後九時三十分だった。それは一一九番の通報記録で分かったことだった。僕はその十分後に時村から、このボヤ騒ぎを知った。時村はその時刻、近くの居酒屋で飲んでいて、騒ぎに気付いたそうだ。とにかく、僕に一報入れておく気になったようだ。
 僕の自宅からボヤ騒ぎの起きた現場まで、歩いて三十分ほどの距離だった。僕は着替えて、ズボンのポケットにひょうたんを入れると、家を出て、とにかく事件現場まで行ってみることにした。
 すでに立入禁止のテープが張られていて、鑑識が入っていた。立入禁止のテープの前に立っている巡査に、警察手帳を見せて、中に入れてもらえるように頼んだが、「鑑識が終わるまでは誰も通すなと言われていますので」と言われた。
 事件現場では、鑑識が優先するのは常識だった。僕は仕方なく、立入禁止テープの前で、時を止めた。そして、ズボンのポケットのひょうたんを叩いた。
「ボヤを起こした犯人の霊気を感じるか」と訊いた。
「少しだけ」とあやめは答えた。
「追えそうか」と訊くと「追ってみます」と答えた。
「では、やってくれ。振動のする方に向かって歩くから」と言った。
「わかりました」と返ってきた。
 時を動かした。と同時に腕時計のストップウォッチのボタンを押した。
 立入禁止のテープの反対の方向に向かって振動が来た。そちらに歩いて行った。角に来て、右に振動した。そちらに曲がった。しばらく歩いた。コンビニが見えてきた。そこを避けるように通りの反対に向かった。今度はこっち側のコンビニが見えてきた。すると、通りの反対側に向かった。明らかにコンビニの前を避けていた。
 それから街灯だけがついている細い路地に入っていた。くねくねと曲がり、三段ほどの階段を上がると、また少し広い通りに出た。そこを右に向かって歩いて行った。そこの三番目の通りを曲がった先にアパートが見えた。
 あやめが「あのアパートの二階、一番奥の部屋です」と言った。
 その部屋の下の階に行った。ストップウォッチのボタンを押した。見ると、二十三分だった。ボヤを起こすまでを一、二分として、二十四、五分の所に犯人のアパートがあるという訳だ。
「今奴はいるか」
「います」
「だったら、そいつの頭に入ってくれ。今日やってきたことと、今やっていること、どうしてこんなことをしたのか、読み取って来てくれ」と言った。
「わかりました」とあやめは応えた。
 アパートの端の一階には、まだ住人が帰ってきていないようだったが、怪しまれてもいけないので、時を止めた。
 あたりは街灯が一つあるだけだった。薄暗かった。アパートは一階と二階に四つずつ部屋があった。二階は両端が灯りが点いていて、一階は反対の隅だけに灯りが点いていた。
 このボヤ騒ぎが、単独事件であることは僕だけが知っていることだった。おそらく連続放火事件に触発されてやったことなのだろう。人気のないところに火をつけていることから、それほど度胸がある奴ではないだろう。愉快犯の類いに違いなかった。
「終わりました」とあやめが言った。
「映像を送れ」と言った。
 目眩とともに映像が送られてきた。目眩はすぐに良くなった。
 男は、学生風だった。
「これで俺が連続放火事件の真犯人だということがわかるぞ」と言っていた。
 路地裏のゴミ袋が積み上げられているところの隅に、人がいないことを確かめてから、百円ライターで火をつけていた。火がつくと、 携帯でゴミが燃えている写真を撮り、すぐに逃げ出した。
 ゴミ袋の一つが燃え上がっているのを、通りがかりの若者が気がついた。
「火だ。燃えている」と言いながら、携帯を取り出して一一九番に通報した。
 学生風の男は家に向かって急ぎ足で歩き、最後はほとんど走っていた。
 そして、二階の部屋に入ると、すぐにパソコンを起動した。学生風の男は興奮していた。
 今やってきた放火の写真を携帯から取り込むと、犯行声明みたいなものを書いていた。
『わたしが今回の連続放火事件の真犯人である』というような書出しで文章を作っていた。文章は時間が止められているのでそこまでだった。しかし、何を書こうとしてるのかは、分かった。すでにマスコミで取り上げられた記事を元に、あたかも自分が真犯人であるかのように装おうとしていた。
 学生風の男は中上祐二、二十八歳、フリーターだった。パソコンについては、かなりの知識を持っていて、他人のパソコンにウィルスを送り込み、勝手に操作できるようにしていた。日本でも二十八台は自由に使えていたし、海外のパソコンも五台使っていた。海外のパソコンを使って、他の人のパソコンも使えるようにしていた。こうしておけば、自分のパソコンからデータが送られていることが絶対に知られずに済むのだ。特に海外のパソコンを使っているときはそうだった。
「あやめ、こいつの二月二十六日と三月二十八日と四月二十九日の行動を読み取ってきてくれ」と言った。
「はーい」とあやめは言った。
 少し待っているとズボンのポケットのひょうたんが震えた。
「取ってきました」とあやめは言った。
「じゃあ、流してくれ」と僕は言った。
 目眩がして、映像が流れてきた。
 僕は時を止めているのに疲れてきた。まだ映像は流れ切っていなかったが、時を動かして、その場を離れることにした。
 三段ほどの階段のところで、映像は終わった。
 二月二十六日と三月二十八日と四月二十九日の映像を見るのは、後回しにしようと思った。
 中上祐二は、ネット上での架空の会社を作って、パソコンウイルス退治します、という偽の広告で客を募っていた。一回、税込みで五百円という安い料金だったので、かなりの人がこの広告に釣られて、マウスをクリックしていた。その数は二万を超えていた。単純計算して、一千万円以上の収入が中上祐二にはあったのだ。それも他人のパソコンを経由して、仮想マネーに変えていた。この仮想マネーを換金して、自分の通帳に入金していた。
 中上祐二は、このようにお金の流れをつかまれないようにしながら、自己顕示欲は強かった。特に放火に関してはそれが強かった。彼が五歳の時、近所で火災があった。放火ではなかったが、その燃え上がる炎が彼の心に残った。
 そして、二月二十六日と三月二十八日と四月二十九日と、自分が住む黒金町で連続放火事件が起きた。他人事には思えなかった。
 マスコミの報道では、容疑者が黙秘を続けているという。容疑者はまだ犯人ではない。しかし、マスコミは容疑者の氏名、写真まで明かしてしまっていた。中上は山田の写真を見た。とても、連続放火事件の犯人には見えなかった。この犯人はもっと賢くなければならなかった。中上にとっては、山田が犯人であっては困るのだ。
 山田は今、警察署の中にいる。だったら、次の犯行を犯せば、容疑が晴れるんじゃないか、と中上は思った。
 それで今日実行した。中上は顕示欲が強くても、気は小さかった。自分が捕まることだけは避けたかった。そのために周到な用意をした。その一つが、どこに火をつけるかだった。火をつけているところを誰にも見られずに済ませたかった。というより、誰にも見られたくはなかった。そんな場所と時間を探した。
 連続放火事件の報道を見るとすぐに探し始め、先週、やっと格好の場所を見付けた。何度か火をつけようとしたが、気が進まなかったり、人が来たりして、その機会を逃していた。
 そして、今日、ついに実行したのだ。手袋をした手で、ゴミ袋の一つを掴むと、その端に百円ライターで火をつけたのだ。
 火をつけた瞬間、もの凄くスカッとした気分になった。それはこれまで味わったことのなかった気分だった。と、同時に恐怖も襲ってきた。誰かに見られたのではないか、と思った。周りを見回した。誰もいなかった。それはそうだった、誰もいないことを確認してから、火をつけたのだから。
 幸い、写真を撮った後、路地を出るまで誰にも見られなかった。路地を出るとコンビニの前を避けるように歩いた。自然に興奮は高まってきた。
 後は自宅に帰って、撮ってきた写真をパソコンに取り込んで、犯行声明を作るだけだった。原案は作ってあった。しかし、今日、実際に火をつけてみて、原案に書いた心境が絵空事であったことに気付いた。書き直す必要があった。
 できた犯行声明は、乗っ取った外国のパソコンに送り、そこから、何台かのサーバーを経由して、マスコミに送るつもりだった。この犯行声明から自分に辿り着くことは、不可能だ、と中上祐二は思っていた。
 そこで今日の映像は終わっていた。

僕が、警察官ですか? 3

十二
 夕食は赤ちゃんの話題で盛り上がった。
 ききょうが一番興味を示した。
「早く、赤ちゃんに会いたいな。男の子かしら、女の子かしら」
 京一郎は「ぼくは弟が欲しいな。妹でもいいけれど」と言った。
 きくは「どちらにしても、仲良くしてあげてね」と言った。
「それはもちろん」とききょうが言うと、「ぼくも」と京一郎も言った。
「じゃあ、ききょうと京一郎も新しい赤ちゃんができたら、新しい赤ちゃんの面倒を見るんだぞ」と僕が言うと、二人とも「はーい、わかりました」と言った。

 夕食後、ダイニングテーブルが片付けられると、きくはすぐに母子手帳を持ってきた。そして、ポールペンを渡してくれながら、「子の保護者」欄を開いて見せた。
「ここにあなたの名前を書いてください」と言った。
 僕は二段に分かれている保護者欄の上の段に氏名を書いた。
 それを書いている時、また父親になっていく実感を覚えた。と同時に責任も感じた。
「これでいいか」と言うと「ええ」と答えた。
 母子手帳とボールペンをきくに渡す時、今、抱えている事件について考えた。
 署長に報告書を渡すことさえできなかったのだ。もう一度やっても同じことだろう。だったら、その上に報告書を見せるしかない。黒金署は、警視庁第四方面に所属している。したがって、もし報告書を送るとなれば、警視庁第四方面本部・本部長宛になるだろう。だが、それは最終手段だ。警視庁第四方面本部・本部長宛に報告書を送るとなれば、自分の身分を賭してまでということになるかも知れなかった。僕は警察官を辞めるつもりはないが、そうせざるを得なくなる可能性はあった。

 夜になり、寝室のベッドできくが眠ると、僕は時間を止めて、鞄からひょうたんを取り出し、ダイニングルームに行った。そして、ひょうたんの栓を抜いた。
「赤ちゃんができたんですね。おめでとうございます」と言った。
「ありがとう」
「浮かない顔をしていますね」
「ああ、あやめの努力が無駄になってしまった」と言った。
「そんなことはどうでもいいのですよ。わたしは主様の役に立てれば、嬉しいんですから」と言った。
 僕は黙ってあやめを抱き寄せた。

 木金と何事もなく過ぎていった。ただ、木曜日には、署長に破り捨てられた報告書をプリントアウトして、家に持って帰ってきていた。そして封筒に入れて、書棚にしまった。
 土日は、僕は休んだ。精神的に疲れていた。
 もう方法はないのか、行き止まりなのか、そればかりが頭を駆け巡った。

 月曜日は、西新宿署で剣道の稽古がある日だった。だから、剣道の道具を持って家を出た。ひょうたんは、自宅の僕の机の引出しの中だった。
 山田は今日も取調を受けているというのに、何となく一日が過ぎていった。
 退署時刻が来ると、僕は剣道の道具を持って、安全防犯対策課を出た。そして、西新宿署まで歩いた。
 西新宿署に着くと、更衣室で剣道着に着替えて、道場に出た。西森が待っていた。
「今日は試合形式でいきませんか」と言うので、「いいでしょう」と答えると、主審役を選んで始めた。
 コートの外に立ち、向き合うとコート内に二歩入り、礼をした。それから、開始線まで行き、蹲踞の姿勢を取ってから、脇に収めていた竹刀を相手に向けた。
 主審が「始め」と言った。僕らは、立ち上がった。西森は僕の無反動を知っているから、攻め込んで来ない。こちらが、攻め込んでも逃げている。僕は無理矢理、隅に追い詰めて、竹刀を合わせ、無反動で竹刀を弾くと、小手を打った。
 次の勝負も似たような展開になった。西森が逃げて、僕が我武者羅に追った。そして、竹刀を弾いて、胴を取った。
 その次も、その次も同じような試合内容になった。そうして、十回ほど戦った時に、西森が面を取り、親指を立てて「上に行きませんか」と言った。
「そうしましょう」と僕も答えた。
 シャワーで汗を流して、着替えると、ラウンジに上がって行った。
 お互い自販機で缶コーヒーを買うと、テーブル越しに座った。
「今日の鏡警部は我武者羅でしたね」と西森が言った。
「そうでしたか」
「ええ。何かあったんですか」と訊いた。
 僕は「少し嫌なことが」と答えた。
 すると、西森は「ここだけの話として聞きますよ」と言った。
「そうですか。聞いてくれますか」
「ええ」と西森は言った。
「じゃあ、聞いてもらいましょう」と僕は言い、これまでの経緯を話した。
 西森は静かに聞いていた。そして、聞き終わると、「なるほどそういうことですか」と言った。
「ええ」
「確かに八方塞がりですね」
「そうなんですよ」
「でも、警視庁第四方面本部長に直談判するのは止めておいた方がいいですよ」と言った。
「何故ですか」
「取り上げてもらえないからです」
「そうなんですか」
「ええ」
「そんな」
「それに、仮にの話ですが、取り上げられたとしたら、あなたの出世に響きますよ」と言った。
「何故ですか」
「警察は縦社会です。こうした横やりは嫌われるんです。特に、わたしのようなノンキャリには。警察の組織はノンキャリがほとんどなんですよ。それを敵に回したら、やっていけなくなりますよ」と言った。
「気遣いもしないで、申し訳ありませんでした」と僕は謝った。
「それは、いいんです。とにかく、その放火事件は、黒金署の捜査一課二係がやっているんでしょ。彼らに任せるしか方法がありません。後は取調を受けている山田という人が自白しないことを願うばかりです。それしか方法はありません」と西森は言った。
「ご忠告、ありがとうございました。肝に銘じておきます」と僕は応えた。

 西新宿署から家に帰りながら、西森の言っていたことを考えた。
『後は取調を受けている山田という人が自白しないことを願うばかりです』という言葉がやけに耳についていた。
 山田に自供させないことなんてできるのだろうか。どう考えても、無理だった。しかし、励ますことならできるかも知れなかった。
 山田の心を折れなくさせればいいのだ。
 それならできるかも知れない、と思った。

 次の日、ひょうたんを鞄に入れて、家を出た。
 安全防犯対策課に行くと、自分の席に鞄を置き、中からひょうたんを取り出して、ズボンのポケットに入れた。
 緑川に「ちょっと席を外す」と言って、安全防犯対策課を出た。
 向かったのは四階だった。庶務課や会計課や相談窓口などがある場所だった。その廊下の端に向かった。その廊下の上の階のすぐ隣の部屋で取調が行われていた。
 ズボンのポケットのひょうたんを叩いた。
「はーい」と言うあやめの声が聞こえた。
 僕は心の中で「これから、思っている映像を山田に送れるか」と訊いた。
 あやめも声を出さずに「送れます」と答えた。
「じゃあ、送ってくれ」と言った。
「わかりました」とあやめは言った。
 僕は、頭の中で、報告書に書いた文章を思い出しながら、それに添付されている写真も思い浮かべた。そして、警察の中には、あなたが犯人でないことを知っている者がいる、というメッセージを強く念じた。
 今、取調を受けている山田の頭には、このメッセージが届いているはずだ。勇気が湧いたのに違いなかった。
「送りました」というあやめの声が心の中でした。
「それで山田の反応はどうだった」と訊くと「今、見てきます」と答えた。
 しばらくしてあやめは戻ってきた。そして、山田の心の中を僕に送ってきた。
『やっぱり、そうなんだ。俺の無実を信じてくれている警察官がいるんだ。俺はやっていないんだから、絶対に自供はしないぞ』という山田の心の声が聞こえてきた。

 

僕が、警察官ですか? 3

十一
 滝岡は、「何ですか」と言いながらやって来た。
 僕はディスプレイの静止画を見せて、「この男の横顔と戸田喜八さんの横顔を照合してみてくれないか」と言った。
「この男、帽子を被り眼鏡をしていますよね。素顔ならかなりの確率で照合できますが、どうですかね。難しいかも知れませんよ」と滝岡は言った。
「そこをなんとかやってみてくれ」と僕は言った。
「まあ、やるだけやってみます」と言って、滝岡は席に戻っていった。
 僕はhenso0226.***とhenso0328.***の二つのファイルをもっと早く見ておけば良かったと悔いた。
 両方のファイルとも放火前後の喜八が映っている。監視カメラの映像から、時間的に放火前と放火後の映像だと分かる。僕は二つのファイルから静止画をプリントアウトして、報告書を書いていた。
 そのうち、滝岡が「ピンポーン」と叫んだ。
「どうしたんだ」と言うと、「例の横顔ですが、八十五%の確率で一致しました。今shogo01.***とファィルを送りますね」と言った。
 そして、滝岡が僕のデクスにやって来ると、「shogo01.***のファィルを開いてみてください」と言った。僕はshogo01.***のファィルを探して見つけ出すとクリックした。
 すると、喜八の横顔と静止画の男の横顔が並んで映し出された。しばらく見ていると、それが重なり合って、顔の下の部分の輪郭が一致しているのが分かった。画面には、一致率、八十五%と表示されていた。僕はそこで止めて、プリントアウトした。そしてもう一枚、喜八の横顔と静止画の男の横顔が並んで映し出されている画像もプリントアウトした。
「よくやった」と滝岡に言った。
「帽子と眼鏡をしていますが、八十五%というのは、なかなかの確率ですよ」と滝岡は言った。
「特に確率を上げているのは、この顔のところの黒子です」と滝岡は言った。そして、画面のその部分を指で指した。
「ディスプレイで見る限り、ゴミが映り込んでいるように見えますが、拡大すれば黒子だとわかります。そして、二つの顔を合わせると、その黒子の位置が一致するんですよ。これで、この二人が同一人物であることが、かなりの確率で判明したわけです」と言った。
「そうか。ありがとう」と滝岡に言った。
 滝岡は満足そうに席に戻っていった。
 僕は急いで残りの報告書を書き上げると、緑川に「署長室に行ってくる」と言って、安全防犯対策課を出た。
 手には書き上げたばかりの報告書をファイリングして持っていた。

 署長室のドアをノックした。
「どうぞ」と言う声がした。
「失礼します」と言って、僕は中に入った。
「なんだ、鏡君か」と署長は言った。
 僕は署長の座っているデスクの前に行き、報告書を差し出した。
「何だ、これは」と署長が言った。
「連続放火事件についての私の見解です」と言った。
「それは捜査一課二係がやっている事件ではないのか」と署長は言った。
「分かっています」
「すでに被疑者は逮捕されて、取調を受けている」と署長は言った。
「知っています」
「それに何か疑問でもあるのか」と署長は訊いた。
「はい、あります」と答えた。
「どういう疑問だ」と訊いた。
「山田は犯人ではありません。犯人は別にいます」と答えた。
「なんだって」と署長は言った。
「ですから、犯人は別にいると言ったのです」と言った。
「今更、山田が犯人ではない、はないだろう」と署長は言った。
「とにかく、報告書を読んでください。それから判断してください」と言った。
 署長は報告書を手に取ると、引き裂いた。そして、ゴミ箱に捨てた。
「君の報告書を読む気はない。そもそも君にはこの件に関して、捜査権はないはずだ。横からの口出しは無用だ。帰りたまえ」と言った。
「分かりました」と言って、頭を下げると、署長室を出た。
 時間を止めた。ズボンのポケットのひょうたんを叩いた。
「はーい」と言うあやめの声がした。
「今のが署長だ。彼が何を考えているのか、読み取ってきてくれ」とあやめに言った。
「わかりました」とあやめは言った。
 誰もいない廊下に立っていた。しばらくして、ズボンのポケットのひょうたんが震えた。
「読み取ってきたか」と訊くと「ええ、読み取りました」と答えた。
「映像を送れ」と言った。
 目眩とともに映像が送られてきた。量は多くはなかった。すぐに治まった。
 僕は時間を動かすと、歩き出した。歩きながら映像を再生した。
 署長は憤慨していた。
『あの若造、何を考えているんだ。キャリア組だからといって、何でも通るとでも思っているのか。今、捜査一課二係が汗水垂らして、頑張っているのに、それに水を差すような報告書を持ってくるなんてとんでもない』と思っていた。
 そして、本ボシが山田であることを疑ってはいなかった。

 僕は安全防犯対策課に戻り、椅子に座った。時計を見ると、退署時間を十五分も過ぎていた。ズボンのポケットからひょうたんを出すと鞄に入れた。
 そして、鞄を持つと「お先に失礼する」と言って、安全防犯対策課を出た。
 家に向かって歩きながら考えた。署長に報告書を上げたが、それは読まれることもなく、破り捨てられた。これ見よがしに目の前でやって見せたのだ。もはや、署長に訴えても、この件は取り上げてくれないだろう。どうすればいいんだ。

 家に帰ると、きくが嬉しそうな顔で出迎えてくれた。何だろうと思った。
「あなた、二ヶ月ですって」ときくが言った。
 二ヶ月、と言われてすぐに反応できなかったが、昨日、お医者さんに行くと言っていたのを思い出した。
「できたのか」と言うと「はい」と答えた。
「お医者さんの診断書ももらい、もう区役所にも行って、妊娠の届出をして母子手帳をもらってきました」と言った。
「素早いな」と言うと「お義母様がいろいろと教えてくれたんです」と言った。
 そして母子手帳を見せた。
「後で、これにあなたの名前を書いてくださいね」と言った。
「分かった。それでいつ生まれって」
「十二月二十九日だそうです」と言った。
「年末だなあ」と僕は言った。
「前後するかも知れないと言ってましたから、元日に生まれるかも知れませんね」と言った。
「そうすると、きくと同じ誕生日になるな」
「そうなんですよ」ときくは言った。
「そりゃあ、大変だわぁ」と僕が言うと、「めでたいことが重なっていいじゃあ、ありませんか」と言った。
「それもそうだな」と言った。
「そうなると嬉しいな」ときくは言った。
「そうなりそうな気がしてきた」
「そうですか」
「うん」
 きくは嬉しそうに笑った。

僕が、警察官ですか? 3


 次の日、ひょうたんを鞄に入れて、黒金署に向かった。今日は鑑識課に行くつもりだった。どうせ鑑識が調べた調査書は、読むことができないことは分かっていた。それならば、調査書を作った本人の意識から、直に読み取るだけだった。そのためには、あやめが必要だった。
 安全防犯対策課に着くと、鞄を棚に置き、中からひょうたんを出して、ズボンのポケットに入れた。それから、緑川に「ちょっと席を離れる」と言って、安全防犯対策課を出た。そして、三階にある鑑識課に向かった。
 鑑識課は奥の広い部屋にあった。その手前が会議室だった。
 入口にいた女性の課員が「何か御用ですか」と訊いた。

「私は安全防犯対策課の課長の鏡だ。四月二十九日の被害現場の鑑識をした者を呼んでもらいたい」と言うと「ここにいる者は、ほとんどがその日の鑑識を行っていますが」と答えた。
「ではその日の鑑識の調査報告書を書いた者を呼んでもらいたい」と言うと、僕の声が聞こえたらしく、「はい、わたしですが何か問題でもあったのですか」と言って、デスクから立って入口までやってきた。
 僕は時を止めた。そして、ズボンのポケットのひょうたんを叩いた。
「はーい」と言うあやめの声がした。
「この者の意識から、調査報告書に書いた部分を読み取ってくれ。それと四月二十九日の鑑識の現場の様子も読み取ってくれ」と言った。
「わかりました」とあやめは言った。
 時間が止まった鑑識課は面白かった。それぞれが何かをしようとしているところで止まっていた。ここには、仕事があった。安全防犯対策課とは大違いだった。
 しばらくして、ひょうたんが震えた。
「読み取りました。映像を送りますね」と言った。
「そうしてくれ」と言った。
 目眩が襲ってきたが、これはいつものことだから、すぐに慣れた。
 調査報告書は数百ページに及んでいた。これを読むのは後回しにした。四月二十九日の鑑識の様子を再生した。
「これどう思う」と言う声が聞こえてきた。別の鑑識員の声だった。居間の燃え後を見ていた。
「ここが一番ひどく焼けている」と言った。
「確かに」と今目の前にいる彼は言った。
「玄関の脇の板塀の火がここに回ってきたとすれば、こんな焼け方になるだろうか。ここの壁が焼ける前に居間から火が出ているような気がするんだがな」と言った。
「そうだな」
「ここに煙草の燃えかすみたいな物があるんだが、煙草から火がついたとしたら、こんなに急に激しく燃えるだろうか。まるで、マッチで新聞紙に火をつけたようには見えないか」とその鑑識員は言った。
 今目の前にいる彼は「そう見えるな」と同意した。
「ここが出火元じゃないのか」とその鑑識員は言った。
「それじゃあ、板塀の火はどうなるんだよ」と今目の前にいる彼は言った。
「煙草を吸おうとしてマッチで煙草に火をつけた時に、板塀の火を見て、燃えたマッチを落としたんじゃないのか。それなら、辻褄が合う」とその鑑識員が言った。
 そこで、僕は報告書の該当箇所を読んでみることにした。しかし、そこには、今の会話のようなことは記載されていなかった。あくまでも、板塀の火が回って、居間に積み上げられていた新聞紙に火がついたように書かれていた。事実が曲げられて書かれていた。
 時間を動かした。
「報告書によれば、板塀の火が回って、居間に積み上げられていた新聞紙に火がついた、と書かれていますよね」と言った。
「それが何か」とその者は言った。
「実際は、居間からも火が出ていたんじゃないですか」と訊いた。
「居間からも火は出ていましたよ。それは板塀からの火が回ったものです」と答えた。
「いや、そうではなくて、マッチで火がつけられたんじゃあないですか」とずばりと訊いた。
「あなたは報告書を読んではいませんね。読んでいれば、そんなことは書かれていないことがわかるはずです」と言った。
「確かに読んではいませんが」と言うとその鑑識員は、「これ以上、何も言うことはありません。まずは報告書を読んでください。もし、読む権限がないんだとしたら、これ以上の質問はお断りします」とぴしゃりと言った。
「そうですか。分かりました。今日のところは帰ります」と言って、僕は鑑識課を出た。
 予想していた通りだった。鑑識は板塀が火元になるように鑑識結果を書いていたのだ。まさか家の中が出火の主因だったとは書けなかったのだ。喜八の狙い通りになったのだ。

 僕は安全防犯対策課に戻った。自分のデスクに座ると、パソコンをつけ、画面を見ているフリをして、頭の中に映像として残っている鑑識の調査報告書を読んだ。
 読み終わるまでに時間がかかった。結果を言えば、結論ありきの報告書だった。板塀の火付けが元で喜八の家は全焼したことになっていた。
 すでに喜八の焼けた家の現場は捜査陣によって荒らされている。鑑識のやり直しはきかない。この鑑識書がすべてだった。
 喜八の携帯も黒焦げになっていて、SDカードの記録も調べたが、読み取れなかったと書かれていた。実は僕は最後の手段として、喜八が妻の最期と自分が新聞紙に火をつけているところを携帯に録画して残しておいたことにしようと思っていた。あやめを使って、SDカードに念写することでそれが可能なのではないかと思っていた。しかし、それもできなくなってしまった。僕はすべての手段を失った。

 お昼になった。僕は愛妻弁当と水筒を持って、屋上に上がっていった。隅のベンチに座って、弁当の蓋を開けた。今日はのり弁でハートマークが作られていた。それを崩しもしないで、食べていった。
 まだ、何かやれることがあるはずだと、思いたかった。しかし、思いつかなかった……と思っていたら、滝岡に調べさせた変装した姿の喜八の映像、確かhenso0226.***とhenso0328.***というファイルをまだ見ていないことに気付いた。
 急いで、弁当を食べ終えると、水筒のお茶を飲んで、安全防犯対策課に戻った。
 パソコンを操作して、henso0226.***とhenso0328.***の二つのファイルを見つけ出した。 まず、henso0226.***のファイルをクリックして開いた。
 変装した喜八は午後八時十七分にコンビニの前を通っていた。それは防犯カメラの映像に映っている時刻から分かった。そこから放火されたゴミ集積所までは、三分ほどだった。変装した喜八は、右足を悪くしていてびっこを引いてはいたが、それほど遅い足取りではなかった。足が悪くて、あまりにも遅いようなら、そもそも放火などという危険は犯さないだろう。放火現場から一刻も早く立ち去らねばならないのだから。
 そこから、映像は一旦切れて、次の映像が映った。同じコンビニの午後八時二十七分のものだった。放火した帰りだったのに違いなかった。その時の変装した喜八は急いでいた。その時、息が苦しくなったのだろう。マスクを外した。しかし、それでも帽子を目深に被り、眼鏡をしてコートの襟を立てていることには違いなかったから、マスクを外しても喜八だとは分からなかった。横顔の一部が見えたのに過ぎなかった。だが、その横顔に特徴があるかも知れなかった。黒子とか痣が映っていないか、確認した。何度も見たが、そのようなものは見当たらなかった。ただ、横顔にゴミのようなものが映り込んでいるのは見た。
 次にhenso0328.***のファイルをクリックした。
 これも変装した喜八が、午後八時五十分にコンビニの前を通っていた。前のコンビニとは別のコンビニだった。そのコンビニから放火現場までは、喜八の足では五、六分ぐらいかかるだろう。
 それから映像は一旦切れて、次の映像が映った。同じコンビニの午後九時五分のものだった。放火した帰りだった。その時、喜八はコートを脱いで丸めて持っていた。そして、すでにマスクもとっていた。帽子を目深に被り、眼鏡をしているのは変わりなかった。しかし、僕には、喜八だと分かった。コートを脱いだのは、人とぶつかったためだろう。同じコートを着ていれば、見付けられる可能性がある。だから、脱いで、姿を変えたのだ。
 ここに写っている喜八の横顔をコンピューターで照合して、喜八と断定できれば、一歩前進になる。
 僕は滝岡を呼んだ。

僕が、警察官ですか? 3


 僕は気を落ち着けるために、違うことをしようとした。それは携帯でパソコンに取り込んだ録音データを聞くことだった。ヘッドホンをして聞いてみた。携帯での録音だったが、音声は鮮明に録音されていた。
 それを聞いているうちに、僕はハッとした。
 何て馬鹿なことを、と思った。答えは簡単だった。放火する時に喜八は、帽子を目深に被り、眼鏡もし、マスクもしていて、コートの襟を立てていたのだ。普段の喜八の顔と照合しようとしてもヒットしないのは当たり前だったのだ。喜八はコートを着ていた。喜八の映像を思い浮かべた。そのコートは黒に近い濃い灰色だった。
 僕は時間を止めて、ズボンのポケットのひょうたんを叩いた。
「はーい」とあやめが言った。
「これから、あそこにいる滝岡と話をする。その時に、戸田喜八の変装したときの映像を送ってくれ」と言った。
「わかりました」
 時間を動かした。
「滝岡。じゃあ、帽子を目深に被り、眼鏡もし、マスクもしていて、黒っぽいコートの襟を立てていた者を見つけ出して欲しい」と言った。
 滝岡はブルッと頭を振った。映像が流れた証拠だった。僕の見た映像が滝岡の頭にも流れたのだ。
 滝岡は作業に取りかかった。
 ほどなく、「見付けました」と言った。
「確かに、今言われた人物と合致する男が、二月二十六日と三月二十八日の監視カメラに映っていますね」と言った。
「そうか、その映像をこっちのパソコンに送ってくれ」
「わかりました」と滝岡は言った。
「henso0226.***とhenso0328.***というファイルがそれです」と続けた。
「それと映像の中で、その人物がよく写っているところをプリントアウトしてくれ」と言った。
「すぐにやります」と滝岡は言った。そして、プリンターが印刷を終えると、用紙を取り出して、僕のデスクに持ってきた。
「ありがとう」と言って、受け取った。
 二枚の写真が本当の犯人だった。そして、それは喜八の変装した姿だった。
 今、このプリントアウトした写真を捜査本部に持っていっても、一笑に付されるだけだろう。捜査本部は山田を本ボシと思っている。それを覆すだけの確たる証拠がいる。
 だが、今の僕には思いつかなかった。山田が否認し続けてくれることを願うばかりだった。

 退署時間が来たので、安全防犯対策課を出て自宅に向かった。歩きながら、次はどうするか考えた。捜査資料が見たかった。そうすれば、何かヒントのようなものが見つかるかも知れなかった。しかし、捜査一課二係が部外者に捜査資料を見せるはずがなかった。
 全部の捜査資料が見られなくても、鑑識結果だけは知りたかった。少なくとも四月二十九日に関しての鑑識結果は知る必要があった。
 明日は鑑識課に行ってみるか、と思った。

 自宅に戻ると、着替えをして、京一郎と風呂に入った。こうして京一郎と一緒に風呂に入れるのは、いつまでなのだろうと、ふと思っていた。
 風呂から上がると、バスローブのままダイニングルームに行った。トランクスは穿いてなかった。
 椅子に座ると、コップが置かれ、ビールが注がれた。
「風呂上がりの一杯は美味しいんでしょう」ときくが言った。
 そして「これも食べてくださいね」とみじん切りしたネギとかつお節をかけた冷や奴を出してきた。
 僕は遠慮なくビールを飲み、冷や奴を食べた。
「今日はビーフシチューか」と言うと「そうなの。子どもたちが好きですから」と言った。
「パンも焼いたんですよ」と続けた。
「えっ、いつの間にそんなものまで作れるようになったの」と訊くと、「今日、テレビでやってたので、それをそっくり真似てみました」と答えた。
「美味しくできているといいんですけれど」と言った。
 見ると、バターロールと食パンだった。食パンは一斤を六等分に切った四切れが皿に載っていた。
「二切れはどうしたの」と訊くと「お義父様とお義母様に分けて差し上げました。その時、バターロールも一個ずつ持っていきました」と答えた。
「そうか。きくも大変だな」と言った。きくは一日中、家にいるから、父や母とも上手くやっていかなければならなかったのだ。もっとも父はまだ現役で働いているから、母とのやり取りが多いのかも知れなかった。きくは女中上がりだから(「僕は、剣道ですか?」シリーズ参照)、そのあたり上手くこなしているのだろう。
 ビールを飲み終わった頃には、汗も引いていた。寝室に行くと、ベッドにトランクスにTシャツ、半ズボンが出してあった。バスローブを脱いでトランクスを穿いて、Tシャツを着、半ズボンを穿いたところで、きくが入ってきて脱ぎ捨ててあったバスローブを拾って、「今日もお疲れ様でした」と言った。僕はバスローブを持っているきくを引き寄せて、抱き締めた。そしたら、きくが「あれが遅れているんです」と耳元で囁いた。
「あれって、あれのこと」と僕は訊いた。
「はい」ときくは答えた。
「お義母様に言ったら、明日、一緒にお医者さんに行ってくれるそうです」と言った。
「そうなのか」
 三人目が生まれることになるのかも知れないのか。僕の年齢では、初めての子でもおかしくないのに、今はこの六月十日で十一歳になるききょうと九歳の京一郎がいた。
 きくは僕のバスローブを洗濯籠に持っていった。

 きくの作ったビーフシチューもパンも美味しかった。ききょうと京一郎はビーフシチューをお代わりしたが、パンがなくなったので、ご飯で食べていた。
 僕もパンの後はご飯で食べた。ビーフシチューはご飯にも合った。

 夜になった。ベッドではきくが躰を寄せて来たので、抱き締めた。
「赤ちゃんができているといいな」と言うと「ええ」ときくも言った。そのうち、きくは眠った。僕はそっとベッドから抜け出すと、時間を止めた。
 鞄からひょうたんを取り出した。ズボンのポケットにひょうたんを入れたままにすると、着替えの時にきくに気付かれるので、鞄に移しておいたのだ。
 ひょうたんを持って、ダイニングルームに行った。ひょうたんの栓を抜くとあやめが現れた。
「またお子さんができるんですね」と言った。
「明日、病院に行くまでは分からないよ」と僕が言うと、「わたしには子どもができないから、主様だけですわ」と言って抱きついてきた。
「これからウィスキーを飲もうと思うんだ。少し、待ってくれ」と言うと「いいですよ。いくらでも待ちますよ」と言った。
 僕はグラスを取り出すと、冷蔵庫から氷を取ってきて入れて、そこにウィスキーを注いだ。僕はオンザロックが好きだったのだ。一杯、飲むと「さぁ、おいで」とあやめを招いた。あやめは僕にぶつかるようにして、長ソファに横になった。そこで、あやめと交わった。長い交わりだった。
「あやめ」と言うと「何ですか」と訊いた。
「明日も頼むな」と答えた。
「いいですよ。いくらでも使ってください」とあやめは言った。
 あやめはどっちの意味で取ったんだろうと、ちょっと思った。