僕が、警察官ですか? 3


 田中虎三の自宅である黒金町**丁目**番地**号は、黒金署から歩いても二十分ぐらいの所にあった。
 僕は緑川に「出かけてくる。後をよろしく」と言って、席を離れた。
 黒金署を後にすると、田中の家に向かった。質問は大してなかった。あやめに記憶を読み取らせれば済むことだったからだ。田中に会うことだけが必要だったのだ。
 田中の家はすぐに見つかった。ドアのブザーを押した。中から声がして、六十代後半から七十代前半の男性が出て来た。
 僕は警察手帳を見せて、「黒金署の安全防犯対策課の鏡京介です」と少し大きな声で言った。
「わかりましたから、中に入ってください」と田中は言った。
 大抵の者は、警察が来ていることを近所に知られたくはなかった。
 僕は玄関内に入ると「玄関先で結構です。いくつかの質問に答えてください」と言った。
 そこで、時を止めた。ズボンのポケットのひょうたんを叩いて、「あやめ、この人の今年の三月二十八日の記憶を取ってきてくれ」と言った。
「わかるでしょうか」と心配そうに言うものだから、「三月頃では、一番強く残っている記憶に違いないから、それを探してみてくれ」と言った。
「やってみます」と言って、あやめは田中の頭の中に入っていった。
 ほどなく、ポケットのひょうたんが震えた。
「取ってきました。流しますね」と言った。
 田中の三月二十八日の映像が流れてきた。
 田中は六十九歳で五年前に妻に先立たれて一人暮らしだった。そこで、週に二、三日は夕食がてら少し飲みに出るのが、習慣だった。深酒はしなかった。三月二十八日もその一日だった。午後七時半頃に家を出て、二十分ほど歩きながら、どこに入ろうか、何を食べようかと迷いつつ、店を探していた。そして、一軒の居酒屋に決めるとそこの暖簾を潜った。
 田中はそこで、一時間ほど飲み食いをすると店を出た。店を出たのは、腕時計のストップウォッチで計ると、午後八時五十分頃になった。そこから歩いて、家に向かった。通りの角を曲がって、次の通りをしばらく行った所が自宅だった。
 その通りを曲がったのが、午後八時五十七分だった。その時に誰かにぶつかった。相手は帽子を深く被っていて、顔はわからなかった。ぶつかったせいで、足を痛めたのか、右足を引きずるように角を曲がっていた。
 田中が前を向くと、火が見えた。近付いて行くと板塀の下が燃え始めているところだった。田中は慌てて、服のポケットから携帯を取り出すと、消防署に電話をした。その時間が午後八時五十八分だったのだ。
「あやめ、これから時間を動かす。そして、田中さんにいくつか質問をする。その時に僕の頭の中の映像を田中さんにも流してくれ。記憶というものは、繰り返していくうちに忘れていたことも思い出すこともあるからな。そして、田中さんが何か思い出したら、その映像もこっちに流してくれ」と言った。
「わかりました」とあやめは言った。
 僕は時を動かす前に、携帯を取り出し、録音のアイコンを押した。それから時を動かした。
「では、三月二十八日のことを伺います。あなたは、火事を発見する前に誰かにぶつかっていますね。その時のことを詳しく話してください」と言った。
「ええ、通りの角を曲がった時です。その時、帽子を深く被った男性とぶつかりました」
「その男性のおおよその年齢は分かりますか」
「いえ、帽子を目深に被っていたし、多分、マスクもしていたし、コートの襟も立てていたので、顔は見えませんでした。だから、年齢まではわかりません。ただ、ぶつかった感じからは、わたしと同じかわたしよりも年寄りだと思いました」
「それはどうしてですか」
「よろけ方です。若ければ、あんなによろけはしないでしょう。相手が足を悪くしていたのかも知れませんが、当たった感じが軽かったんです。若い人なら、もう少し跳ね返してくるような感じを受けると思うんですよね」と言った。
 田中の映像が僕の頭に流れてきた。確かに、田中が当たった男は軽い感じがした。
「背丈はどれくらいでしたか」
「わたしより低かったと思います」と田中は言った。
「失礼ですがあなたの身長はどれくらいですか」
「百六十五センチです。わたしより、五センチくらい低く感じました」
 これも田中の映像と一致していた。
 これからする質問が重要だった。
「あなたは火を見たんですよね」
「ええ、見ました」
「それは激しく燃えていましたか」
「いいえ、まだそれほど激しくはありませんでした」
「とすると、火をつけられてから、それほど時間が経っていなかったということでしょうか」
「それはわかりません。でも、出火直後のような気はしました」
「その時、あなたにぶつかった人以外に、通りに人はいましたか」
「いいえ、誰一人もいませんでした」
「本当に誰一人もいませんでしたか」
 僕は田中の記憶を辿って確認をした。田中は、誰か他の人に助けを求めようと周りを見回したのだった。しかし、誰もいなかった。だから、仕方なく、ポケットから携帯を出して一一九番にかけたのだった。
 この映像は田中も見ているはずだった。
「確かに誰もいませんでした。だから、一一九番に電話したんです」と言った。
「この出火は放火だと見られています。それはご存じですよね」
「もちろん、知っています」
「そして、今、あなたは通りには、他に誰もいなかったと言いました。とすると、火をつけたのは、あなたにぶつかった人ではありませんか」と言った。
 田中は考えていた。あやめはその時の映像を田中に流していた。
「そうですね。考えてみたんですが、あの時には、他に誰もいませんでした。だから、ぶつかった人が火をつけたと思うのが自然ですね」と言った。
「そうですか。どうもありがとうございました」と言って、頭を下げると、時を止めて、携帯の録音のアイコンを停止にした。そして携帯を上着のポケットにしまうと、時間を動かした。
 田中の家を出ると、黒金署に帰った。安全防犯対策課に戻ると、自分のデスクに座り、パソコンを起動して、携帯を取り出した。今、田中としてきた会話を携帯からパソコンの中に取り込むためだった。
 一つ、僅かだが、突破口が開いた。ここから証拠を積み上げていくんだ、と僕は思った。
 僕は滝岡を呼んだ。
 滝岡が「何ですか」と言いながら来ると、「二月二十六日と三月二十八日の監視カメラの録画映像の中から、戸田喜八さんの映像を見付けてくれ」と言った。
 滝岡は「二月二十六日と三月二十八日の監視カメラの録画映像の中に戸田喜八さんが映っているんですか」と言った。
「それを確認したいから、頼んでいるんだ」と僕は言った。
「わかりましたよ。やりますよ」と言って、滝岡は席に戻っていった。
「戸田喜八さんの映像は分かるよな」と言うと、「被害者ですからね。映像はすぐに出せますよ。それとこの前、照合した二月二十六日と三月二十八日の監視カメラの録画映像の中から、戸田喜八さんの映像を照合すればいいだけですから、それほど時間はかからないと思いますよ」と言った。
「では、頼んだ」と僕は言った。
 僕は、必ず二月二十六日と三月二十八日の監視カメラの録画映像の中に戸田喜八が映っていると思っていた。そうでなければならなかった。
 しばらくして、滝岡が「ありませんよ」と言ってきた。
 そんな馬鹿な、と思った。
「もう一度、やってみてくれ」と言うと、滝岡は「何度やっても同じですよ、機械のすることですから」と言った。
 確かに滝岡の言うとおりだった。しかし、二月二十六日と三月二十八日の監視カメラの録画映像の中に戸田喜八が映っていないはずはなかったのだ。何かを見落としているんだ。それは一体、何だろう。

僕が、警察官ですか? 3


 お昼になった。屋上で一人、隅のベンチに座って、愛妻弁当を食べながら考えた。何か突破口はないのかと。
 一つだけ、薄いが可能性はあった。それは三月二十八日の放火事件についてだった。この時、喜八はミスを犯している。犯行後、一一九番に通報した人とぶつかっているのだ。その通報者が分かれば、その時の状況がより詳しく分かるのではないか。その通報者の証言があれば、山田が犯人ではないことを他の者にも分かってもらえるのではないか。そんな気がしたのだ。
 一一九番の通報は録音されている。また、どこからかけてきているのか、電話番号も分かってしまうのだ。公衆電話からかけてきていても、その公衆電話の電話番号も分かるようになっている。だから、令状を持って消防署に行けば、この時、どの携帯から通報があったのか、知ることができるのだ。すでに捜査一課二係はそれをやっているだろう。しかし、その情報は安全防犯対策課には降りては来ない。
 あやめを使って、捜査一課二係の情報を引き出すしかなかった。
 捜査一課二係の係長中村敬三は五十三歳だった。午後の取調でも五階の取調室の隣のミラー室の中にいるだろう。全体の情報を引き出すには、中村の頭に入るのが一番だった。それから、個別の情報に当たるには、二階の捜査一課二係に行けば良かった。
 弁当を食べ終えたら、安全防犯対策課に戻って、午後一時まで待った。そして、午後一時になると、ひょうたんをズボンのポケットに入れて、五階に上がっていった。
 午前とは違う巡査が廊下に立っていた。彼は何も言わなかったので、そのままトイレに向かった。
 個室に入ると、ズボンのポケットのひょうたんを叩いた。
「はーい」と言うあやめの声がした。
「今度は、捜査一課二係の係長中村敬三の頭の中に入ってもらいたい。さっきは取調室だが、今度はその隣にあるミラー室の中だ。何人いるのかは分からない。少なくとも四人はいるはずだ。一人は署長で、後は捜査一課長と管理官だ。そして、捜査一課二係の係長がいるはずだ。その係長の頭の中の今年に入ってからの映像が見たい。やってくれるか」と言った。
「主様に言われればやらないわけがないじゃあ、ありませんか。やってみます。少しお待ちください」と言って、声が消えた。あやめはおそらくミラー室に行ったのだ。
 僕はまたしても個室の中で待つ羽目になった。
 しばらくして、あやめが戻ってきた。その間に何人かの人の出入りがあった。そこで、時間を止めた。
「中村敬三は分かったか」と訊くと、「はい、わかりました」と答えた。
「では、映像を送ってくれ」と言った。
「送ります」という言葉とともに頭の中に映像が流れ込んできた。
 中村は、山田を完全に黒だと思っていた。だから、何としてでも山田に自白させたかった。取調官と山田のやり取りを聞きつつ、苛立ちを覚えていた。
 僕が知りたかったのは、一一九番の通報の件だった。中村の頭の中には、どの放火にも一一九番に通報した者がいることだけは分かっていたが、それが誰かという詳しい情報はなかった。やはり、それを知っている者は捜査一課二係の担当者だけなのだろう。
 僕は時間を動かした。
 それなら、直接、捜査一課二係に行って訊いてみるしかないな、と思った。もちろん、素直に答えてくれるとは思ってはいなかった。
 二階の捜査一課二係に行った。ごった返していた。
 そこで、僕は「放火事件の一一九番の通報者について、調べた者がいたら話がしたい」と大声を出して言った。
 一人の刑事が机から立って、「わたしですが何ですか」と言った。
「こっちに来て話を聞いてもらいたいんだ」と言うと、僕の側までやってきた。
「で、話とは何ですか」と言った。
「通報者の氏名、住所と、通報した時の電話番号を教えて欲しい」と言った。
「それなら、捜査一課二係の係長を通してから、訊きに来てください」と言った。
「今、捜査一課二係の係長は取調室を見ている。係長に話ができないから、直接来ているんだ。頼む、教えてくれ」と言った。
「お教えできません。お帰りください」と言った。
 ここで時を止めた。ズボンのポケットのひょうたんを叩いた。
「あやめ。こいつの頭の中に入って、放火事件について映像を取ってこい」と言った。
「わたしには、放火事件と他の事柄とを区別はできません」とあやめは言った。
「済まなかった。だったら、今年に入ってから、今までの映像を取ってきてくれ」と言い直した。
「わかりました」とあやめは言った。
 時間を止めたまま待った。
 捜査一課二係の中は、連続放火事件のことで慌ただしいのが良く見えた。すでに犯人と目されている山田が取調を受けているので、刑事たちは書類作りに勤しんでいた。彼らが今やっていることは冤罪を生み出そうとしていることとも知らずに、と思った。
 その時、ひょうたんが震えた。
「取りました」と言うあやめの声が聞こえた。
「そうか。ありがとう」と言うと、時を動かした。
 僕は、僕を煙たく思っている刑事に向かって、「出直して来るよ」と言って、捜査一課二係から離れた。
 そして、安全防犯対策課に戻ると、自分のデスクの椅子に座った。
 時間を止めて、あやめに「映像を送ってくれ」と言った。あやめは「はーい」と言った。
 いつものようにクラクラとする感覚が襲ってきた。それもしばらくすると慣れることは分かっていた。
「受け取った」とあやめに言うと、「今夜はご褒美、沢山くださいね」と言った。僕は苦笑いをしながら、時を動かした。
 捜査一課二係の刑事の頭の映像を再生した。その中から、消防署に行った時のものを見つけ出した。放火事件の一一九番通報を受けた者は二人いた。一人は、二月二十六日と四月二十九日に受けていた。もう一人は三月二十八日に受けた者だった。
 今知りたいのは三月二十八日の方だったから、彼に対する聴取の内容を再生した。
 消防署の者は記録簿を見ながら、「今年の三月二十八日の午後九時頃の通報ですね。えーと、午後九時ですね。あ、ありました。これです。午後八時五十八分に通報を受けています」と言った。
「通報者の氏名と電話番号は分かりますか」と刑事は訊いた。
「ええ、分かりますよ。田中虎三さんです。携帯から電話していると言ってました。携帯電話の番号は****です」と答えた。
「住所はわかりますか」と刑事が言うと、「住所は黒金町**丁目**番地**号です」と答えた。
「一一九番の通報は録音されていますよね。その時の通報の録音を聞かせてもらえますか」と刑事が言うと、「ちょっとお待ちください」と言って、録音装置のボタンを操作して「これです」と言って、スイッチを入れた。
「火事ですか、救急ですか」と彼は言った。
「火が、火が、燃えている」と通報者は言った。
 通報が携帯からであると分かると、携帯のGPSから位置を探り出していた。壁には大きなスクリーンがあり、そこに黒金地区の地図が表示されていた。携帯の発信位置が分かった。
「どんな状況ですか」と彼は通報者に訊いた。
「目の前の家の塀に火がついている」と言った。
「家の中に人はいませんか」
「わからない」
「声をかけて、逃げるように言ってくれませんか」と彼は言った。
「わかった。おーい、火がついているぞ。早く外に逃げろ」と通報者は必死で言っていた。
「これでいいか」
「ありがとうございました。差し支えなければ、ご氏名と住所と電話番号を教えてもらえますか」と彼は言った。
「田中虎三。黒金町**丁目**番地**号。電話番号は****です」と言った。電話番号は携帯ではなく、自宅の固定電話の番号だった。自分が持っている携帯の電話番号は咄嗟のときには、出てこないものだ。
「直ちに消防車を向かわせます。ありがとうございました」と彼が言うと携帯は切れた。携帯の電話番号は掲示板に表示されていた。
 僕はそれらを手帳にメモした。
 それから受話器を取ると、携帯の方に電話した。呼び出し音が鳴って、しばらくすると、「もしもし」と言う男性の声が聞こえて来た。
「田中虎三さんですか」
「そうですが、あなたは」と訊いた。
「私は黒金署の安全防犯対策課の鏡京介といいます。今年の三月二十八日に放火現場を見られましたね。それについてお尋ねしたいのです」と答えた。
「ああ、あれですか」と田中は言った。
「今、どちらにいますか」と僕は訊いた。
「家にいます」と答えた。
「ご自宅ですね。黒金町**丁目**番地**号ですよね」と言うと「そうです」と言った。
「今から伺ってもいいですか」
「うちに来るということですか」
「はい」
「それは構いませんが」と言うので、「では、すぐ、伺いますのでご自宅にいてください」と言った。
「わかりました」
「では失礼します」と言って、僕は電話を切った。

 

僕が、警察官ですか? 3


 どれだけ時間が経っただろう。何人かがトイレに出入りするのが分かった。僕は個室の中で、息をひそめていた。
 やがて、ひょうたんが震えた。あやめが帰って来たのだ。
 念のために時間を止めた。
「あやめ、どうだった」と訊いた。
「多分、山田宏の頭の中に入れたと思います」と答えた。
「だったら、映像を送れ」と言った。
「送ります」とあやめは言った。
 いつものことだが、目眩が襲ってきた。そして、しばらくするとそれに慣れた。映像は長かった。いつから、いつまでと指定しておけば良かったと思ったほどだった。
 映像は頭の中に入った。
「お疲れ様。じゃあ、ひょうたんの中でゆっくり、休んでいてくれ」と言ったら、「今夜のご褒美を期待してます」と言った。抜け目のない奴め、と思った。
 時を動かした。
 すぐに映像は再生しなかった。いつまでもトイレにいれば、いずれ怪しまれるだろう。僕はその前にトイレから出て、エレベーターに向かった。

 安全防犯対策課に戻ると、自分の席に座った。そして、パソコンの画面を見ているフリをした。それから、山田の映像を流した。山田の生い立ちから見ていくわけにはいかないので、今年の二月二十六日の映像から見た。
 午後八時十五分にコンビニの前を通っている。本人は時間は分からないだろうが、こちらは防犯カメラの映像に映っている時刻から時間が分かっていた。山田宏はショルダーバッグを肩から提げていた。いつも持ち歩いているのだろう。
 そこから放火されたゴミ集積所までは、三分ほどで行けた。コンビニの前を通り過ぎた山田は、飲み屋に入ろうとしていた。焼き鳥屋かおでん屋かで結構迷っていた。結局、焼き鳥屋に入って行ったのが、午後八時二十二分だった。これは腕時計をストップウォッチ代わりにして計った。
 ゴミ集積所のゴミに火がつけられたのは、午後八時二十分頃だと思われている。そして、それを発見して通報したのが、通りがかった者だった。一一九番の通話記録では午後八時二十六分となっていた。灯油はゴミ袋にはほとんどかかっておらず、道に流された感じだった。だから、六分の時間差があっても、大事にはならなかったのだ。
 山田の映像を見る限り、二月二十六日のアリバイを実証するものがなかった。焼き鳥屋かおでん屋かで迷っていた頃にゴミ集積所に行き、灯油を撒いて、火をつけることはできそうだったからだ。そして、何よりもまずいのは、焼き鳥屋に入って行った午後八時二十二分という時間だった。この時間を店の者が正確に記憶していれば、犯行現場から二分で焼き鳥屋に来るのは難しいことは分かるだろう。しかし、この時間帯は店も忙しい盛りだ。正確に時間を覚えている者はいないと思った方がいい。むしろ、犯行後、それを誤魔化すために焼き鳥屋に入ったと思われるのがオチだ。焼き鳥定食を食べた後に、野次馬根性で放火現場を見に行ったのだ。その時、撮影されたのだった。
 結論から言えば、二月二十六日の山田のアリバイは実証できなかった。
 次は三月二十八日だった。
 この日の放火が起きたのは、午後八時五十八分だった。どうして、正確に時間が分かるかというと、近所の板塀の隅に灯油をかけてマッチで火をつけた直後に、その火を発見した人が一一九番に電話をかけたからだった。その人に喜八は、火をつけた直後にぶつかってしまった。喜八は、その時は眼鏡にマスクをして、中折れ帽を深く被っていた。一一九番をした人は、火に気が付いて、携帯から一一九番に電話するので精一杯で喜八がどこへ行ったのかは見ていなかった。近所に火をつけたのは、喜八にとっては次は自分のところに火をつけるためだった。
 この時間、正確には午後八時五十分に、その火をつけられた家から六分ほどの所にあるパチンコ店から山田は出て来たのだ。山田はパチンコ玉が出なくて、くしゃくしゃしていた。その気持ちを紛らわせるために、三分ほど行った所にある居酒屋に午後八時五十三分に入った。したがって、居酒屋で証言が取れれば、山田にこの犯行ができないことが分かるはずだ。だが、これも二月二十六日のアリバイと同じで、居酒屋では大体の時間は分かっても正確に何時何分ということまで覚えている者は期待できなかった。逆に言えば、午後八時五十分にパチンコ店を出ずに、午後九時までパチンコ店にいればアリバイは証明できたのだ。よりにもよってその十分前にパチンコ店を出たために、犯行現場に行き、灯油を撒き、火をつける時間的余裕が生じたのである。そして、居酒屋を出た後に放火現場を見に行っている。
 結局、三月二十八日も山田にはアリバイがなかった。
 では、四月二十九日はどうなのだろう。
 火事は午後九時八分に一一九番通報されている。通報したのは、二人である。一人は隣家の者で、もう一人は通りがかりの者だった。通報時間はほとんど同じだった。玄関脇に置いてあるゴミ箱は、板塀の陰に隠れていたので、燃え出してからの発見が遅れたものと思われた。そのうちに、家の中に火が入り込み、煙草を吸いながら、天麩羅を揚げていた喜八が、それに驚いて居間に行き、火を消そうとした時、煙草を取り落とし、それが新聞に火をつけたものと考えられた。天麩羅鍋の火はその後に燃え広がったものと思われた。家全体が焼けてしまっているので、火の回りが早かったことが分かるだけで、その正確な順番は鑑識でも判別つかなかった。
 山田は午後八時四十五分に、一つ前の通りのコンビニから出て行くところが映っている。その後、十分後に居酒屋に行っている。午後八時四十五分にコンビニを出てから、五分もあれば、喜八の家に行ける。とすると、もし山田が犯人なら午後八時五十分にゴミ箱に火をつけたことになる。そして、一一九番通報されるまで、火が喜八の家に燃え広がったとすると、その後で居酒屋に行ったとしても、時間的に筋が通る。
 この日も、居酒屋を出た後に放火現場を見に行っている。だから、山田にはアリバイがなかった。
 何か見落としはないか、もう一度なぞってみた。山田のアリバイに関しては、これといって立証するものがないことが確認できただけだった。
 喜八の記憶の中で使えそうなのは、三月二十八日の件だった。この時、喜八はミスを犯している。放火した直後に その火を発見した人にぶつかってしまったことだった。喜八のことだ。周りに人がいないのを確かめてから、火をつけたのに違いない。しかし、誰しも盲点というものがあるものだ。火をつけた時に角を曲がって来た人に気が付かなかったのだ。自分も早く、その角を曲がりたかったが、この時、喜八は中折れ帽を深く被っていた。それが視界を狭めた。僅かな遠くが見えなかったのだ。近くしか見えなかった喜八は携帯から一一九番に通報した人とぶつかってしまった。しかし、幸いだったのは、通報者は一一九番に電話するのに一生懸命で自分にぶつかった男がその後どこへ行ったのかは見ていなかったことだ。喜八はすぐに角を曲がったのだ。これで、通報者には見つからなかったのだ。
 三月二十八日の件では、通報者にぶつかった男が一番、疑われてしかるべきだった。だが、そのことを捜査一課二係が重視していないことは疑いようもなかった。
 あやめからの映像により、山田が犯人でないことはもちろん、はっきりしたが、もっとはっきりしたことは、二月二十六日も三月二十八日も四月二十九日も、山田にはアリバイを実証することができないということだった。
 こうなると、山田が取調に堪えて、自供をしないことを願うしかなかった。山田の映像を見ていると、山田を犯人とする物証がないことが分かる。もちろん、山田が犯人ではないから、物証がないのは当たり前だが、物証がないということは、山田の自白以外、山田を犯人にすることはできないことになる。仮に自白が取れたとしても、物証がなければ、山田を犯人にすることはできない。それが刑事訴訟法の原則だった。だが、これには例外があった。物証がなくても、有力な状況証拠が揃えば、物証と似た効力を発揮するのだ。
 アリバイがないことも状況証拠の一つになる。有力な状況証拠になる、もう一つは動機だった。動機があれば、有力な状況証拠になる。
 そこで、僕は山田の過去を映像で追ってみることにした。
 すると、非常にまずい映像を見付けてしまった。それは、山田が中学二年生の時のことだった。その学年の二月十二日、火付けによって、最も親しくしていた、たった一人の叔母を亡くしていたのだった。山田は激しく憤った。しかも、火付けをした犯人は今も捕まっていない。山田が、警察を憎んでいることは確かだった。
 それよりも確かなことは、火付けに対して山田が関心があると、警察が思うことだった。ある事件を契機にして、その犯行に走る者がいることは捜査関係者の間では、よく知られていることだ。
 山田の場合もこれに該当すると思われかねない。もし、そう思われれば、動機があることになる。付け火を憎むあまりに、自分も付け火に走ったと捜査陣が考えてもおかしくはなかった。
 山田の映像を再生していくと、山田には粗暴な側面があることも分かった。高校を卒業後に最初に入社した会社でも、上司に暴力を振るって、怪我を負わせたことで解雇されている。これは示談で終わり、被害者が訴えなかったことで刑事事件にはなっていなかった。
 山田に有利になる映像は見当たらなかった。

僕が、警察官ですか? 3


 月曜日だった。今日は、西新宿署に行って剣道をする曜日だったので、剣道の道具を持って、家を出た。
 黒金署に着くと、山田の取調は今日も続いていた。
 僕は安全防犯対策課に入ると、デスクに着いた。
 緑川が自分の席から僕に向かって、「取調は難航しているようですね」と言った。
「そうか」
 そうだろうな、と僕は思った。山田はやっていないんだから。
「でも、捜査一課二係の人に訊いたら、彼が本ボシだと思っているようですよ」と緑川が言った。
「そうなのか」と僕は驚いて訊いた。
「ええ、絶対に落としてやると言ってましたから」と緑川は答えた。
 何て言うことだ。彼は犯人じゃないんだ。
 僕が心の中でいくら叫んでも誰にも聞こえはしない。こうなれば、喜八の犯行を証明するか、山田が白であることを証明するかの、どちらかしか方法がない。今は、四月二十九日の放火事件について、鑑識がどういう報告をしたのかが気になるところだが、それを無関係の者が読むことはできない。とすれば、山田の潔白を証明するしかない。明日、ひょうたんを持ってきて、取調の様子を見させてくれと、捜査一課二係の係長に掛け合ってみるか、と思った。しかし、これは断られることは目に見えていた。しかし、取調が行われている場所は分かる。少し、離れているが、あやめなら山田の頭に入れるかも知れなかった。その可能性に賭けてみる気になった。

 捜査一課の方は忙しそうだったが、安全防犯対策課は暇だった。僕は雑用をこなして退署時間を待った。
 退署後は、剣道をしに西新宿署に行くことになっていた。
 退署時間が来たので、鞄と剣道の道具を持つと「お先に」と言って、安全防犯対策課を出た。歩いて西新宿署まで行った。三十分かかった。
 剣道着に着替えて道場に行くと、西森が待っていた。
 今日は試合形式ではなく、純粋に打込みの稽古をした。僕が元立ちになって、西森に打ち込ませた。それを一時間近く休まず続けた。さすがに西森は疲れたようだった。
「今日はこのくらいにしますか」と僕が言うと、「まだまだ」と西森は答えた。
「でも、西森さんに訊きたいことがあるんですよ」と僕が言うと、彼は親指を上に向けて、「ラウンジに行きますか」と言った。
「いいえ、簡単なことなので、着替えながら話します」と言った。
「では、そうしましょう」と西森は言った。
 更衣室に行き、剣道着を脱ぐと、シャワーを浴びた。躰を拭いて出て来ると、西森がシャワー室から出て来るのを着替えながら待った。
 西森が出て来た。西森はバスタオルを腰に巻いて、ベンチに座った。
「で、訊きたいことは何ですか」と言った。
「着なくてもいいんですか」と言うと、「少し、熱を冷ましてから着ますよ」と言った。
「そうですか。では、伺います。もし、犯人でない者が逮捕され、取調を受けているとします。しかし、取り調べている方は、被疑者を犯人だと信じて疑わない。こうした場合、どうすればいいですか」と訊いた。
「例の黒金町で起こった連続放火事件のことを言っているのですか」と西森は訊いた。僕は、さすがに鋭いな、と思いながら、「いや、一般論として訊いています」と言った。
「それなら取調をしている者に任せるしかありませんね」と西森は答えた。
「被疑者が白だと分かっていてもですか」と僕は言った。
「ええ、そうだとしても、警察は組織で動いています。それを覆すとしたら、被疑者が白だという明白な証拠を提示するしかありません」と西森は言った。もっともな意見だった。

 西新宿署を出て、歩いて自宅まで帰った。
 すぐに、京一郎と風呂に入った。『被疑者が白だという明白な証拠を提示するしかありません』という西森の言葉が何度も頭の中を巡った。
「そうなんだよな」と呟いていた。
「パパ、何か言った」と京一郎が訊いた。
「いいや、独り言だ」と答えた。
 僕らが風呂から出ると、ききょうが入れ替わるように風呂に入っていった。
 僕はリビングルームに行き、テーブルに着くと、枝豆をつまみながらビールを飲んだ。
「何か気にかかることでもあるんですか」ときくが訊いた。
「気にかかっていることがあることが、きくには分かるのか」と訊き返した。
「ええ、わかりますとも、ビールの飲み方で」と答えた。
「何も気にかかることがないときは、実に美味しそうに飲みますもの」と続けた。
「そうか。ビールの飲み方一つでも分かるのか」と僕は言った。大したもんだな、と思うと同時に、自分も僅かな事柄でも見落とさないようにしなければならない、と肝に銘じた。

 翌朝、僕はひょうたんを鞄に入れると、家を出た。
 署に着くと、安全防犯対策課に行き、鞄からひょうたんを出して、ズボンのポケットに入れた。山田の取調は、すでに始まっていた。
「ちょっと、出かけてくる」と緑川に言って、安全防犯対策課を出た。そして、エレベーターホールに行くと、取調室のある五階に向かった。
 五階で降りると、巡査が立っていて、「この先はお通しできません」と言った。
「そっちのトイレに行くだけだよ」と言うと、「他の階にもトイレはあるでしょう」と巡査は言った。
「そうなんだが、間違って五階を押してしまった。今、腹を壊していて急ぎなんだ。済まんが、トイレに行かせてもらうよ」と言った。
「そういうことなら、どうぞ」と巡査は言った。
 僕は取調室とは反対側にあるトイレに向かった。そして、個室に入ると、ドアを閉め、ひょうたんを叩いた。
「あやめ、聞こえるか」と言った。
「はーい。聞こえます」とあやめは言った。
「取調室はこの階の一番奥の部屋だ。そこに少なくても三人の者がいる。一人は取調官でもう一人は記録係だ。真ん中の机に、取調官と山田が向き合うように座っている。あやめは山田宏の頭の中を読んできてくれ。できるか」
「わかりませんが、やってみます」
「では、行ってくれ」
「はーい」とあやめは言った。
 あやめは取調室の方に向かったのだろう。同じ五階とはいっても、正反対のところに取調室はある。しかも、中に何人いるのか分からない。あやめに言ったように、少なくとも三人いることは確かだ。他にもいるかも知れなかった。ここは、あやめに賭けてみるしかなかった。
 僕は狭い個室の中で、あやめが戻ってくるのをひたすら待った。

僕が、警察官ですか? 3


 捜査一課が、こちらが渡した情報から、重要参考人を割り出すことは時間の問題だった。
 だが、割り出された重要参考人が、犯人でないことを僕は知っている。どうすればいいのだろう。そればかりを考えていた。
「課長」と緑川が呼んだ。顔を上げると、緑川がデスクの電話を指さして、「内線です」と言った。
「済まん。ありがとう」と言って、僕はボタンを押して受話器を取った。
「捜査一課の二係、係長の中村です。そちらからいただいた資料のおかげで、重要参考人が見つかりました。これから任意同行を求めに行きます」と言った。
「差し支えなければ教えてもらえませんか。重要参考人とは、誰ですか」と僕が訊くと、「山田宏、二十八歳。フリーターです」と教えてくれた。
「ありがとうございます」
「情報提供のお礼はこれで言いましたからね」と中村は言った。
「それは分かりました。ご丁寧にありがとうございました」と僕が言うと、電話は切れた。
「何でしたのですか」と緑川が訊くので、僕は大きな声を上げて、「みんな、聞いてくれ。滝岡の解析した情報により、重要参考人が判明したそうだ。重要参考人山田宏、二十八歳、フリーターだ。捜査一課はこれから、彼を任意同行で引っ張ってくるつもりだ」と言った。
「やりましたね」という鈴木の声がした。滝岡に向かって言っていた。滝岡は「まあな」と応えていた。
 とうとう、重要参考人が判明した。そうなれば、今日中にでも任意同行をかけて、署に引っ張ってくるだろう。そして、事情聴取が行われる。僕がおそれていたことが、現実に進行しつつあった。
 どうすればいいのだ。僕にはいい知恵が浮かばなかった。
「滝岡、山田宏の映像はまだ持っているのか」と訊いた。
「ええ、ハードディスクに保存してあります」と答えた。
「その映像が見たいのだが」と言うと「ちょっと待ってくださいね」と言って、何かパソコンで作業をしてから、僕のデスクに来て、「パソコンをお借りします」と言って、キーボードを叩いた。そして、キーボードをこちらに返して、マウスを操作してディスプレイの中のアイコンの上にカーソルを置くと「このアイコンをクリックしてみてください。そうすれば、見たいファイルが表示されます」と言った。
 僕はマウスを左クリックした。すると、画面にyamada0226.***、yamada0328.***、yamada0429.***という三つのファイルが表示された。yamadaというのは、重要参考人の名字でその後の数字は放火が起きた日付だろう。重要参考人が分かったので、ファイル名を付け変えたのに違いない。素早いなと思った。
「分かった。ありがとう」と言うと滝岡は自分の席に戻っていった。
 僕は、まずyamada0226.***と書かれたファイルをクリックした。防犯カメラからの映像が数種類流れた。時間にして二十分ほどだった。僕は山田宏の顔を知らないので、誰が山田なのか分からなかった。
「済まん。滝岡、ちょっと来てくれ」と言った。
「何ですか」と言って、滝岡はやってきた。
「誰が山田なのか分からないんだ」と言った。
「ああ、そうでした。それなら、もう一つ映像を送ります」と言って、自分の席に戻りパソコンを操作した。それから、僕のところに戻ってきて、「このファイルを見てください」と言って、yamada_xxx.***と書かれたファイルをクリックした。
「ここにさっきの三つの映像から抽出した山田の映像が取り込んでありますから見てください」と言って、自分の席に戻っていった。
 ディスプレイには、一人の男の映像が流れていた。そして、画面が切り替わり、そこにもさっき見た男の映像が流れた。そして、もう一度、画面が切り替わり、さっきの男の映像が流れた。この映像に映っているが、山田宏なのだろう。それぞれ十数秒の映像だった。
 最初の映像は、二月二十六日のもので、人混みの中を山田が歩いているのが分かった。前に人がいて、手元までは分からなかった。二番目のは、三月二十八日の映像で、やはり人混みの中を歩いていたが、チラリとショルダーバッグを提げているのが分かった。それで、一番目の映像を見直してみた。肩にショルダーバッグの肩掛けの部分が映っているのが見えた。三番目の映像も見た。人と人の切れ目を山田が歩いて行く姿が映し出されていた。やはりショルダーバッグを掛けていた。
 この映像を見れば、あのショルダーバッグの中に、灯油の入った瓶とマッチ箱が入っていたものと思うことだろう。もっとも、マッチ箱は、山田が上着を着ていたから、そのポケットに入れていたかも知れない、と思うかも知れなかった。
 この三つの映像が示していることは、犯行日時に、犯行現場近くに、山田宏がいたという事実だった。犯行を否認するのに、一番手っ取り早いのが、アリバイを証明することだった。しかし、山田の場合、そのアリバイがなかった。アリバイのないことを映像が示していた。
 退署時刻が迫ってきた頃、署内が慌ただしくなってきた。
 鈴木がどうしたものかと、安全防犯対策課を出て捜査一課の方に見に行った。そして、息を切らして戻ってくると、「山田が今、捜査一課に連れられて署内に入ってきました」と言った。そして、「公務執行妨害ということで現行犯逮捕されたようです」と続けた。
 とうとう、おそれていたことが現実化したと思った。公務執行妨害は口実に過ぎない。本丸は連続放火事件の方だろう。こっちは二名の死亡者が出ている。現住建造物等放火ともなれば、裁判員裁判の対象事件にもなってくる。
 取調は二係がやるだろうから、安全防犯対策課が出て行く余地はない。
 これから、ビデオ録画された取調が行われるだろう。その時、灯油を撒いて、マッチで火をつけたことが、犯人しか知り得ない事実になってくる。この事実は報道もされていなければ、マスコミにも流れてはいなかったのだ。
 取調官は、犯行の手口を訊いてくるのに違いなかった。しかし、山田にそれが答えられないことも僕は知っていた。だが、取調官はあれやこれやの手を使って、口を割らそうとする。山田がそれに堪えられるかどうかが、問題だった。

 退署時刻になった。僕が鞄を持つと、緑川が「帰るんですか」と訊いた。山田が署内に連行されてきたのだ。興味がないのですか、と訊きたいようだった。
「ここにいても、私たちの出番はありませんよ。私はこれで帰ります。お先に」と言って、安全防犯対策課を出た。
 気にならないわけではなかったが、安全防犯対策課に残っていてもしょうがなかった。
 捜査一課二係に任せる他はなかった。

 家に帰ると、京一郎と風呂に入った。今日は金曜日だった。明日は署に行かなくてもいいが、山田の取調は続くことになる。事件送致まで最大四十八時間あり、その後二十四時間以内の範囲で検察送致が行われる。その間に勾留請求をして認められれば、最大二十日間勾留することができる。勾留延長請求ができるからだ。山田の現在の逮捕事実は公務執行妨害だから、さすがにそれで二十日間も勾留することは難しい。どこかで、現住建造物等放火で逮捕状が出る可能性がある。その時は、勾留期間がそこから始まることになる。
 結局、嘘にしろ何にしろ、山田が自白するまで勾留は続くことになる。人間は弱いものだ。勾留期間が長くなれば、やっていないことでもやったと言うようになる。こうして冤罪は生まれるのだ。
 僕は山田が白だということは、分かっているが、今のところ何にもすることができない。山田自身が否定し続けてくれる他はないのだ。

 土曜日は、一日中鬱々とした日を過ごした。明日は、父や母、きくとききょうと京一郎を連れて、東京****ランドに行く予定だった。
 そして、日曜日が来た。開園前に着くように車で行って、長蛇の列に並んだ。1デイパスポートというチケットを購入して、入場した。どのアトラクションも長い行列ができていた。予約のできるアトラクションは予約をしてから比較的空いているアトラクションを回った。そして、予約時間が来たら、そのアトラクションを楽しんだ。
 ききょうも京一郎も、初めて東京****ランドに来たので、目を輝かせていた。
 売店で食べ歩きできる食べ物を父や母は、ききょうと京一郎に買い与えていた。いつもは、「食べながら歩いてはいけませんよ」と言う僕ときくだったが、今日ばかりは目をつぶった。きくも一緒になって食べていた。
 きくが「これ、美味しいです」と言ったのが、キャラクターがデザインされているメープルソース付きワッフルだった。
 お昼は比較的空いているレストランで、ききょうと京一郎はオムライスにハッシュドビーフのプレートにオレンジジュースを頼んだ。父と母はシーフードドリアにし、僕ときくはコンビプレートを頼んだ。父も母も僕もきくも飲物は、ウーロン茶にした。
 閉園時間になったので帰った。帰り道は車で混んでいた。

 

僕が、警察官ですか? 3


 鑑識は家の内部の焼け具合が激しいことから、火元は最初は天麩羅鍋の油が燃え出したものと考えた。それと、もう一つは居間の新聞である。居間も激しく燃えていた。そこには新聞紙が積み上げられていた。煙草の吸い殻も見つかった。ここも火元と見られた。しかし、外のゴミ箱が焼けていることが捜査陣の判断を狂わせた。ここも灯油がかけられて、マッチで火がつけられていた。そして、そのゴミ箱のすぐ横に家があり、火はその木の壁に燃え移った。その火が家を燃やしたと最終的に判断したのだった。
 犯人が喜八であるとは、誰も疑ってはいなかった。
 僕がそのことを知ったのは、三日後だった。捜査一課から、監視カメラの録画映像が届けられた時だった。録画されているDVDーRAMを持ってきた刑事は、この中から「前回と前々回と同じ人物が写っていないか、確認してください」と言った。
 僕がその刑事に「犯人はまだ分かっていないのですか」と訊くと、「はい。残念ながら、そうです」と答えて帰って行った。
 僕はDVDーRAMの山を見ながら、この中に犯人がいるはずがないじゃないか、なぜなら、犯人は喜八なんだから、と思った。
 しかし、捜査一課はそうは思っていない。僕が犯人は喜八だと主張しても一笑に付されるだけだった。捜査は証拠がすべてだった。あやめの映像は証拠としては使えなかった。
 ほかに確たる証拠を見付けるしかなかった。
 しかし、一方でそれでいいのではないか、という気持ちもあった。犯人が分からないまま、この連続放火事件を終結させるのも悪くないのではないか。そうすれば、あの可哀想な喜八を犯人にすることもない。それで終結させてもいいではないか。すべて明らかにするのが、警察のすることなのか。もう事件は終わったのだ。これで終わりにすればいい。そう、僕はどこかで思っていた。
 僕は滝岡を呼んだ。そして、DVDーRAMの山を見せて、「この映像をパソコンの中に取り込んで、二月二十六日と三月二十八日の映像と照合してくれ。同じ人物が映っていないかを」と言った。
「わかりました。やってみます」と滝岡は言った。
 僕は意気揚々と去って行く滝岡の後ろ姿を虚しく見ていた。

 定時に退署して家に帰った。きくと京一郎が出迎えてくれた。
「ききょうは」ときくに訊くと、「クラス委員会があって、少し遅れて帰ってくるそうです」と答えた。
「ききょうはクラス委員になったのか」と僕が訊くと「話してなかったですか。先々週、投票の結果、クラス委員になったそうです。今日が最初の委員会だそうです」と答えた。
 聞いていたのかも知れないが、放火事件のことを考えていて忘れたのだろう。
 きくに着替えを手伝ってもらい、僕は京一郎と風呂に入った。
 浴槽の中でも考えた。真実は闇に葬られるが、これが一番いい結果なのだと、思った。喜八もそれを望んでいたではないか。
 僕は先に出ていた京一郎の後から風呂から上がると、ダイニングルームに行ってビールを飲んだ。苦い味がした。

 次の日に安全防犯対策課に行くと、滝岡がすぐにやってきた。
「解析結果が出ました」と言った。
 僕は椅子に座ると、「話してくれ」と言った。
「前回の解析では、三十五人がヒットして、その中で十七人はあの地区の住人でした。そして、残りの十八人は、あのあたりに良く飲みに来ている客でした。今回の解析では、前回ヒットした十八人のうち、三人がヒットしたんです」
「ということは」と僕が言うと、「この三人をまず取り調べるべきだと思いますね」と滝岡は言った。
「分かった。それを書類にしてくれ」と言うと、「もうできてます」と滝岡は言った。
「そうか」と言うと、僕は緑川を呼んで、滝岡から聞いた話をした。
「そこで、これから捜査一課まで、滝岡と一緒に行って、今の件について説明してきてもらいたい」と言った。
 緑川は「わかりました」と言って、滝岡と安全防犯対策課を出て行った。
 二人を捜査一課に行かせたのはいいが、僕はその三人の中に犯人がいないことを知っている。しかし、捜査一課はこの情報に飛びつくことだろう。捜査が迷走し出したことを知っているのは、僕だけだった。
 しばらくして、緑川と滝岡が戻ってきた。滝岡は自分の席に着き、緑川が僕のデスクにやってきた。
「報告します。まず、ご苦労様でした、と言われました。そして、その三人を特定するそうです。そして、特定できたら、任意でひっぱってきて、事情聴取するそうです」と言った。
「そうか。分かった。ありがとう」と僕は言った。

 お昼になった。僕は愛妻弁当と水筒を持って、屋上のいつものベンチに座った。
 今日は、鮭のふりかけでハートマークが作られていた。周りに誰もいないのを確かめると、僕はゆっくりと弁当を食べた。

 午後になった。捜査一課の方は忙しそうだったが、安全防犯対策課はのんびりしたものだった。そんな時に、捜査一課の矢崎刑事が僕のところにやってきて、大量のDVDーROM(ROMは一度データを書き込むと、データを書き換えることができない媒体である)を置き、「これは前回と前々回の現場を見に来た者の映像と、携帯で事件前後を撮っていた者が持っていた映像を集めたものです。この中から、先程の三人がいるか、確認してください」と言った。
「分かりました。やっておきます」と僕は言った。
 当然、滝岡を呼んで、大量のDVDーROMを渡して、「例の三人が映っているか、照合して欲しいそうだ。大変だろうが、やってくれ」と言った。
「ひゃー、こんなにですか。わかりました。やります」と言って、大量のDVDーROMを持って行った。
 僕だけが、それが無駄な作業だと知っていた。しかし、警察は組織で動く。やれと言われたことは、やらないわけにはいかなかった。
 この時の僕には、この作業が徒労に終わると思っていた。犯人は喜八なのだから、無駄な作業だと思っていた。
 しかし、違っていた。
 滝岡は、あの大量のDVDー­­ROMの中から、三人のうち、一人を見つけ出した。
 上気した顔で、滝岡は僕のところに報告に来た。そのDVDー­­ROMを持ってこさせて、緑川を呼んだ。
「これを持って、捜査一課に行ってくれ。説明は滝岡がしてくれ」と僕は言った。
 二人は「わかりました」と言って、捜査一課に向かった。
 捜査一課が色めき立つのが、見えるようだった。

 

僕が、警察官ですか? 3


 僕は次の日、机からひょうたんを出して鞄に入れた。今日、黒金署に行き、安全防犯対策課に顔を出したら、被害現場に行くつもりだった。その時、ひょうたんをズボンのポケットに入れて行こうと思っていた。
 自宅を出て、黒金署の安全防犯対策課には、ちょうど午前九時に着いた。
 安全防犯対策課の中も、すでに昨日の放火事件についてメンバーが話している最中だった。
「おはよう」と言うと、緑川が来て、「とうとう放火殺人事件にまで発展してしまいましたね」と言った。
「被害者の名前と年齢は分かりますか」
「わかりますよ。戸田喜八さん、八十八歳。そして、戸田良子さん、八十六歳です」
「被害者は老夫婦だったのか」
「そうです。しかも、良子さんは、認知症で寝たきりでした。それを喜八さんが、一人で看護していたそうです」と緑川は言った。
「そうですか。痛ましいことですね」と僕が言うと、緑川は「こんな犯人、許せません。一刻も早く捕まえなければなりません」と言った。
「そうですね。私はこれから現場に行ってきます」と言うと、緑川が「課長が現場に行かれても中には入れませんよ」と言った。
「分かっています。外から、被害者のご冥福を祈ろうと思っています。それと現場を見るだけでも見ておきたいのです」と言った。
「わかりました」と緑川は言った。
「では、後はよろしく」と僕は言うと、鞄からひょうたんを出して、ズボンのポケットに入れた。

 安全防犯対策課を出ると、黒金町四丁目三十三番地二号の被害現場に向かった。被害現場には、野次馬が集まってきていた。立入禁止のテープが張られている前で、巡査二人が野次馬たちを押し留めていた。
 僕は警察手帳を見せて、立入禁止のテープの中に入れてもらった。現場は家がすっかり焼け落ちていて、まだ焦げ臭かった。
 時間を止めた。ズボンのポケットのひょうたんを叩いて、あやめに「霊気を感じるか」と訊いた。
「はい。二人の霊気を感じます」と答えた。
「では、読み取ってくれ」と言った。
「はい」と応えた。
 時間を動かした。
 両隣と、裏の家も被害を被っていた。
 僕は捜査の邪魔にならないように、立入禁止のテープの側から、捜査の様子を見ていた。今は鑑識が入っていた。捜査一課の者は家の近くに待機していた。捜査一課の中には、野次馬の写真を撮っている者もいた。犯人が犯行現場を見に来ている可能性もあったからだ。
 しばらくすると、ズボンのポケットのひょうたんが震えた。
 時間を止めて、「読み取れたのか」と訊くと「はい」と答えたので、「映像を送れ」と言って、時間を動かした。
 頭に映像が流れ込んできた。目眩にも似た気分が襲ってきた。それに堪えていると、慣れてくる。今回は二人分の映像だった。戸田良子、八十六歳の映像は、認知症のためか、穏やかなものだった。煙を吸い込んだ時だけ、苦しそうにしていたが、それもすぐになくなり、穏やかに死んでいった。辛かったのは、戸田喜八、八十八歳の映像だった。死ぬ直前まで、良子、済まない、と言っていた。喜八も煙に巻かれて、気を失い、呼吸困難になり死亡していた。躰が焼けたのは、その後だった。
 映像を戻していった。
 去年の夏まで戻した。六十歳になる息子がこの家に来ていた。
「親父、お袋は施設に入れた方がいい」と息子は言っていた。
「わしは嫌だ。良子と離れたくはない」と喜八は言った。
「それじゃあ、どうするんだよ。このままじゃあ、二人、共倒れになるだけじゃないか」と息子は言った。
「わしが世話をできるうちは世話をする。ほっといてくれ」と喜八は言った。
「親父だって、もう歳なんだから、無理はできないだろう」と息子は言ったが、喜八は聞かなかった。
 物別れになり、息子は帰っていった。
 それから数ヶ月、喜八は良子の面倒をよく見た。しかし、そのうち持病の腰痛が悪化して重い物が持ちにくくなった。当然、良子を抱き起こすことができなくなった。この時、息子の忠告通り、介護の手が差し伸べられるべきだったのだ。
 だが、その後も喜八は一人で頑張った。しかし、それにも限界があった。良子が「死にたいよぉ」と言うようになった。喜八はその手を取って、泣いた。
「大丈夫だ。俺がいる」と言った。息子に助けを求めるべきだったが、夏にそれを拒絶した喜八には、それができなかった。一人で頑張ろうとした。しかし、無理が来た。
「死にたいよぉ」と言う良子の声が胸に入り込んできたのだ。
「じゃあ、一緒に死のう」と、喜八は思ってしまったのだ。
 しかし、無理心中をしたのでは息子たちに迷惑がかかると思った喜八は、前に新聞で読んだ記事を思い出した。それが連続放火事件だったのだ。犯人は大学生だった。就職浪人をしていて、その腹いせに放火を繰り返していたのだ。それを思い出したのだった。連続放火事件に見せかけて、無理心中をすれば、犯人は別にいると思われる。そうなれば、息子たちにも迷惑がかからないのではないかと思ったのだった。
 最初は、二月二十六日に近所のゴミ集積所のゴミに灯油をかけてマッチで火をつけたのだ。連続放火事件に見せかける第一弾だった。三月二十八日も、近所の板塀の隅に灯油をかけてマッチで火をつけた。これが二番目だった。次は、いよいよ、自分の家だった。灯油は、ストーブのために購入していたものを使った。二週間に一度、ガゾリンスタンドから配達してもらっていた。幸いにも、というか、不幸にもというべきだが、二件の放火事件は喜八が起こしたものとは思われなかったのだ。それはそうだろう。八十六歳の妻を介護している八十八歳の喜八は、連続放火魔のプロファイリングとは異なっていたのだ。
 喜八は四月も二十日を過ぎると、いつでも実行できるように用意はした。しかし、いざ、火をつけようとすると躊躇した。何も分からない妻を焼き殺すのだ。喜八の心が痛まないわけはなかったのだ。しかし、二十九日になって、ようやく決心ができた。始めに外に火をつけると、消し止められるおそれがある。家の中で火がついた後に、外のゴミ箱に火をつけることにした。ゴミ箱に灯油をかけて、家の中に入った。
 まず、天麩羅を揚げる材料を買ってきて、天麩羅を揚げようとしている様子を作り出した。そして、天麩羅鍋にいっぱいに油を入れて、火にかけた。
 次に、居間で新聞を片付けているフリを作り出した。そして、沢山の新聞を積み上げて、その端に煙草で火をつける用意をした。台所の天麩羅鍋の油に火がついた。それから、新聞紙に煙草で火をつけると、煙草を落とした。そして、火が燃え上がるのを見て、外に出て、ゴミ箱にマッチで火をつけた。
 そして、家の中に入った。火は激しさを増して燃えさかった。
 喜八は妻の眠るベッドに行くと、妻の手を握って、「ご免よ。少しだけ熱い思いをさせるけれど、あの世に行っても一緒だからね」と言った。そして、妻の手を離すと、火が燃えさかる居間に入って行った。そして、煙に巻かれた。苦しくなった。息ができなかった。妻のベッドの方を向いた。まだ、ベッドには火も煙もなかった。喜八の着ていた服に火がついた。躰が熱くなった。熱が躰にひどい痛みを感じさせた。その時、また煙を吸い込んだ。途端に、意識がなくなっていった。
 映像はそこまでだった。
 一連の連続放火事件の犯人は、喜八だったのだ。
 僕はやるせなかった。
 立入禁止のテープを潜ると、黒金署に向かった。
 今回の犯行は、家の内部から燃えている。ゴミ箱から火が移って家が燃えたわけではない。そんなことは鑑識なら、すぐに判明するだろうと考えた。
 そうであれば、犯人が喜八であることも、そのうち分かることだろうと思った。
 だが、違っていた。