小説「真理の微笑」

 山頂近くは霧深かった。車は麓の人気ない駐車場に駐めておいて、バスで途中まで来てから、あとは徒歩で彼の別荘に向かった。初めから殺害計画を持っていたので、車で直接彼の別荘に向かうのは避けた。

 人造湖を見下ろす位置に建つ別荘はすっかり霧に包まれていた。霧の中から黄色い光が洩れてきた。別荘のリビングの明かりだった。私はそっと庭に回った。そして窓の陰から中をうかがった。

 富岡は椅子に座っていた、グラスにたっぷりと注いだブランデーを持って。

 ワーグナーがかかっていた。「ワルキューレの騎行」だった。ワーグナーは富岡のもっとも好きなクラシックだったのだろう。

 窓に手を掛けてそっと開いてみた。動く!

 私は部屋に侵入する事が容易なのを確認した。あとは富岡がリビングから離れた隙に中に潜り込めば良かった。私は真新しいズックを半分脱ぎかけていた。

 私は待った。時間が私の殺意を取り崩しそうになった。幾度となく、私は決意を新たに仕直さなければならなかった。

 しばらくして富岡は氷を取りに、キッチンに立った。私はその隙にガラス戸を開け、ズックを脱ぎ、リビングに入った。そしてロングソファの後ろに隠れた。

 再び富岡は戻ってきた。ワーグナーの音楽と酔いとが私の気配を消していたようだ。しかし鼓動はシンバルのようにあたりに響きそうだった。私はナイロン製のロープを、革手袋をした両手で握り締め、チャンスをうかがった。そう、永遠とも思える長い時を、私は耐えたのだった。

 

 その時は、突然とやってきた。何かが起こったわけではなかった。むしろ何も起こらなかった。大きな椅子に腰掛けて音楽に浸っている富岡が、また一口ブランデーを飲もうとしていたところだった。私の躰が勝手に動いた。ロングソファの陰から飛び出し、富岡の首にロープを巻き付けた。そして、背もたれをてこのようにして、まるで背負い投げでもするかのように躰を沈めた。私の全体重がロープにかかった。富岡はコップを落とし、必死で首を絞めるロープをほどこうとした。しかし、しっかりと体重をかけたロープをほどく事はできなかった。

 額に汗が出てきた。革手袋からロープを放すまいと必死だった。部屋中をワーグナーが満たしていた。どれほどの時間が経ったのだろうか。はっきりとは覚えてはいなかった。

 躰を反転した時、椅子から垂れ下がっている富岡の腕が見えた。そのまま私は仰向けに倒れ込んだ。手袋を通しても掌にロープが食い込んだ痛みが感じられた。しばらく起き上がれなかった。

 たった今、人を殺した。

 そう思った時、自分が人の踏み越えてはいけない一線を越えた事に、今更のように思い至った。躰の奥底から震えが湧き起こってきた。嵐のように、しかしゆっくりとそれは通り過ぎていった。

 過ぎ去ると、疲労感が全身を覆っていた。このまま仰向けに倒れていたかった。しかし、それはできなかった。

 立ち上がろうとした。足が滑った。手で掴んでいるロープがすぐには外せなかった。革手袋をしている指が掌の中に食い込んでいて、手が開けなかった。やがて、左手を開く事ができ、強く引っ張っていた右手の指を左手で一本一本伸ばした。

 立ち上がると、椅子の中に、口を開けて舌を出している富岡が見えた。指で首を掻きむしった跡が幾つも見えた。その指をどけてロープを外した。富岡の心臓に手を当てた。鼓動はなかった。

 歩き出そうとした時、グラスがつま先に当たった。グラスは転がった。絨毯に落ちていたグラスは割れてはいなかった。何故か、それを拾い、テーブルに置いた。

 レコードプレイヤーのスイッチを切ってワーグナーを止めた。