十七
朝、起きるのが辛かった。しかし、今日は黒金幼稚園で防犯キャンペーンがある日だった。
行く義務はないが、課長として部下のしているところを見に行かないわけにはいかなかった。
リビングルームに入って行き、「おはよう」と言った。
きくは「おはようございます」と言った後、「今日は黒金幼稚園の防犯キャンペーンの日ですね」と言った。
「ああ」
「行かれるんですか」
「そのつもりだ」
「そうですか。大変ですね」と言った後、「それにしても変ですよね」と続けた。
「何が」と僕は訊いた。
「この前の花村幼稚園の時は、火曜日に行っていましたよね」と言った。
「そうだったな」
「火曜日って平日ですよね。今度はどうして日曜日なんでしょう」
「毎年、そうなっているからじゃないか」
「幼稚園はいいとして、保育所に通わせているお母さん方は大変ですよね。貴重な日曜日が潰れるわけですから。それに、保育所にしても代替休日を設けるわけにもいかないでしょうに」と言った。
「なるほど、そう言われてみれば、そうだな。今回、アンケートを取るんだから、その項目を入れておけば良かったな」と僕は言った。
きくに言われて、初めて気付いたことだが、花村幼稚園の方では、確か火曜日に防犯キャンペーンを行ったはずだが、黒金幼稚園と保育所の方は日曜日だ。
何か理由でもあるのだろうか。
僕はそういうものだと思っていたので、曜日のことまで気にはしていなかったが、子どもを預けている方は気になるところだ。
こういうスケジュールはどこで、決めているのだろうか。
確か、花村幼稚園の防犯キャンペーンが好評で、黒金幼稚園と黒金保育所の方から、防犯キャンペーンをやってくれという依頼があったはずだ。
それには、緑川が対応したと記憶していた。
そこで、防犯キャンペーンが、六月の第一日曜日に黒金幼稚園で、第二日曜日には黒金保育所というように、決まったことを思い出した。
日曜日が選ばれたのは、平日では、町会や老人会の人たちが動きづらいのかも知れなかった。
とにかく、緑川が相手と相談して決めたことだ。部下の決めたことにとやかく口を出さない方がいい。僕は、この手の面倒なことが嫌いだった。第一、この案件を裁可したのは、僕だった。
防犯キャンペーン自体は、午前十時から始まるので、僕は午前九時半過ぎに家を出た。
黒金幼稚園に着いた時は、防犯キャンペーンが始まるところだった。
随分と人が集まっていた。この前の花村幼稚園の時の倍くらいいる感じだった。それも休日に防犯キャンペーンを行っているためなのかも知れなかった。
園長が挨拶をして、係長の緑川が防犯の注意点を話した後、あの棒読みの寸劇が始まった。園児たちが「へたくそ」と声を上げているのが、聞こえてきた。
これが緑川が言っていた棒読みの効果なんだな、と思った。
一通り様子が分かると、僕は幼稚園を離れた。
家に戻ると、きくが「あら、もう帰っていらっしゃったんですか」と言った。
まだ午前十一時半だった。幼稚園まで、歩いて三十分ほどだったから、一時間ほど幼稚園にいたことになる。
「どうでした」ときくので、「まぁまぁだな」と答えた。
「人はどうでした」
「結構いたよ。この前の花村幼稚園の時よりは多かった」
「そうでしょうね。日曜日ですもの」ときくは言った。
「お昼は何になさいますか」と訊くので、「何が作れる」と訊き返すと、「何でも作れますよ」と答えた。
「凄いな」と僕は言った。
「そうだな。ざる蕎麦にしてもらおうか」と続けた。
「わかりました」ときくは答えた。
月曜日。剣道の道具を持って、家を出た。月曜日は、午後は射撃練習があり、その後、西新宿署に行って、西森幸司郎と剣道をすることになっていた。
安全防犯対策課には定時に着いた。
にこやかな顔をした緑川が僕のデスクにやってきた。
「昨日の防犯キャンペーンは成功でしたよ。大盛況でした」
「そうか」
「これが回収したアンケートです」と、アンケート用紙の束をデスクの上に置いた。
「これは内容を集計した表を作って、後で一緒に課長にお渡しします」と言って、そのアンケート用紙の束は、自分で持ち上げて、脇に抱えた。
それから、別の用紙を三枚、僕の前に出した。
「これは、代休の申請用紙です。昨日、防犯キャンペーンに黒金幼稚園に行ったので、その代休をいただきたいのです。私のと他の二人分もお願いします」
「当然の権利だな」と僕は言った。
「それで来週の金曜日に休みたいのですが、いかがでしょうか」と言った。
「今週じゃないのはどうして」と訊くと、「今週の日曜日にも防犯キャンペーンは入ってますよ。その前の勤務日に休めますか」と答えた。
「それもそうだな。そうすると、来週も代休の申請用紙を持ってくることになるな」と言うと「はい」と答えた。
「やはり、金曜日か」と訊くと、これも「はい」と答えた。
「で、ここに判を押していただけませんか」
「分かった」と言うと、僕はその三枚の用紙の判を押す位置に判を押した。後は、署長の判がいるが、署長は出される書類にただ判を押すだけの人だから、僕が決裁したところで、この案件は通るだろう。
僕は「決裁」と書かれた箱の方にその書類を入れた。ある程度、たまった頃に、並木が署長室まで持っていくことになっていた。
お昼になったので、愛妻弁当を持って屋上に行った。
弁当を食べて戻ってくると、コンビニで買ってきたらしい弁当を食べていた緑川を呼んだ。
「午後一時になったら、私は府中の警察学校に行く。その後は、西新宿署だ。後は、西新宿署から帰宅するつもりだ。だから、午後になったら、後のことはよろしく頼むよ」と言った。
「先週からでしたよね」と緑川が言った。
「そうだ。署長命令だ」と応えた。
「わかりました。これから、毎週、月曜日はこうなるんですね」と訊くので、「そうだ」と答えた。
「承知しました」と緑川が言った。
午後一時になったので、僕は剣道の道具と鞄を持って、署の玄関まで降りて行った。
そして、交通課に顔を出すと、警察学校まで運転していってくれる者を探した。
一人が手を挙げた。彼に伴って、覆面パトカーに向かった。
「じゃあ、警察学校まで」と言って、剣道の道具や鞄は後部座席に置き、助手席に座った。そして、シートベルトを締めると覆面パトカーは発車した。
パトカーが動き出すと、すぐに僕は目を閉じた。
事件のことを考えるつもりだったが、いつの間にか眠ってしまった。
「着きましたよ」と言う巡査の声で起きた。
「もう着いたのか」
「はい」
僕は後部座席の剣道の道具と鞄を取ると、覆面パトカーから降りた。
覆面パトカーは戻っていった。
僕は警察学校の中に入っていった。
更衣室で訓練服に着替えると、二時間ほど、様々な射撃訓練を受けた。
どれも見事なほど的のど真ん中を打ち抜いていた。
クレー射撃では、すべての皿を撃ち抜いた。ライフル銃でも、的を外したことがなかった。
更衣室で背広に着替えると、更衣室の前に教官が立っていた。
「ちょっと話さないか」と二階にある談話室に誘った。
教官は自販機から買った缶コーヒーを取り出し、僕に勧めたが、僕は首を振ってスポーツドリンクを買った。
キャップを捻って、ドリンクを飲み始めると、「惜しいな」と教官は言った。
「いい腕をしているんだがな」
「冗談は止めにしてください」
「冗談なんか言ってないよ」と教官は言った。
「本格的に訓練してみないか」と続けた。
「今、結構、本格的に訓練しているつもりですけれど」と言い返した。
「それはそうだが」
「私は警部ですよ。射撃訓練よりも、上を目指して試験を頑張るつもりでいますけれど」と言った。
「筆記試験はもうないだろう」と教官は言った。
「えっ、ないんですか」と僕は驚いたように言った。
「ないと思うよ」
「残念だなぁ」と僕は真顔で言った。でも、本当は知っていた。