三十四
母は、その後も、僕やきくやききょう、京一郎の将来のことを話した。伝えたいことをこの際だから、一切伝えておこうとしたのだろう。
そして最後に「それは京介、あなたが決めることよ」と言い切った。それで話は終わった。
僕は母がこれだけ考えていてくれたことを知って驚いた。そして、少し感動もした。また、脳天気に生きている自分を恥じた。僕は、自分の背負っているものが決して軽いものではないことを改めて母から知らされた。
きくのこともそうだった。江戸時代から現代に連れてきたのは、僕の意志だった。それなのに、それで終わったかのように思っていた。
ききょうや京一郎の場合は、予防接種などで小児科に行くときに保険証がないことを気にしたが、なくても診てくれたから、それ以上は考えなかった。
だが、母の言ったことはその通りだと思った。
きくやききょうや京一郎のことは、僕が何とかしなければならないのだ。
どうすればいいのか、今分からなくても、これからどうにかしなくてはならないのだ。
部屋に戻って、きくと二人になると「きくは母の話をどう思った」と訊いた。
「わたしには嬉しい話ですが、身分が違うので結婚することまでは考えていませんでした。もし、できたらとても嬉しいとは思いますけれど、自分のことはわきまえているつもりです」と答えた。
「現代では、身分は関係ないんだ」と言った。
「戸籍の話が出て来ましたが、それは重要なことなのでしょうか」と訊いた。
「重要だ。きくにとってもききょうや京一郎にとっても」と答えた。
「どうすればいいんですか」と訊くので「分からない」と答えた。
「でも、母の言うように、いずれはどうにかしなければならない問題であることには違いない」と続けた。
「そうですか」
僕ときくとの話はそこまでだった。
夏休みが終わった。
僕は賞状を持ってくるように、学校から前日電話があり、始業式に校庭でみんなの前で剣道のインターハイ男子個人優勝のことを報告された。もう、優勝してから、日が経っているので、僕には遠い昔のことのように思っていたが、知らなかった生徒も少なくなく、結構、この話題はまだ鮮度が良かった。
沙由理は次の土曜日にデートしようと持ちかけてきた。僕が忙しいと断ると、日曜日にして欲しいと言ってきた。仕方なく、日曜日に会うことにした。シティーホテルはなしだと釘を刺した。
部活にはあれからは、行ってなかった。富樫がやってきて、また五人相手の稽古を頼むように監督に言われてきたと言った。
これも、そのうちやると約束した。
土曜日の午前中にききょうと京一郎を小児科医のところに連れて行った。京一郎は一ヶ月ごとにする予防接種を受けた。ききょうは診察だけだった。京一郎は来月も来るように言われた。
その帰りにケーキ屋に寄った。きくは買って帰るものと思っていたようだったが、僕は店内に入り、昼食にもなるパンケーキを注文した。そこで食べるためだった。
ききょうの分も頼んだ。
きくはパンケーキを美味しそうに食べた。ききょうも小さくして食べさせると喜んだ。
京一郎だけが哺乳瓶を咥えていた。
良い家族なんだ、と僕は思った。
と同時に、黄昏れている場合か、僕は高二生なんだぞ、とも思った。
次の日、沙由理と会った。シティーホテルはなかったが、カラオケ店で濃厚なキスをした。沙由理の下着の中に手も入れた。高校生の間だけでも、この蜜の味は味わっておきたかった。
「次はシティーホテルだからね」と沙由理は囁いた。僕には抵抗する力はなかった。
月曜日に富樫に、水曜日に部活に出ると言った。五対一の稽古をするから、監督に伝えておいて欲しいと言った。富樫は喜んだ。
「そうか、伝えておくからな」と言った。
時を止めずに、五人を相手にする方法を考え付いたわけではなかった。だが、前のように面食らっているわけにもいかなかった。
そして水曜日が来た。
体育館の半分が、剣道部の練習場になっていた。あと半分はバスケット部が使っていた。
四十九人を相手にすることになる。
僕が入って行くと、引き締まった空気が流れた。
すでに順番は決まっていたようで、一人欠けてはいたが、五人ずつが十列に並び、僕と相対して、礼をした。そしてコートの向こうに走っていった。
最初の五人がコートに入ってきた。礼をして、開始線まで来て蹲踞をした。
「始め」と言う監督の声と同時に立ち上がり、全員が一斉に竹刀を振ってきた。
僕は右に飛び、とにかく、竹刀を横に振って、五人の竹刀に一度は竹刀を当てた。そうすると、相手の竹刀は弾かれて、体勢が崩れた。そこを次々と小手で仕留めていった。
右に跳んだ分だけ、左の者の竹刀の届く距離が長くなり、コンマ何秒かの時間が生まれた。今回は時を止めずに、五人と対戦することができた。
次の組もこの方法で、対戦できた。しかし、その次の組は、僕が右に跳ぶことを最初から考慮していた。だから、始めから右に跳ぶことを計算に入れて、踏み込んできた。だから、逆に左に跳んだ。凄い近いところで竹刀を弾いた。今度は左から右に竹刀を振って、弾いた。右の者はこっちに跳んでくるものと思っていたから、踏み込みが甘かった。全員の竹刀を弾いてから、小手を打っていった。
こうしてパターンを読まれないように、左右にフェイントをかけながら、竹刀を弾き、相手を崩してから、小手を打ちに行った。今日は、時を止めずに全員の小手を打つことができた。
稽古が終わると、富樫が寄ってきて、「お前の無反動は、さらに磨きがかかっているな」と言った。
「そうか」
「ああ、前に受けた時よりも、今日の方が衝撃が強かった。弾かれて、体勢を立て直すのに時間がかかった。その間に小手を打たれてしまった」と言った。
「そうなんだ」と僕は言い、それは対戦してみた者でなければ分からないことなんだな、と思った。きっと、時を止めたくないという思いが、より強く竹刀を弾こうという思いに変わったのだろう。
竹刀ケースの中の定国を触って、ありがとうよ、と心の中で言った。定国も僕の気持ちに応えてくれたのだ。
家に帰った。
きくが出迎えてくれた。
「今日は何か変わったことがあった」と訊くと「いいえ、いつも通りです」と答えた。その後で、「あっ、忘れていました。ダブルベッドのことを訊かれました」と言った。
「何て答えたの」と訊くと、「カタログとかいう見本を見せてもらって、どれがいいと言われたので、わかりませんと答えると、近いうちに展示場に行くからそこで見ましょうと言われました。京介様は見に行かなくてもいいのですか、と訊くと、あの子は何でもいいよ、と言うに決まってるわよ、とおっしゃっていました」と答えた。
はい、その通りです、としか言いようがなかった。ダブルベッドなんてどれも同じだと思っていた。
「きくが気に入った物であれば、俺はそれで構わない」と言った。
「わかりました」ときくは言った。
新しい家への準備も着々と進んでいるんだな、と思った。
そして、僕は長年溜めてきたエロ本も始末しなくちゃと思った。