小説「僕が、剣道ですか? 7」

二十三

 夏休みに入った。

 沙由理は、何かと誘ってくる。きくの存在には驚いただろうが、従妹がお従兄(にい)ちゃんを愛していると言っているのと変わらないのだと理解したのだろう。

 以前と何ら変わらなかった。まさか、ききょうと京一郎が僕の子だとは思わなかったからだが。それだけは、秘密だった。

 

 インターハイは八月の中旬で、四日間の日程だった。最初は開会式だけで、翌日は、男子個人が一回戦から四回戦までと女子の団体予選リーグが行われ、三日目は男子団体予選リーグと女子個人の一回戦から四回戦が行われ、最終日が、男子、女子共に個人準々決勝から決勝、そして、男子、女子の団体戦決勝トーナメント一回戦から決勝までがあり、その後閉会式となる。

 今年は東京が会場だった。国立体育館が使われることになった。

 地の利があった。だが、それは心理的なものに過ぎなかった。

 僕はインターハイに備えて、初めてと言っていいほど練習をした。

 相手は富樫だった。富樫ならどんな要求もできたからだった。

 倉持喜一郎がどこまで間合いを詰めてくるかを確認した。その最中に、最初の一本だけは取れることに気付いた。相手は、僕の無反動の竹刀の動きを研究してくるはずだった。そうだとすれば、最初はわざと無反動の竹刀を受けるだろう。当然、竹刀は弾かれる。そこで、時を止めるはずだ。体勢を立て直すためだ。時を止めている間は、こっちが動けないと思っているのに違いない。体勢を立て直して、小手を取れる一瞬前になって、時を動かすだろう。そうすれば、相手は小手が取れると思い込む。これで一本のはずだ。しかし、体勢を崩したときに、こっちが動けばどうだろう。時を止めても、こちらは逆に、不意をついて小手を取れる体勢になれる。その時に相手が時を動かせば、小手を取ることができる。

 しかし、これは一回しか使えない。次は、こっちも時が止められるか、止められた時の中を動ける力を持っていることに気付くはずだからだ。そうしたら、無謀に踏み込んでは来ないだろう。こっちの力を試すだろう。止めた時の中で、どれだけ速く動けるのか試すだろう。同じ技をかけた場合、相手の方が上回っているだろう。とすれば、残りの二本は相手が取ることになる。

 富樫に竹刀を握らせて、こちらが踏み込んで小手を取れる位置を何度も確認した。

 また、富樫に小手を打たせて、無反動の返しでどれだけ崩れるのかも試した。もちろん、富樫に無反動の返しが来ることを前提で竹刀を持つように言い、その上で試した。

 やれることはやった。後は、実際に相対してみるしかなかった。

 

 僕がリビングの椅子に座っていると、きくがお茶を入れてくれた。

「きく、普段はどうしている」と僕は訊いてみた。

「お母様に言われて、ひらがなとカタカナと数字とお金の勘定の仕方を覚えています」と答えた。

 僕はひやりとした。そうだ。きくは現代の学校に行っていなかったのだ。前に来た時には、江戸時代に連れ帰るつもりでいたから、教えなかった。しかし、今では必要じゃあないか。

「何で覚えている」と訊くと、「ちょっと待っていてくださいね」と言って、きくが持ってきたのは、小学低学年用の少し分厚い参考書だった。それと、ひらがなノートにカタカナノートだった。それにぎっしり、ひらがなやカタカナが書かれていた。

「お母様と買物に行った時に、買ってもらいました」と言った。

「ひらがなとカタカナは読めるのか」と訊くと、「はい」と答えた。

「漢字はどうだ」と訊くと、「数字とお金の単位は教えてもらいました」と言った。

「単位なんていう言葉、よく分かるね」と言うと、「その意味も教えてもらいました。お金の単位がわからないと、買物ができないそうですから」と応えた。

「なるほど」と思ったが、インターハイのことばかり考えている訳にはいかないぞ、とも思った。これから、きくに教えていくことは山のようにある。それをどうしたらいいのだろう。

 小学低学年用の参考書をきくに見せて、「これは読み終えたの」と訊いた。

「はい」と答えた。

 きくの参考書を広げて見た。書き込みがしてあった。母の字もあった。きくにとって必要な部分だけ、読むように指示がされていた。小学生の参考書といっても、生活に必要な事柄だけを覚えればいいのだ。だから、母はそこだけを読むように、参考書に書き込むことできくに伝えていたのだ。そして、参考書は確かに読んだ形跡があった。

「じゃあ、次は高学年用の参考書がいるな」と僕は呟いた。今度は僕が書き込みを入れる番だ。

 寝室にいた母に、きくを連れて出かけることを告げて、ききょうと京一郎の面倒を見て欲しいと頼んだ。

「これから出かけるんですか」ときくが言った。

「そうだよ」

「服を着替えてきてもいいですか」と言うので「いいよ」と言った。

 僕も着替えた。きくは白いパンツルックの服装にした。

「これは京介様と一緒のときに着ようと思っていました」と言った。

 

 新宿に出た。大きな書店に向かった。

 きくの服装は、白だったが目立った。すれ違って、振り返る人が何人もいた。

 書店に入ると、小学生の参考書コーナーに行った。

 沢山の参考書が並んでいた。大部分は学年ごとにしかも教科書ごとに分けられていた。しかし、そうではなく、小学低学年用と高学年用とに分けられている棚もあった。きくの持っていた参考書も見付けた。その高学年用もあった。僕は手にした。四年から六年にかけて覚えることを、教科ごとに区切って書かれていた。ざっくり言って、必要なのは、国語と算数だけだった。慣れもあるから、その高学年用の参考書は買うことにした。その他に、国語と算数の参考書と漢字ドリルも買った。

 書店を出ると、文房具店に行った。ノートとシャープペンを買うためだった。

 ノートは大判の物にした。シャープペンは芯が太いのにした。それと四色ボールペンと消しゴムと何種類かの付箋も買った。

 文房具店を出たところに、デザート店があった。どうしても誘惑には勝てずに、シュークリームを四つ買った。

 

 家に帰った。母はリビングで、電化製品のカタログを広げながら、ききょうと京一郎の面倒を見ていた。

 買ってきた物は、三階に行き僕のパソコンデスクに置いた。それから、二階に下りていき、テーブルに置いたシュークリームを食べることにした。

 きくには、僕はお茶ではなくコーヒーを入れるように言った。

 きくと母はお茶にした。箱からシュークリームを取り出し、皿に載せて、それぞれの前に置いた。

 僕はきくに着替えてくるように言った。

「どうしてですか」と訊くから、「後で分かるよ」と答えた。

 きくは着替えに行った。

 母は僕に「食べ方はちゃんと教えるのよ」と言った。

「そのつもりだけれど」と僕は言った。

 そして「念のためにね」と続けた。

 きくが着替えてくると、「いただきます」と言って、シュークリームを手づかみで食べた。きくは僕の食べるのを見ていた。

「フォークは使わないんですか」と訊いた。

「そういう食べ方もあるけれど、こうやって食べるのが美味しいんだよ」と答えた。

 きくも真似して食べた。すると、中のクリームが飛び出した。服にこそ、つかなかったが、皿にこぼれた。

「思い切り噛むとそうなるんだよ。だからゆっくりと噛むんだ」と僕は言った。

「最初からそう言ってくれればいいのに、意地悪ですね」ときくは言った。

「シュークリームは何度か食べるのに失敗するのも経験だから」と僕は言った。

「でも、これ美味しいですね」ときくは言った。

「そうだろう。デザートの中でも僕の好きな物の上位を占めている」と言った。

「他に何があるんですか」ときくが訊いた。

「ティラミスとかチョコレートケーキとかショートケーキ」と答えた。

「ショートケーキは知っています。あれも美味しいですよね」と言った。

 きくはシュークリームを食べ終えると、さらにこぼしたクリームはスプーンで掬って食べた。

 

 きくが皿を片付けている間に僕は三階に上がっていき、今日買ってきた物を出した。

 付箋を取り出して、覚えておかなければいけない範囲が分かるように、参考書に付箋を貼った。

 そのうちにきくが上がってきた。

「今度は京介様が教えてくださるんですか」と訊いた。

「ああ」と答えた。

 きくは首に抱きつき、「嬉しいです」と言った。