三十四
その日が来た。
朝早くに目が覚めた。風車も同じだったろう。
昨日に増して、風車は落ち着きがなかった。それは当然だった。
僕も、朝餉を食べたが、何を食べたか覚えてはいなかった。
午前中に使いの者が来るはずだったが、それを待つのが長かった。
僕は一体、何度、今日着て行く物を点検したことだろう。
何よりもお金だった。
寝室の押入れを開けて、ショルダーバッグの中の千両箱を取り出すと、包み紙に包まれている金子を三百両、巾着に入れた。もう一つの巾着には別に百両を入れていた。このお金も何度も数え直した。
きくを見た。きくは落ち着いているように見えた。ききょうに冷めた白湯を飲ませていた。
門を叩く音がした。午前十時頃だった。
腰が浮いた。しかし、我慢した。風車も隣に立っていた。
きくが門の戸を開けた。そして、僕を呼んだ。
僕は風車の袖を掴んで、一緒に玄関に向かった。
そこには店の小僧がいた。
店の小僧は「まずはおめでとうございます」と言った。僕らも「ありがとうございます」と返した。
「今日は未の初刻(午後一時)に来て頂くようにと言われて来ました」と言った。
「未の初刻ですね」
「はい」
「分かりました。必ず、その時刻までにお店に伺います、と伝えてください」と言った。
「はい。ではそのように伝えます」と小僧は言った。店の小僧に駄賃を渡して帰した。
僕は振り向いて、「未の初刻ですよ」と言ったら、風車が頷いた。
未の初刻と言えば、真っ昼間だった。それは夕方からの客入れに支障がないようにしたからだろう。
昼餉は食べないことにして、それをきくに告げた。
正午前には、船着き場に行っていなければならなかった。舟が混んでいるということも考えなければならなかった。
着替えるのには、時間がかからなかった。しかし、鏡の前に立ってはあっちを直し、こっちを直し、していた。そして、お金もまた、数え直した。落ち着かなかった。
風車はもっと落ち着かないことだったろう。
何度も厠に行っていた。
そして、時間が来たので、草履を履いた。これも新しく買っておいた物だった。
風車が来たので、玄関を出ようとしたら、きくが火打ち石を打った。
僕は頷いてから「行ってくるよ」と言った。
船着き場は、それほど人がいなかった。
すぐに舟に乗れ、向こう岸に渡った。
岸に着くと、船着き場を管理している者に、事情を話し、一艘は風車とみねだけ乗せてやってくれないか、と言った。
「空いていれば、よござんすよ。でも、混んでいるときは、ご勘弁くださいね」と言った。
「分かった」と僕は言って、船着き場を離れた。
未の初刻までには、まだ時間があった。浅草で浅草寺にお参りをし、お守りを買った。
それから吉原に向かった。まだ、少し時間は早かったが、高木屋の暖簾をくぐった。
座敷に通され、店の者が来て、お茶が出された。
僕らは湯呑みを口にした。喉がカラカラだった。
しばらくして、高木五兵衛が現れた。
僕らは、座布団から降りて、頭を下げた。
高木五兵衛は「まあ、まあ」と言った後、「座布団にお座り直しください」と続けた。
僕らがそうすると、それを待っていたかのように「今日はお日柄もよく……」と口上を述べ始めた。僕はしまったと思った。口上を考えてきてはいなかったのだ。
「縁あって、風車大五郎殿に鈴蘭を身請けさせることができることを嬉しく思っています……」と口上は続いた。そして、最後に「何とぞ、よろしくお願い申し上げます」と言って頭を下げた。
僕らも頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いします。無事、身請けすることができましたら、鈴蘭ことおみねさんを、風車殿はきっと幸せにしてくれるでしょう」と僕は言った。それしか言えなかった。
「では、身請けに必要な事柄を早速、始めましょう」と高木五兵衛は言った。
「約束の金子はご用意、頂いているのでしょうか」と訊いたので、僕は巾着を取り出し、「はい、この中に入っております」と言って、巾着から包み金を取り出し、卓の上に並べた。
「検めさせて頂きます」と高木五兵衛は言って、その包み金を破って、中の小判の数を数えた。それを見ていると、包み金を装って、金額を誤魔化す者がいるんだな、と思わされた。
しばらくして、「確かに三百両ございました」と言った。
「では、お受け取りください」と僕が言った。
高木五兵衛は三百両を箱の中にしまうと、「これが、身請けの時の証文とそれからこちらが今回の次第を書いた念書です。お検めください」と言った。
僕は証文と念書を受け取ると、それに目を通した。達筆な字で書かれているが故に、僕には、半分ほどしか読めなかった。
読んだフリをして、風車に渡した。
「どうですか」と僕が風車に訊いた。風車は頷きながら、「これでいいです」と言った。
「では、身請けについてはこれで成立したということでいいですね」と高木五兵衛は言った。
「はい」と僕と風車が同時に返事をした。
「それでは鈴蘭を呼びましょう」と高木五兵衛が言い、「こちらへ」と言って玄関の方に向かわせた。
玄関の上がり口にいると、二階から白地に銀色の花柄の入った着物を着た鈴蘭こと、みねが下りてきた。まるで、白無垢を着ているようだった。
この時ばかりは、綺麗に見えた。
鈴蘭こと、みねが階段を下りると、風車が手を差し出した。そして、みねの手を握った。
「さぁ、行こうか」と言う風車の声が聞こえてきた。
みねの後ろには行李を担いだ小僧がついてきた。
風車が先に草履を履き、みねが下駄を履くのを手助けした。二人は手を繋いだままだった。
僕も草履を履いた。その間に、馴染みの女たちがみねに声をかけていた。みねは「ありがとう」と返していた。
支度ができると、二人が店の方に向き直り、頭を下げた。誰かの「よぉー」と言う声がして、三三七拍子が打たれた。
高木五兵衛も草履を履き、二人の前に立った。
「吉原を出て行くまでは、わたしが先を歩きますから、ついて来てください」と言った。
僕らが店を出る時、女将さんが火打ち石を打ち鳴らした。その時も女たちが、みねに声をかけた。みねは黙って頭を下げた。
吉原の通りは、まだ人は疎らだった。だから、僕らは目立った。
高木五兵衛が先頭を歩き、その後ろに手を繋いだ風車とみねが続いた。そして、僕がその後を歩き、最後に行李を背負った小僧がついてきた。
高木五兵衛はゆっくりと歩いた。窓という窓から女たちの顔が見えた。そこには、羨ましさや悔しさが渦巻いていたことだろう。祝福する者もいたかも知れない。
日は天高く輝いていた。黒々とした影が足元に落ちていた。
吉原の門までが長かった。
しかし、永遠はない。やがて、門に辿り着いた。
みねは高木五兵衛に頭を下げて、「お世話になりました」と言った。
高木五兵衛は「もう、戻ってくるんじゃないよ」と言った。そう言われると、みねは涙ぐんだ。そして、はっきりと「はい」と応えた。
ついにみねは吉原の門を越えた。
その時、よろめくように風車に抱きついた。気を張っていたのだろう。
風車はしばらく、その肩を抱き、そして離して歩き始めた。
これからが二人の一歩一歩なのだと僕は思った。