三十
風車は、歩くのに支障がなくなってからは、遠くまで歩いて行った。歩くことから躰を鍛え始めていたのだった。
畑の草取りもしてくれた。
そして、怪我を負ってから一月が経った。僕は医者ではないから、風車の躰がどうなっているかは分からなかった。まして肋骨のひびが治っているのかどうかなんて、分かるはずもなかった。しかし、約束だから、これで床上げをした。そして、五十両を渡した。
風車は渡された五十両をじっと眺めていた。
「行きたいですか」と訊いたら、黙って頷いた。
「好きにすればいいですよ」と僕は言った。
昼前に玄関を出て行く風車を見た。
僕は黙って見送った。五十両も持っているのだ。当分帰ってこないだろう、と思った。
だが、五日ほどして風車は帰って来た。
おやつ前だった。
風車は奥座敷に僕を呼び出して、いきなり畳に手をついて頭を下げた。そして「おみねを身請けしたいのです」と言った。
「それには三百両必要なのです。鏡殿、どうか、一生のお願いです。その三百両をお貸し願えませんか」と続けた。
予想はしていた。鈴蘭こと、みねに会った時から、吉原で働くよりも普通の女として家庭を築いていくタイプだと思った。風車には、お似合いだとも思った。
だが、いざ身請けの話になるとどうしたらいいものか、まるで分からなかった。三百両を貸すというよりも、風車にあげることに何の異存もなかった。それで、風車が幸せになるのなら、それで十分、お金は活かされるのだ。
「分かりました。しかし、どうすればいいのか、分からないので、明日、高木屋に行きます。そこのご主人と話し合うということでどうでしょう」と言った。
「ありがとうございます。そうして頂ければ、話は進むと思います」と風車は言った。
そして、そう言うと、立ち上がった。
「どう、されるのですか」
「これから高木屋に戻ります。このことをおみねに伝えたいのです」
「そうですか。ところで、高木屋のご主人の名は何と申されますか」と訊くと、「高木五兵衛殿です」と答えた。
「分かりました」と言うか言わないうちに、風車は立ち上がり、玄関に向かった。
高木屋を出る前には、この事を話し合っていたのに違いないのだから、事の次第をみねに早く伝えたいのだろう。
僕が玄関に出た時には、もう門の外に出ていた。
おやつの饅頭を食べながら、きくに風車のことを話した。
「そうなんですか」と言った。
そして、「遊女が身請けされるのは、一種の夢ですからね。しかも、風車様のような堅物の人に身請けされるのですから、いい話ではありませんか」と続けた。
「そうか。そう思うか」と僕は言った。
どうなるのかは分からないが、ここは風車の好きなようにさせてやろうと思った。
次の日、昼前に吉原の高木屋に向かった。
店に入り、出て来た女に用件を伝えると、奥に通してくれた。
座敷で待っていると、主人がやってきて座った。
そして「高木五兵衛でございます」と頭を下げた。
僕も、「鏡京介と言います」と言って頭を下げた。
お茶が出された。
「どうぞ」と言われたので、一口飲んだ。
相手は分かっているのだが、「御用向きは」と尋ねた。
「風車殿に関わることで、ここに鈴蘭という女がいますよね。風車殿が彼女を身請けしたいと言い出しましたので、私がこうして話をつけにやってきました」と言った。
高木五兵衛は僕をじっと見て、「鏡京介様と言われましたな。それにしてもお若いですな」と言った。
高木五兵衛は老獪だった。一口話すごとに「どこのご出身ですか」とか「何をされているのですか」とか、関係のないことを細かく訊いてきた。
「端的に話してください。鈴蘭さんを身請けしたいと言っているのです。どうすればいいのですか」と僕は言った。
高木五兵衛はややこしいことをあれこれ言ったが、それは身請けに伴う言わば儀式のようなもので、僕には関係のないことだった。
「つまりは、三百両を用意すればいいのですね」と僕は言った。
「はい」とついに高木五兵衛は言った。
「その金をここに持ってきたときには、どうするんですか」と訊いた。
「わたしが三百両を受け取り、借金の証文をお渡しします」と言った。
「それだけでは、不服です。風車大五郎殿が鈴蘭ことみねを身請けしたという念書をお書きください」と言った。
そう言うと高木五兵衛はふと笑いを漏らして「お若いのにしっかりしていますな。承知しました。証文と一緒にお渡しします」と言った。
「身請けには身請けの段取りがあるので、それはこちらに任せて頂きます」と続けた。
「そのあたりはお願いします」と僕は言った。身請けの段取りなど、僕にできるはずもなかったからだ。
「その間はどうなりますか」と僕が訊くと、「そうですね。一度、風車殿にはお帰りになられて、五日ほどしたら、使いの者をやりますから、風車大五郎殿と鏡京介殿が一緒に来て頂けますか。その時に、三百両はお忘れなく」と言った。
「五日もかかるんですか」
「鈴蘭が世話になった人に挨拶をする時間ぐらい与えてくれませんか。この吉原でもけっこうな人数になるんですよ。それに鈴蘭にも外のことを教えたいと思いますし」
「そういうことなら、分かりました」
「その時には、普通の着物を着た鈴蘭が吉原の門をくぐり、おみねになってここを出て行ってもらいます。それは華やかな光景ですよ」と言った。
僕にも見えるようだった。
座敷を出て玄関にいると、しばらくして風車が二階から降りてきた。鈴蘭も一緒だった。
風車に「話はつきました」と言った。風車は頷いた。
僕は鈴蘭に向かって、「後五日ほどの辛抱です。今日は、風車殿を連れて帰ります」と言った。
みねは「いろいろとありがとうございました」と頭を下げた。
玄関を出る時、風車とみねの手は離れ難いようにつなぎ合った。そして、その手が解けた。
僕は、店の中に視線を向けている風車を引っ張るようにして、外に出た。
道々、高木五兵衛と話したことを、風車に告げた。
一つ一つ噛みしめるように、風車は頷いていた。
浅草で、きくの好きな饅頭と魚を買うと、船着き場に向かった。
風車は大きく溜息をついていた。
「五日ですよ。そうすれば晴れて身請け人になれます」と言った。
言ってから、「身請けすると言っても、その後どうすればいいのだろう」と呟いた。
それを聞いた風車が「わたしとみねで離れに住まわせてください。それだけで結構です」と言った。
みねが離れに住むのは構わないのだが、風車はみねとどう暮らしていくのだろう。夫婦になる気はないのだろうか。
気にはなったが、いろいろ考えてもしょうがないことだった。