小説「僕が、剣道ですか? 6」

二十六

 僕は道場内の床に座ると、襷(たすき)を借りた。着物の袖を襷にしまった。

 そして、木刀も選んだ。中が空洞の物を渡されても困るからだった。振ってみて、手にしっくりした物を選んだ。

 そして、そっと腰から二本差を取る時に、定国を握った。定国から帯磁した光が僕の右手に移ってきた。それで木刀を握ると、帯磁した光は木刀に流れ込んだ。もう、この木刀はただの木刀ではなかった。真剣で切ろうとしても、傷つけることすらできないだろう。そして、この木刀が触れたものはことごとく粉々になる。そうなるように念じた。

 僕は、足元に刀を置き、襷掛けした着物に、木刀を持って、道場の中央に進んだ。

「おぬしが言い出したことだぞ、いいんだな」と柳沢輝元は言った。

「武士に二言はない」と僕は言った、僕は武士だったっけ、と思いながら。

「これだけの人数を相手にするのだ。手加減はしない」と僕は言った。

「それはこちらもだ」と熱田が言った。

「結構だ。手加減されても困る。これから、おぬしたちを二度と刀が持てない躰にするつもりだからな」と言った。

「何だと」と熱田が言った。

「言った通りだ。二度と刀は持てなくする」と僕はもう一度言った。

「言ったな」と熱田は言った。

「言葉通りだ。だから、手加減は無用。命だけは取らない」と僕は言った。

「こっちも手加減はしない。六対一だということを忘れているんじゃないのか」と熱田は言った。

「声が震えているぞ。六人いようと何人いようと同じだ。周りで見ている門弟たちよ。剣は人数ではないことを目に刻んでおくことだ」と言った。

「門弟に口出しをするな」

「これは余計なことだったかな。さぁ、いつでもいいぞ」

 僕は中段に木刀を構えた。その先には、熱田がいた。背後には、松原がいた。六人の位置関係が、すべて見透せていた。不思議な感覚だった。上から見ているようだった。

 静かだった。時が静止しているように感じた。

 柳沢輝元の「始めい」と言う声が、道場に響いた。それで静寂が破られた。

 最初に反応したのは、松原だった。僕の背後にいたのだから、僕の背中を打つだけだったからだ。

 松原は腰が引けているから、木刀だけが伸び切っていた。これなら、風車が勝つのは、当然だった。

 松原の木刀をかわすのは、容易かった。そして、素早く右肘を木刀で叩いた。骨が砕ける感触が木刀を伝わって来た。その隣にいた者も松原に一瞬遅れて、木刀を突き出していたが、それも簡単に避け右肘を砕いた。

 まるで、時が止まっているかのような感覚に陥った。相手がスローに見えた。

 左右の者の右肘は木刀に隠れて、直接には見えなかったが、その木刀をかわすと、目の前に肘が見えた。これも左右に木刀を振るだけだった。僕の振った木刀は誰の目にも止まらなかっただろう。

 二人の肘が砕けた感触は、木刀を伝わってはっきりと分かった。

 前の二人は、もう踏み込んでいて、木刀は僕に達しているはずだった。だが、僕はそれを右に左にと避けた。遊んでいるかのようだった。彼らとの力の差は、明らかだった。

 彼らの木刀が伸び切ると、肘が露わになった。これも左の者の肘を砕いてから、最後に熱田の肘を砕いた。

 彼らは、僕の木刀にかすることもできなかった。すべてが終わるのに、二秒とかからなかっただろう。僕の木刀がどう振るわれたかを見ることができた者はいなかっただろう。

 右肘を抱えて蹲る者、床に這う者、倒れ込む者。六人それぞれが立ってはいられなかった。

 僕は、柳沢輝元の方を見た。

 柳沢輝元は腰を引いた。信じられないものを見たという顔をしていた。

 僕は自分が定国を置いたところに戻ると、襷掛けを外した。そして、木刀を強く握ってから、定国を掴んだ。木刀に籠もっていた帯磁した光は定国に戻っていった。定国が唸った。

 僕は、襷を置き、二本差を帯に差すと、柳沢輝元の前に歩いて行った。

 柳沢輝元は動けずにいた。

「さぁ、邪魔者はいなくなりましたから、奥でちゃんとした話をしましょう」と言った。

 柳沢輝元は反射的に頷いた。

 

 奥座敷の卓袱台の上には、二十両が載っていた。

「これだけですか」と僕は言った。

「これで不服ですか」と柳沢輝元は言った。

「不服です」と僕ははっきりと言った。

「昨日までなら、これで済んだでしょう。でも、風車殿は大怪我を負ったのですよ。一月は動けないんです、治療費も嵩むんですよ」と続けた。

「なら、いくらなら」と柳沢輝元は言った。

「五十両出してもらいましょう」と僕は言った。

「五十両ですと」と柳沢輝元は言った。

「聞こえなかったのですか。だったら、百両にしましょうか」と僕は言った。

「わかりました。わかりましたよ。五十両ですね」と柳沢輝元は、傍らに置いてある手金庫から、もう三十両出して来た。

 僕は、それらを受け取ると金額を数えた。一つは包み金になっていたが、他はバラバラだったからだ。

「これでいいですね」と柳沢輝元は言った。

「いや、まだです。盗まれたと申し立てられても困るので、このお金の出処を一筆書いてもらいましょう」と言った。

「そこまでしなければならないのか」と柳沢輝元は言った。

「私は念には念を入れるたちですからね。それで、生き延びてくることができた」と言った。

「わかりましたよ」と柳沢輝元は言うと、硯を取り出し墨をすって、筆で紙に念書を書いた。

 僕は、それが書き上がると受け取って読み「これでいいですね」と柳沢輝元に念を押して、お金を巾着に入れ、念書と一緒に懐にしまった。

「わたしがこれで黙っているとお思いですか」と柳沢輝元は訊いた。

「お上に訴えるんですか。どうぞ。恥を晒すだけですよ」と僕は言った。

「鏡京介殿。あの噂は本当だったんですね」と柳沢輝元は言った。

「どの噂か分かりませんが」と訊き返すと、「黒亀藩のこと(「僕が、剣道ですか? 2」参照)です」と言った。

「ああ。どう伝わっているかは分かりませんが、二十人槍のことや氷室隆太郎殿とのことは本当ですよ」と言った。

 そして「二十人槍を相手にするのなら、六人なんて楽なもんですよ」と続けた。

 

 柳沢道場を後にしたのは、昼餉時を少し過ぎていた。

 神田で、蕎麦屋を探して、つけ蕎麦を三枚食べた。

 

 両国に出たので何か買って帰ろうとしたが、羊羹ぐらいしか思いつかなかったので、それを包んでもらって、家に向かった。

 門を叩くと、きくが開けてくれた。そして、抱きついて来た。

「良かった、ご無事で」と言った。

「無事に決まっているじゃないか」

「そうは思っても、悪いことしか頭に浮かばなくて……」ときくは言った。

 きくに羊羹を渡して、「おやつに」と言った。

「はい」

「風車殿はどうしている」

「変わりありませんわ」と言ってから、僕の肩に手をかけて、「そんなにすぐに良くはなりませんよ」と言った。

「そうだよな」

「ええ。羊羹を食べながら、今日あったことを話してくださいますか」ときくが言った。

「分かった。話そう」と僕は言った。

 

 お茶を飲みながら、「そうですか。それは大変でしたね」ときくは言った。

「でも、五十両もせしめてくるなんて京介様らしいですね」と続けた。

「風車殿の怪我に比べれば、安いものだ。五十両については、私から言うから」と言った。

「わかりました」

 

 その後で離れに行った。風車の顔の腫れは、当然のことだが、まだひいてはいなかった。心の中で、敵は取ってきましたよ、と言った。