十五
昼餉にききょうのお粥を作っているつもりだった。そのお粥に卵を落として、ききょうの分を取り分けた後で、醤油で味付けしたら美味しかったので、僕も食べた。ききょうも取り分けた分は沢山食べた。少しだけ、僕の分も混ぜて食べさせた。
昼餉をとらせると、寝室に行き布団を敷いて、ききょうを寝かしつけていたが、そのうち僕も眠ってしまった。
浅草から戻ってきた、きくに起こされた。
「よく眠っていらしたわ」と言った。
僕は起き上がると、「ききょうは」と訊いた。訊くまでもなかった。きくが「隣でよく眠っていますわ」と言うように、隣で眠っていた。
「浅草は賑やかだったろう」
「はい」
「風車殿はどうされたんだ」
「鍛冶屋に寄ってくるとかで、船着き場まで送ってもらい別れました」
「一人で舟に乗って怖くはなかったか」
「いいえ」
「そうか」
「後で、買ってきた饅頭を食べましょうね」
「そうしよう」
風車は鍛冶屋で刀を鍛えてもらっているのだろう。江戸のことだ。仕事は早いだろう。そうすれば、今夜が山場だな、と思った。
風呂を焚く時間にも風車は戻ってこなかった。僕が風呂に火をつけるしかなかったが、風車のように上手くつけられなかった。庖厨の竈から火のついた炭を持ってきて、ようやく風呂の釜に火をつけることができた。
風呂が沸いた頃に、風車は戻ってきた。
「今、風呂が焚けたところです。一緒に入りましょう」と僕が言うと、「わかりました」と言った。
風呂では、いつも饒舌な風車の言葉が少なかった。気を高めているのだろう。それは夕餉の時も同じだった。
夕餉が終わると、風車はすぐに離れに行った。
「一局やりましょう」と言わなかったのは、珍しかった。
僕はききょうを抱いて、寝室に向かい、布団を敷いた。布団の上で、ききょうにはいはいをさせて遊んだ。
きくは洗い物をしているのだろう。
妙に張り詰めた時間が流れていた。
ききょうは何度もはいはいをして疲れてきたのだろう。座らせようとすると、目を閉じて転びそうになる。そのまま、布団に横にして、抱き上げて真ん中に寝かせた。
僕もその隣に横になり、ききょうの寝顔を見ていた。
そのうちに眠くなり、布団を掛けて眠った。
いつ、きくが布団に入ったのかは知らなかった。冷気が漂ってきて、目覚めた時には、布団の中に僕はいた。
きくはよく眠っているようだった。
布団から出て、障子戸をそっと開け廊下に出ると、女がいた。すぐに手を引かれた。女に従って、そのまま奥座敷に入って行った。
女が抱きついてきた。
僕もその躰を抱き締めた。そして、そのまま畳に崩れるように横たわった。
女の唇が僕の唇と重なった。
女の舌が入ってきた。痺れるような感覚に囚われた。
その時、奥座敷の障子戸が開いた。
驚いて、そちらを見ると、きくと風車がいた。風車は鞘から刀を抜いていた。
女は僕の後ろに隠れた。
きくが叫んだ。
「京介様、幽霊からお離れください」
僕はどうすることもできずにいた。
きくは奥座敷に入ってこようとした。その時、よろめいた。転びそうになった。僕は咄嗟にきくに向かい、その躰を抱き取った。
その瞬間、風車の刀は振り下ろされた。
女の霊は、叫び声を上げて消えた。
僕はきくを抱き取った時に、きくに背中に御札を貼られた。その瞬間に、金縛りにあったような感じになった。と同時に意識がなくなっていった。
なくなる意識の中で「幽霊を切りましたぞ」と言う風車の声を聞いた。
次の日、僕は遅くまで眠っていた。
「もう、お昼ですよ」ときくに言われて、僕は起きた。その躰をきくが抱き締めた。
「ようございました。京介様がご無事で」ときくは言った。
僕は起き上がると、浴衣から着物に着替えた。そして、井戸場まで行き、顔を洗った。
居間に入ると、昼餉の用意がされていた。
僕が座ると、風車が上機嫌で「よく眠れましたか」と訊いた。僕は黙って頷いた。
「そうですか。それは良かった」と言った後、豪快に笑った。
「朝餉を食べていないのだから、お腹が空いたでしょう」と、きくが大盛りのお茶碗を僕に差し出した。
僕はそれを受け取ると、箸を付けた。
「昨晩のことは、覚えていないのですか」と風車が訊いた。
「昨日、何かありましたか」と僕は訊き返した。すると、風車が昨日あった出来事を話そうとした。その時、きくが「風車殿」と言って止めた。
僕はご飯を口に運んだ。
ご飯を頬張りながら、昨日あったことを僕は思い出していた。
奥座敷に、僕は女と横たわっていた。そして口づけをしていた。
その時、奥座敷の障子戸が開いたのだった。僕が首を向けると、まずきくが見え、そのすぐ後ろに風車がいた。風車は抜き身の刀を手にしていた。左手に鞘を持っていた。
女は驚き、僕の後ろに身を隠した。そんなことをしても隠しきれるものではなかった。
「京介様、幽霊からお離れください」と言うきくの声がした。風車は一歩、座敷内に入り込んでいた。僕がどけば女の霊を切るのは、明白だった。そのために、浅草寺に行き、刀を浄め、その帰りに刀を鍛え直してきたのだろう。風車の持っている刀なら、霊は切れる。
僕は時間を止めた。考える時が欲しかった。
女を見た。怯えていた。
「大丈夫だ。あやめを切らせることはしない」と僕は言った。そして、女に、風車が刀を振り上げるまで待てと言った。怖いだろうが、そうしろと言った。そして、振り下ろされる時、僕が時間を止めるから、その直前に叫び声を上げて、消えるんだと言った。そして、あやめが消えたことを確認したら、刀が振り下ろされる時に、時を動かす。
そうすれば、風車は幽霊を切ったと思うに違いない。そして、きくもそう思うだろう。
僕はその後で、女が切られていないか、確かめるつもりだった。しかし、誤算があった。きくを抱き取った時、僕は御札を背中に貼られてしまった。それで、時を止めることができなくなった。女が切られていないか、確認することができなくなったのだ。
きくは奥座敷に入ってこようとした時、よろめき、転びそうになったのは、僕を女から引き離すためだけでなく、僕の背中に御札を貼るためだったのだ。
風車の刀が振り下ろされた瞬間は、まだ御札は僕の背中に貼られていなかった。その僅かな間に、僕は時を止め、風車の刀から女を逃がした。その直前、女は叫び声を上げて、闇に消えていった。
時を動かすと、きくを抱き取った僕は、きくから背中に御札を貼られた。もう、僕はどうすることもできなくなっていた。全身の力が抜けていくのが分かった。と、同時に意識が薄らいでいった。その中で「幽霊を切りましたぞ」と言う風車の声を聞いたのだった。
女が逃げた後だと知っていた僕は、そのまま意識を失った。
昼餉を食べ終わると、僕はきくに「もう一眠りする」と言って、着物から浴衣に着替えた。