小説「僕が、剣道ですか? 6」

 布団に入ると、ふわふわとしていた。宿の布団は皆、煎餅布団のようなもので背中がゴツゴツとしていた。それに比べれば大した違いだった。

 ききょうを真ん中にして寝た。行灯の火を消してから、布団に入ってきたきくの手を僕は握った。きくは鼻を啜っていた。

「どうしたんだ」

「嬉しいんです。このような日が来るなんて夢にも思ってもみなかったものですから」

「だが、広い家だから、掃除が大変だろう」

「そんなの苦になりませんわ」

「そうなのか」

「そうです」

「今日は疲れたろう」

「少し疲れましたが、こんなの平気です」

「それなら明日は家具やその他の必要な物を見に行こうか」

「ええ、そうしましょう」

 

 眠っていると、冷気がすうっと首元に漂ってきた。それで起きた。

 目を開けると、白い着物を着た女が立っていた。

 女が手招きをした。きくを起こさないように布団を抜け出すと、寝室から奥座敷に女は向かった。奥座敷の中に入ると、行灯がついていないのにもかかわらず、ぼうっと薄明るい。

 隅に置いてある座布団を僕のと女の分を取って、渡した。女は座布団には座らず、畳に手を突いて頭を下げ、「あやめと申します」と言った。

「いずれあやめかかきつばたのあやめか」と言うと、女は「はい」と答えた。

 諺の通り、女は美しかった。とりわけ目が大きかった。この時代では、細目の方がもてるだろうが、現代では断然、目が大きいことは美人の一つの要素だった。

 そして、長くつやつやとした髪をしていた。

「霊か」

「人は幽霊と呼びます」

「そうか」

「あなた様はわたしが恐ろしくはないのですか」

「こんな美人の霊なら、歓迎さ」と僕は答えた。他に答えようがなかった。

「あなた様は不思議な人でございますね」

「よく言われる」

「わたしは十年ほど前に両国の呉服問屋に女中として雇われました。そして、その店の若旦那と恋仲になったのです。しかし、若旦那は女房持ちで、その若女将がひどい焼餅焼きなのです。それで、わたしは呉服問屋から追い出されました。しかし、わたしのことを好いていた若旦那はわたしを手放すのが惜しく、当時売り出されていたこの屋敷にわたしは住むことになったのです」

「なるほど」

「それから二年間あまりは、六曜に一日はここに訪れてくれました。しかし、その二年間の最後の年にわたしが胸の病に罹ると、うつることを恐れてもう訪ねてきてはくれませんでした。わたしは一年間、病に苦しみました。そして、窶(やつ)れていきました」

「…………」

「若旦那には未練はありませんでしたが、このままこの家で朽ち果てていくのかと思うと、生きていく気力が失われたのです。わたしは死のうと思いました。夏に向かう今時分の時です。暗い寝室では嫌でしたので、奥座敷に来て、雨戸を開け、障子戸も開けて光を受けました。そして、剃刀で喉を切ったのです」

「…………」

「凄く血が飛び散りました。そして、痛みも尋常ではありませんでした。わたしはもがき苦しみました。死ぬことを覚悟して、喉を切ったのに、死に至る間に、こんなに若くして死ぬことの無念さが身を包んだのです。すると、身と魂が別れたのです。身はそのまま息絶えましたが、魂はこの世に残ってしまったのです。わたしは陽の光を浴びると焦げ付くように痛みを感じるので、物陰に隠れました。そして、陽の光の届かぬ女中部屋に逃げ込んだのです」

「…………」

「それからどれくらい経ったでしょうか。若旦那は店の者を遣わして、わたしの様子を見に来させました。店の者はわたしが奥座敷で死んでいるのを見ると、腰を抜かしました。ほうほうの体で店に戻ると、事の次第を若旦那に報告したのです。その翌日、わたしの遺体は荼毘(だび)にふされて、ある寺の無縁墓地に葬られました。そして家財道具は一切、焼き捨てられました。焼けない物はどこかに捨てられたのでしょう」

「…………」

「それから三年間、代わる代わるこの家を借りに来る人がいました。しかし、わたしの姿を見ると恐れをなして、すぐに引っ越してしまうのです。何度、そのようなことが起きたでしょう。わたしもわたしなのです。黙って、借りてくれた人のことを見ていれば良いのに、つい、話しかけたくなってしまうのです。わたしに話しかけられた人は決まって、恐怖を顔に滲ませます。そして、夜も寝ずに次の日には、この家を出て行ってしまうのです。持ち込んだ物は、その日か次の日に別の人に持って行かせるのです」

「…………」

「そして、いつしか、この家は幽霊屋敷と呼ばれるようになりました。この四年間の間、誰も借り手はいなかったのです」

「そして、私が借りることになった」

「そうなんですね」

「ああ」

「わたしが怖くはないのですか」

「私はな」

「あなた様には、家族がいるんですよね」

「家族のようなものはいる」

「他の人はどうでしよう」

「多分、怖がるだろう」

「わたしはどうなるのでしょう」

「今は答えられない」

「そうですか。わたしを見て怖がらなかった人は初めてなのに」

「少し考えさせてくれ」

「…………」

 その時、寝室からきくの声がした。

「京介様」

「戻らなくちゃいけない」と僕は言った。

「わかりました」と女は言って消えた。

 僕は寝室に戻ると「厠に行っていたんだ」と言った。

「そうでしたか。幽霊に会いましたか」

「いいや。あれは噂だったんじゃないのかな」と言った。

「そうだといいですね」

「寝よう」

「はい」

 僕は女の霊の言っていた言葉を噛みしめていた。