二十九
宿は川縁に建っていた。川湯もあると言う。
一階の隅の個室を頼んだ。一人一泊二食付きで四百文だった。
手ぬぐいと浴衣を持つと、脱衣所で着物とトランクスを脱いだ。
ききょうを受け取ると、僕は頭を洗い、髭を剃った。ききょうに頬ずりがしたかったからだ。
湯に浸かると、ききょうの両手を掴んで、湯の中で足をバタバタさせてみた。まだ上手くはできなかった。しかし、湯に浮くことが嬉しかったようだ。ききょうを抱き締めた。とても柔らかい肌だった。きくが川湯に入ってきて、ききょうを僕から奪った。そして、僕に背中を押しつけて、「きくも抱っこしてください」と言った。僕は後ろからきくを抱き締めた。
昼間の殺伐とした時間から解放された。僕はきくとききょうが愛おしかった。しかし、白鶴藩に行けば家老屋敷に置いてくることになる。それが自然の摂理というものだ、と僕は思った。
今のこの一時を心に刻んでおこうと思った。
夕餉では、僕もききょうに味噌汁を掛けたご飯を食べさせた。ききょうがそれを美味しそうに食べるのが嬉しかった。
膳を片付けた後は、布団を敷いた。ききょうを抱いた。そこまでは覚えていたが、僕はそのまま眠ってしまった。
朝餉も味噌汁を掛けたご飯を少し潰して、ききょうに食べさせた。ききょうはよく食べた。僕はそれが嬉しくて何度も食べさせた。
「もう十分です」ときくが言うまで続けた。
僕もご飯をいっぱい食べた。今日も戦いがあるのだと思うと、その分も沢山食べようと思った。
宿を出ると、山道に入った。ジーパンを穿き安全靴を履くと、草履は風呂敷包みに入れた。
すぐに定国が唸り出した。きくとききょうと風呂敷包みを木の陰に隠すと、定国を抜き、光の示す方向に走った。六人ほどがいた。
時間を止めるまでもなかった。定国で斬り捨てていった。
すると、定国はまたも唸り出し、ある方向を光で指し示した。その方向に走っていくと、やはり、六人いた。そこでも時間を止めずに斬り捨てた。
そしてまた、定国が唸り出した。定国の示す方向に走ると八人がいた。時間を止めずに八人を斬り殺した。
相手は、最初から分散することにしていたのだろう。固まっていれば斬られるからだった。
また、すぐに定国が唸った。定国に導かれ、敵を見付けては殺した。こうして、また三十人ほどを別々に殺した。これで五十人は斬ったことになる。
僕は全身血まみれになった。下に川が流れていたので、懐紙を木の枝の間に挟んで、定国とも川に飛び込んだ。そして、躰の血を洗い流した。
川から出ると、着物を絞り、安全靴の中の水を下にして流すと、再び着物を着、安全靴を履いた。
定国は振って水気を取ると鞘に収めた。懐紙はまだ濡れている着物の懐に入れた。
きくとききょうの隠れている木陰に戻ると、風呂敷包みを背負って歩き出した。
「鏡京介様、全身ずぶ濡れですね」ときくは言った。
「血を洗い流したのだ」と応えた。
「いつまで、続くのでしょうね」
「分からないな。相手にその意志がなくなるか、戦力がなくなるまでだろうな」と僕は言った。
「こんな無益な戦いを続けてもしょうがないのに、それが相手には分からない。そこがもどかしい。いずれにせよ、相手の戦力がなくなるまで戦うしかないだろう」と僕は続けた。
相手の戦力は無限にある。でも、そう言わなければ自分が崩れ落ちそうだから、言ったのだった。
歩いているうちに着物は乾いた。ジーパンと安全靴の中はぐちゃぐちゃだった。
山道が終わったので、ジーパンと安全靴を脱ぎ、風呂敷包みの中に入れた。
昼餉をとり、街道を歩いた。
そのまま五里歩き、次の宿場で宿を取った。
個室で一人一泊二食付きで四百文だった。
早速、風呂に入り、ジーパンと安全靴をよく洗った。もちろん、着物も肌着やトランクスも洗った。頭もよく洗った。まだ血の水が流れた。髭を剃り、顔を洗うと風呂に入った。ききょうをきくから受け取った。きくも洗い物をしてから、躰を洗った。
洗った物は窓の外の掛け竿に干した。安全靴は逆さまにして置いた。
夕餉をとった後は、布団を敷いた。
今日は時間を止めなかったので、比較的疲れていなかった。その分、きくが疲れさせてくれた。
翌朝は、朝餉を食べると、すぐに出立した。
「明日は、白鶴藩ですね」ときくは言った。
「そうだな、順調にいけば」と僕は応えた。
今日七里ほど歩けば、明日の午前中には口留番所に着く。そこを通れば、高木藩から白鶴藩に入る。
白鶴藩に入ったら、城下町を目指し、家老の屋敷に向かえばいい。
もうすぐだった。
山道に入ると、ジーパンを穿き安全靴を履いた。安全靴の中はまだ濡れていた。
しばらく歩いて行くと、定国が唸り出したので、きくとききょうと風呂敷包みを木の陰に隠した。
そして、定国を抜き、光の示す方向に走った。
五十人ほどの忍びの者がいた。時間を止めた。そして、彼らに走り寄ると、腹を裂いていった。
少し離れると時間を解き、懐紙で定国の血を拭おうとした時、定国が唸り始めた。光は東を指していた。その方向に走ると、六十人ばかりの忍びの者がいた。
時間を止めて、走り寄ると、次々に腹を裂いていった。
少し離れると、時間を動かした。
「もう、来る頃だ。準備につけ」と言い終わらぬうちにその者は崩れ落ちた。
まだいる。
僕は定国を鞘から出したまま、辺りをうかがった。また、定国が唸り出し、南を指した。僕はその方向に走った。
五十人ほどの忍びの者がいた。時間を止めて、彼らの腹を裂いていった。
離れた所で、時間を動かした。
「もう、来ていたのか」と言う声とともに、その主は倒れた。
懐紙で定国の血を拭うと鞘に収めた。
きくとききょうと風呂敷包みを隠した木の下に戻った。
「敵は倒した。だが、急ごう」と僕は言った。
三里、歩いて昼餉をとり、午後は四里歩いた。
宿場に入る前にジーパンと安全靴を脱いで、風呂敷包みの中に入れた。
宿場で、四軒は相部屋しかないと言われ、五軒目でようやく、個室が見つかった。一人一泊二食付きで五百文と高かったが、仕方がなかった。