小説「真理の微笑」

七十二

 一月もトミーワープロの売れ行きは好調だった。社内も正月気分が抜け、春に発売予定されているトミーCDBの発売に向けて、着々と準備が進んでいた。

 二月になった。

 社長室に入ってすぐに長野から刑事が面会に来ていると秘書室の滝川が伝えてきた。

 私は通すように言った。しばらくして二人の刑事が入ってきた。

 私は応接テーブルの向かいに座って、二人を迎えた。

 二人は警察手帳を見せながら、「島崎です」「高橋です」と名乗った。

 滝川がお茶を運んできて出て行くと、年配の方の島崎が「申し訳ありませんが、訊きたい事があってお訪ねしました」と言った。

 私は「自動車事故なのに、刑事さんがお見えになるのですか」と訊いた。

「それなんですが、あなたから、直接にはお話を伺っていないものですから」

「話すも何も、事故の記憶はないんですから、お話する事はありません」

「そう言われましても……」と島崎が困った顔をすると、若い高橋が「単なる事故ではなかったかも知れないんですよ」と繋いだ。

「事故ではなかった?」と訊き返した私には、島崎が何を言っているのか分からなかった。

「どういう事なんでしょう。あれは私の運転ミスだったんでしょう。ただの自動車事故だったんでしょう」と言う私の内心はドキドキしていた。富岡を殺害した事と何か関係でもしているのかと思ったのだ。

「そうじゃあ、ないんですよ。思い出してもらえませんか。あの夜の事を」

 島崎が躰を乗り出して訊いた。私にとって思い出したくはない夜だった。

 テーブルの下で両手を上に向けて見た。あの日のロープの感触がまだ掌に残っていた。

 私は覚えていないというように、首を左右に振った。

「そうですか。車に乗っていた時の事も駄目ですか」

 私は頷きながら、「車がどうかしたんですか」と訊いた。

 若い高橋が「車に乗っていておかしいとは感じませんでしたか」と言った。

「さぁ、どうだったか、記憶にないので分かりません」

「そうですか。事故の後、車を引き上げ、散らばっていた部品もかき集めて、科捜研に回したんですよ」

 年配の島崎が言った。「そうしたら、ブレーキに細工がしてある事がわかったんです」と続けた。

「ブレーキにですか」

「そうです、ブレーキにです」

「どんな細工ですか」

「詳しくは言えませんが、ブレーキを踏み続けていると、ある瞬間からブレーキが利かなくなる、そんな細工です」

「それじゃあ、私の事故は……」

「ええ、事故じゃありません」と島崎が言うと、私の全身から血の気が引いていった。

「そんな馬鹿な」

「だから、お訊きしているんです、あの夜の事を。山道でカーブが多いですからね。ブレーキは踏み続けていたでしょう。その時、ブレーキが利かなくなったんじゃないかと思いましてね」

 私は記憶を辿った。山道をブレーキをかけながら下りていった事は覚えている。その時、ブレーキが利かなくなった……。それは、思い出せなかった。急に車が道を外れて、空中に飛び出していく場面がフラッシュバックのように浮かんだだけだった。

 顔を押さえて、何も言わないでいると、島崎が「誰かがあなたを事故に見せかけて殺そうとした、そう私たちは考えています」と言った。

 私は顔を上げて「そんな」と言った。

「誰かに憎まれている、あるいは恨まれているといったような事はありませんか」と高橋が言った。

 私が憎まれ、恨まれている……、いや、私ではない、富岡だ。富岡が憎まれ、恨まれているのだ。もちろん、心当たりは私にはあった。それは高瀬隆一、私自身だった。

「わかりません」と私は答えた。

「そうですか」と二人はがっかりしたような表情を見せた。

 島崎が胸ポケットから封筒を取り出し、中の写真をテーブルに置いて「ちょっと、この写真を見てください」と言った。

 私は写真を見た。そこには私が写っていた。高瀬隆一である私が。

「誰ですか、その人は」と私は言った。声に震えはなかっただろうか、ちゃんと言えただろうか、という思いが巡ったが、仮に声に震えがあったとしてもそれは喉の痛みのせいにすれば良かった。

「手に取って、よく見てください」と高橋が言った。

 私の指紋を採ろうとしている事がわかった。その手には乗らない。

「ここからでも、よく見えますよ。知らない人です。もし、仮に事故前に会っていたとしても、今の私には誰だかは分かりません」

「そうですか。知りませんか」と島崎が言った。

「知っているんじゃないかと思ったんですがね」

「その人、業界の人なんですか」

「ええ、あなたと同じソフト会社の社長でした」

ソフト会社の社長。それなら何かの会合で会ったかも知れませんが、覚えてはいません」

「今はそのソフト会社は潰れましたがね」と島崎が言った。

「そうなんですか」

「社長が失踪したからです」と高橋が言った。

 私は何も言わなかった。

「警視庁の方でも随分捜しているようですが、未だに見つかっていません」

 それは、そうだろう。当人は、ここにいるんだから、と思った。

「でもちょっと妙な事がありましてね」と島崎が言った。

「妙な事?」

「ええ。茅野はご存じですよね」

「名前ぐらいなら」

「名前ぐらいなら……。とぼけちゃいけませんよ。あなたの別荘に行くには茅野を通らなきゃならないんですよ」と高橋が少し声を荒げた。

「失礼な事は言わないでください。とぼけてなんかいませんよ。事故があった場所すら覚えていないんです。私が覚えているのは、病院のベッドにいた時からの事だけです」

 確かに事故の事はまるっきり覚えていなかったが、富岡の別荘の事はよく知っていた。何度か下見をし、そして実行したのだから。

「知らないならそれでもいいでしょう。でも、高瀬の車は茅野の駐車場で見つかったんです。これはあなたの別荘に行く入り口に当たる所です。そして、あなたが事故に遭われてから、彼は失踪したままなんです。これって偶然ですか」

「何がおっしゃりたいんですか」

 私は彼らが想像している事が少し分かってきた。おそらく、富岡と高瀬は面識があり、二人の間でトラブルがあった。そして富岡の別荘で二人は会った。そこで何かが起こった。そう考えているのだろう。

 私の指紋を採ろうとしたのは、富岡の別荘の指紋と照合するためだ。そこに富岡以外の指紋が見つかれば……。

 私はぎょっとした。私は富岡の別荘には指紋は残さなかった。これは手袋をしていたから覚えている。帽子も被り、髪の毛一本も残してはいなかった。だから、富岡の別荘には私の指紋はない。富岡の指紋だけが残っているはずだ。

 だが、今の私は富岡の顔をしているが、中身は高瀬だ。そして指紋も高瀬のものになる。富岡の別荘から私の指紋が出ずに富岡の指紋しか出なかったら、警察はどう思うだろうか。

 私は写真に触らなかった事に心からホッとした。

「まぁ、高瀬の失踪には、それなりの理由があるからなんでしょう」と島崎が言った。

「それなりの理由って」

「もしあなたとの間に何かトラブルがあったとしたら、という前提ですが、そうだとすると、ブレーキの細工の理由も説明がつくんですがね」

「馬鹿げた事を」と私は思わず言った。そう、ゲスの勘ぐりという奴だった。高瀬は私だ。私が富岡の車に細工などするはずがないではないか。

 そう考えた時、ある疑問が浮かんだ。では誰がブレーキに細工をしたというのだ。ブレーキには細工がされていたのだ。高瀬である私が細工をしていない事は私が知っている。しかし、細工はされていたのだ。誰かが細工をしたのは事実だった。一体、誰が細工をするというのか。そう考えていた時だった。不意に真理子の顔が浮かんできたのだった。真理子の実家は、昔は自動車修理工場をしていたと言っていた事を思い出したのだ。「簡単なエンジントラブルならすぐ直せるわ」と言った真理子の声が、聞こえてきた気がした。

 私が押し黙ったままになったので、「何か思い当たる事でも」と島崎が訊いてきた。

 私は苦笑いしながら、「あまりに馬鹿馬鹿しいんで答える気になれなかっただけです」と言い返した。そして「もう、いいでしょう。お引き取りください」と言った。

「わかりました。これで帰ります」

 島崎がテーブルの写真を胸ポケットにしまうと、社長室から二人は出て行った。

 彼らがいなくなると、別荘の事が気になりだした。今すぐにでも取り壊したい気がした。電話帳からダイヤルサービスを使って、茅野にある建築会社を調べ、電話をした。

 すると「冬場は無理ですよ。雪が解けて春にならないと」と言われた。「それじゃあ、春になったらすぐに頼む」と言った。相手からは「わかりました」と返ってきた。

 

 高木が入ってきた。

「どうでしたか」と訊いた。刑事の事が気になったのだろう。「私の事故の事をまた訊きに来たんだ」と言うと、「ただの自動車事故なのに、しつこいですね」と応えた。

「そうなんだよな。向こうも仕事だから仕方なくやっているのかも知れないが……」

 そう言ったが、私に広がった不安はそう簡単には消えなかった。

「今年度の決算はいいですよ。取締役会は例年通りに開きますか」

「そうだな。それについては任せるから、しっかり頼む」

「承知しました」と言って高木が出て行くと、ざわざわとした気持ちが私の中に渦巻いていた。そして部屋の中を見回した。すると自宅の金庫が思い浮かんできた。あの中のものはまだよくは見ていなかった。あの中に何かあるのではないか。

 もう一度、高木を呼び、今日は早退すると言った。少し気分が悪いんだと言った。

 高木は「わかりました」と言ってから「介護タクシーを呼びますか」と続けた。私は「そうしてくれ」と言った。