小説「真理の微笑」

五十九

 次の日、会社に出ると、まだ前日のパーティの雰囲気が抜けないのか、全体的に浮かれたような感じだった。酒が抜け切れていない社員もいた。

 だが、私は何も言わず、社長室に入った。お茶を秘書室の滝川節子が出してくれた。

「新しい場所に会社が移ってから、会社の雰囲気が変わりましたね」と言った。

「そうなのか」

「何て言うか、明るくなったような……」

「それならいいじゃないか」

「社長も挨拶でおっしゃっていたように、やっぱり少し変わりましたよね」

「そうか」と言った後、私は思いきって訊いてみた。

「少々訊きにくい事だが、尋ねたい事がある」

「何でしょうか」

「私の秘書をしていたという事は、他の人に知られてはいけないような秘密を共有していたというような事はないのかな」

 滝川節子は少し考えるふうにしていたが、やがて「社長にその記憶がないのだとしたら、そのような事はなかったと思います」と答えた。

「そうか、それならそれでいい。もう、下がっていい」

 滝川節子は頭のいい女だと思った。そして、あの手帳に書き付けられたSの文字はおそらく節子の事だと思った。これで全部のピースは埋まった。なぜだか分からないが、節子は他の女性と異なって、私との距離を保とうとしている。今の私にはそれが救いだった。

 

 私はパソコンを起動させると、パソコン通信ソフトのメールボックスを開いた。

 果たして夏美からのメールが届いていた。

『隆一様 素敵なクリスマスプレゼントありがとう。三百万円、確かに受け取りました。あなたの書かれた住所も電話番号も、名前のようにでたらめでしたね。電話をかけたけれど、現在使われていませんというメッセージが流れてきたわ。あなたの手紙も読みました。何度もよ。封筒は焼き捨てました。でも、あなたの手紙はどうしても焼けませんでした。夏美』

 私は慌てた。

『夏美へ こうしてメールしている事も危険なんだ。頼むから、手紙は焼き捨ててくれ。そうしてくれなければ、もうメールは送らないし、お金も送らない。永遠にお前たちと別れる。そうするしかなくなる。書いた事は必ず守ってくれ。 隆一』

 

 メールボックスを閉じたところで、開発部の西野が血相を変えて社長室に入ってきた。

「β版にバグがありました」

「なんだって……」

「一つのカードの項目数が百を超えて、データ量が三千件近くなったところで、ソートも検索も不能になるんです」

「…………」

「項目数が百を超えなければ、その症状は起きないんですが……」

「つまり、項目数に百という限界があるという事か」

「ええ」

「なら、それはバグではなく仕様という事にすればいい。一つのカードに百項目も使わないだろう」

「でも商品管理なんかをしていると百項目なんて簡単に超えますよ」

「参ったな」

「…………」

「本格的なデータベースソフトにしようと思っていたんだがな」

「データファイルを複数に分けるという手はありますが、そうするとソートや検索に時間がかかり過ぎてしまいますし……」

「つまり、現状ではトミーCDBは、個人用か小規模事業所ユースにしか使えないって事か」

「今のところ、仕様を限定すればそうなります」

「分かった。企業向け本格的データベースソフトは後の課題にしよう。仕様を限定し、発売を優先して開発を進めてくれ」

「そうします」

 西野が出て行くと、私は車椅子を窓際まで移動させた。

 (株)TKシステムズのカード型データベースソフトは、もともとスプレッドシート表計算ソフト)にデータベースソフト機能を付け加えたような仕様だった。したがって、スプレッドシートの仕様を超えてデータが扱えるわけではなかったのだ。その点で、最初から業務用に開発されていたデータベースソフトとは仕様が異なっていたのだ。

 だが、一般的なスプレッドシートに百項目の制限はない。とはいえ、無制限でもなかった。あるスプレッドシートは、横は百二十七列、縦は九千九百九十九行までの表を作成できた。だから、トミーCDBでも、それくらいのデータ量は扱えるものと思っていた。

 しかし、データベース全体のデータ量が、項目数百という限界を作ってしまったのだ。

 もちろん、他のソフトに目を転じれば、一画面につき五十項目でそれが二画面設定でき、一枚のフロッピーディスクに最大九十九のカード形式ファイルを登録する事ができるといううたい文句のソフトはあった。だが、自分の作るものはそれでは駄目だったのだ。もっと本格的なものを目指していたのだった。

 低価格の本格的なカード型データベースソフトを提供しようとしているのだ。そう思ってはいたが、仕様の縮小はやむを得ない選択だった。本格的なデータベースソフトは、本来ならカード型ではなく、リレーショナルデータベースソフトにしなければならなかったのだ。

 

「あなた、今日は嫌な事でもあったの」

 家に戻ると、真っ先に真理子がそう言った。

「車の中でも難しそうな顔をしていたもの」

 真理子は私の心が読めるのか、と思ったほどだった。

「ああ、ちょっとね」

「でも、大した事ないんでしょう」

「そうでもないけれどな……」と言ったが、真理子に「大した事ないんでしょう」と言われてみれば、そうかも知れないと思った。自分が追い求めている理想が高すぎたのかも知れなかった。

 項目数九十九、カード数最大二千九百九十九でも、十分データベースソフトとして使えるじゃないか、と思えるようになった。

「真理子は、俺の女神だな」

「どうしたの、急に」

「そう思っただけさ」