小説「真理の微笑」

五十五

 朝、出社すると、高木からボーナスの件で相談を受けた。トミーワープロは三万ロットを超え、四万ロットを超えるのも時間の問題であるという報告があった。社員は八十名あまりである。分かりやすいように通常ボーナスに加えて、百万円の特別ボーナスを全員に支給するように指示した。それから、新年会の費用も、特別豪華にする必要はないが、それなりに支出してくれと伝えた。

 新年会は****ホテルの菊の間で一月八日に行う事になった、と言った。

「そうか」

「一千人ぐらいの招待客だとそこぐらいしか予約が取れませんでした」

「それはいい。任せた事だから。それから年賀状の事なんだが、会社から出していたのか」と私が訊いた。

「はい。こちらで宛名も印刷して、いつもなら十二月早々には出していましたが」

「そうか、じゃあ、早速文面を考えて、誰かが君のところに持って行くようにするから、印刷して出しておいてくれ」

 高木は「わかりました」と言って出て行った。

 社長室のデスクの上にはデイスプレイがある。デスクの天板の下に引き出せるもう一つのキーボードとマウス用のテーブルが付いていた。その下に引出しがあった。

 パソコン本体はデスクの右サイドの下に置かれていた。

 私は電源を入れてパソコンを起動させた。

 するとパスワードがかけられていて、初期画面から先に進まない。私は西野を呼んだ。

「パスワードを忘れてしまった。解除してくれ」

「わかりました」と言った西野は、社長室を出て行って裸のハードディスクとフロッピーディスクを持ってきた。

 私がデスクからどくとデスクの下に潜り込み、電源をいったん切ってから、パソコンのケースのカバーを外して、そこにハードディスクを取り付け、カバーを戻してから、フロッピーディスクを入れて電源スイッチを入れた。

 パスワード解析用のソフトが起動し、そのスタートボタンを押した。

「解析には、一時間から長ければ数時間かかります。終わったら、画面にパスワードが表示されますから、メモしておいてください」

「じゃあ、それまでは病院で使っていたラップトップパソコンを使う事にしよう。すまないがセッティングしてくれ」

「はい」

 西野は部屋の隅に運び込んでおいたラップトップパソコンの箱から、パソコンを取り出し、電話回線にモデムを繋ぎ、電源ケーブルをデスクの下にあるコンセントに差し込み、デスクの上にラップトップパソコンを置いた。

 私は彼が作業をしている間に、来客用のテーブルで、年賀状の挨拶文を書いていた。

 私は作業を終えた西野に礼を言い、出て行こうとする彼に年賀状の文面を渡して、これを高木のところに持って行って欲しいと頼んだ。「わかりました」と答えた西野は社長室から出て行った。

 彼がいなくなると、ラップトップパソコンを起動させ、早速、パソコン通信ソフトを呼び出し、メールボックスを開いた。夏美から沢山のメールが届いていた。退院してからのこの数日、私は夏美にメールを返していなかったので、凄く心配していた。

 そのメールの中に読み捨てにできないメールがあった。

『隆一様

 先程、祐一と夕食を済ませました。あなたが美味しいと言ってくれたミートソースのスパゲティです。いつもの分量で作っていたら、あなたの分まで作ってしまいました。残ってしまったので、明日はナポリタンにして食べます。

 夜が来るのがこわい。ベッドに横たわっても、伸ばした手の先があなたに触れるわけではありません。あなたがいない事を痛いほど思い知るのです。

 長い夜はあなたの事を思っています。あなたの事を思い出し、あなたと一緒によく行った場所を思い出すのです。その光景を思い出すたび、涙が溢れてきて止まりません。毎晩、枕を涙で濡らしています。

 どうして会えないのですか。どうしても会えないというのなら、わたしがあなたを捜すしかありません。

 明後日、警察にもう一度行ってきます。そして、あなたから電話があった事、パソコン通信のメールが届いている事、お金が送られてきた事を話すつもりです。そして、あなたの居所を捜してもらうつもりです。

 ただ会えないと書いてきたら、わたしはきっとそうします。この決心はかたいものです。

 明日一日、あなたに時間を差し上げます。よく考えてください。

 もし、お返事がなかったり、前と同じように、理由もわからないまま、ただ会えないというのであれば、わたしは警察に行きます。       夏美』

 

 このメールを後から読み返した時、私には夏美の苦しみが理解できた。しかし、このメールを読んだ直後は全身が怒りで震えたのを覚えている。メールが届いた日時を確認した。『明日一日、あなたに時間を差し上げます』と書いてあったからだ。昨日書いたメールだという事が分かった。ホッと胸をなで下ろした。それと同時に夏美に対して、何を考えているんだという気持ちしか湧き起こらなかった。

 私はその怒りにまかせて返信した。もし夏美が警察に行く事があれば、もはやお前は妻ではない。祐一は俺の子ではない。お前たちとは絶縁する。そして、一切の連絡を絶つ、絶対にそうすると書き送った。

 夏美からすぐにメールが来た。

『隆一様

 あなたはむごい人です。わたしが警察に行けば、絶縁するとメールに書いて寄こしました。もう、電話をしないし、メールも手紙も一切送らないと書いてありました。そして、永久にわたしと祐一の前から姿を消すとも。

 あなたはわたしに、俺がお前たちの記憶まで消し去らなければならない事をするのか、とまで書いてきました。わたしが警察に行けば、必ずそうすると書いてありました。

 そんな事をされたら、わたしが生きてはいけない事をあなたは承知して書いてきたのです。そう書いてきたのには、それなりの訳があるのでしょう。

 それはきっと良くない訳に違いありません。あなたは、きっと許されない罪を犯したのですね。それで出てこられないのですね。会えないのは、そういう事なのですね。

 もし、間違っていたらごめんなさい。でも、そう考えるより他に考えようがありません。

 わたしはあなたに見捨てられたくはありません。だから、警察には行きません。もう、警察の人ともあまり関わらないようにします。ですから、電話をかけないなんて言わないでください。メールをしないなんて言わないでください。

 わたしが悪かったのです。許してください。

 でも、あなたに会いたい。この気持ちだけは止める事ができません。わたしを、このわたしを不憫に思ってください。お願いします。    夏美』

 私には言葉がなかった、夏美にかけてやる言葉が何一つも。

 

 今日は、真理子は福祉車両を選びにディーラーのところに行っているはずだった。

 私は、助手席が回転して乗り降りでき、車椅子も後ろに積めるものを希望した。

 真理子も同じ考えだったので、今頃はいろいろな車を見せられて、迷っている頃だろう。

 来週からは新車で出社したいと思っているので、その分、迷いも深いだろう。

 

 昼は親子丼をとって食べた。

 午後、あけみから電話があった。退院してからは会っていなかった。会えるはずもなかった。こんな躰だから「楓」には行けないと伝えた。「寂しい」とあけみは言ったが、さすがに会社にまで押しかけてくる事はなかった。

 由香里には電話をした。

 来月が産み月だから、躰には注意していると言っていた。私はくれぐれも風邪をひかないようにと言った。

「人の多い所には、なるべく出かけないようにしているわ。それに必ずマスクもしているし。安心して、ちゃんとあなたの子を無事に産むから」

 由香里は念を押すように言った。そう、由香里はちゃんと富岡の子を産むのだ。そして、富岡を殺した私がその子の面倒を見る。何とも皮肉な話だった。

 

 退社時刻が迫ってきた頃に、ディスプレイ画面に「終了しました」という文字が現れた。そしてその下にパスワードが表示されていた。私は手帳にそのパスワードを書き込んだ。

 西野を呼んだ。西野はフロッピーディスクを取り出し、電源を切ると、パソコンを再起動させた。そして、初期画面になると、パスワードを打ち込み「これで使えます」と言う。

「ハードディスクはあのままでいいのか」と訊いたら、「新しいのにプログラムをインストールして持ってきたので、そのまま使って大丈夫です。気になるなら外しましょうか」と言った。

「いやいい。バックアップ用に使うよ」

「それがいいですね」

 西野が退出すると、私は早速パソコンの中身を見た。いくつかのデータファイルがあった。ドキュメントファイルやメールボックスにもパスワードがつけられていたが、さっき使ったフロッピーディスクのパスワード解析ソフトを使って、いずれも解除した。こちらはそれほど手間もいらなかった。それらのパスワードを手帳にメモすると、今日のところはこれくらいにしてパソコンの電源を落とした。

 

 介護タクシーで家に戻ると、門の所まで真理子は車椅子を持ってきて待っていた。

 車椅子に乗り、玄関の中に入ると室内用の車椅子には乗らず、真理子に支えられて、椅子式昇降機に座った。二階のリビングに入ると、テーブルにいっぱいカタログが広げられていたが、シルバーの助手席回転スライドシート車のパンフレットを目の前に出してきて、「これに決めたわ」と言った。

「明後日、納車するって。試乗して良かったら、そのまま買う事にするわ」

「分かった」

 明後日は土曜日だった。

 

 私は毎晩のように真理子を抱いた。いや、毎晩抱いた。

 抱けば抱くほど躰に馴染んでくる。そんな感じだった。こんなに美しい妻を放っておいて、他の女にうつつを抜かしている富岡が信じられなかった。

 真理子も私の欲求に応じてくれた。真理子の躰は私の指が記憶した。

 会社にいても、時々デスクの上を、指を滑らせる事がある。そんな時は、真理子を思っていた。

 会社が終わり、家に帰る事が楽しかった。真理子と過ごせる日々が嬉しかったのだ。