小説「僕が、警察官ですか? 5」

 坂下の工場を辞めた後は、中里孝司は黒金町の盛り場でバーテンダーをやっていた。坂下の工場を止めたのは、坂下と金の貸し借りで揉めたからだった。結局、中里は坂下からは、金は借りられなかった。中里は工場が終わると、バーテンダーのアルバイトをした。しかし、それが坂下に知られた。それがきっかけで中里は坂下の工場を辞めた。

 その時は、中里孝司は町金融から金を借りて何とか凌いだ。しかし、そのことがしこりのように中里孝司には、残っていた。バーテンダーをやって、何とか金は返せたが、生活は苦しかった。そして、むしゃくしゃすると、坂下と揉めたことが頭をもたげてくる。そうしたことが三年も続いた。

 それで坂下一家を惨殺する計画を立てた。通常人ならそうはならないが、坂下は粘着気質だった。一種の病気と言っても良かった。

 坂下家には下見に何度も訪れた。誰もいないときに敷地内に侵入したこともあった。その時に、リビングルームのサッシの窓をガラス切りで切り取って、錠を開ける方法を思いついた。

 その計画を立てているときが、一番スカッとした。中里孝司は次第に計画に引きずり込まれていった。坂下一家を惨殺することが生きる目的のようになった。

 そして、実行した。

 実行して一年が過ぎた。自分に警察の手は伸びてこなかった。黒金町の仕事場までは自転車で通っていた。しかし、遠かった。引越しを考えた。

 黒金町の仕事場に近いところのアパートを探してそこに引っ越すことにした。そのアパートは黒金町四丁目****中井荘一〇五号室だった。

 四年前に引越しをしていた。

 

「鏡課長」と沢村が呼んだ。僕は二〇二号室から下りて行った。

「こちらが大家さんの赤木浩一さんです」と沢村が言った。

 僕は警察手帳を見せて、「西新宿署の未解決事件捜査課の鏡京介です」と言った。

「以前、二〇二号室に中里孝司さんが住んでいましたよね。引越し先は分かりませんか」と訊いた。

 赤木浩一は「四年も前のことですからね。覚えてはいませんよ」と言った。

 ここで時間を止めた。

 ズボンのポケットのひょうたんを叩いて、あやめに「この人に、中里孝司の引越し先の黒金町四丁目****中井荘一〇五号室の記憶を植え付けろ」と言った。

 あやめは「わかりました」と言った。

 しばらくしてズボンのポケットのひょうたんが震えた。できたという合図だった。

 時を動かした。

「いや、待ってくださいよ。思い出しましたよ」と赤木浩一は言った。

「どこですか」と沢村が手帳を出した。

「確か、黒金町四丁目****中井荘一〇五号室だと言ってました。間違いありません」と赤木浩一は言った。

 沢村はそれをメモした。

「黒金町四丁目なら近いですね。行ってみますか」と沢村は僕に訊いた。

「もちろん、行きましょう」と答えた。

 僕らは赤木浩一に礼を言って、車に乗り込んだ。

 

 時計を見た。午後二時前だった。

 バーテンダーの仕事なら、中里孝司はまだアパートにいるはずだった。

 黒金町四丁目****中井荘には、三十分ほどで着いた。

 一〇五号室は一番端の部屋だった。

 僕と沢村が玄関のドアの前に立ち、ノックした。中から、返事がして、起きがけの顔をした中里孝司がドアを開けて顔を出した。その右目の横にははっきりと黒子があった。

「何ですか」と言う中里孝司に、僕らが警察手帳を見せると、彼は慌てた顔をして、ドアを閉めようとした。

 僕がそうはさせまいとドアを引っ張ると、中里孝司は僕の胸を押して、ドアを閉めた。

「裏に回ってください」と僕は沢村に言った。沢村は、もう裏に回ろうとしていた。

 僕は時を止めて、玄関のドアを開けた。逃げ出そうとしている中里孝司がいた。靴のまま部屋に入り込んで、中里孝司を投げ倒した。そして、後ろ手に手錠をかけた。

 時を動かした。裏庭のガラス戸が閉まっていたので、沢村が玄関の方に回って、入ってきた。

 それを待って「公務執行妨害の現行犯で逮捕する」と僕は言った。

「一体、わたしが何をしたというのですか」と中里孝司は言った。

「今、逃げ出そうとした時に、私の胸を押しただろう。それが逮捕要件だ」と僕は言った。

「とにかく、署まで来てもらう」と沢村が言った。

 

 僕らは、中里孝司を沢村の車に乗せて、西新宿署に向かった。

 西新宿署に着くと、留置場に向かった。

 中里孝司の持っていたものが出された。それを係官がメモをして封筒の中に入れた。

「携帯を貸してください」と中里孝司が僕に言った。僕は携帯を貸した。

 中里孝司は仕事場の店長に電話をかけた。

「今日は、急用ができたので休ませてください」と言った。

 駄目だと言われたようだった。

 中里孝司は「母が急病なんです」と言った。

 それで何とか休むことができたようだった。

「母が急病だなんて、古典的だな」と沢村は言った。

「一時間後に取調を始める」と僕は言った。

「何の取調ですか。公務執行妨害なら認めますよ。早く返してください」と中里孝司が言った。

「何のために、お前のところに行ったと思っているんだ。訊きたいことがあったから、行ったんだ。それを聞かせてもらう」と沢村が言った。

「喉が渇いてしょうがないんです。水を飲ませてください」と中里孝司は言った。

 沢村は自動販売機からペットボトルを取り出すと、中里孝司に渡した。中里は貪るように飲んだ。

 そのペットボトルを沢村はハンカチで受け取った。鑑識に回すためだった。

 

 中里孝司を留置場に入れて、僕らは鑑識に向かった。

 沢村が鑑識の係官にペットボトルを渡して、「これを至急、鑑定して欲しい」と言った。

「何と照合するんですか」と聞かれた。

 沢村は手帳を出して、事件番号を言った。

「古い検体ですね」と係官は言った。

「ああ、これか」と係官はガラスケースに入った奥の棚から、検体を見つけ出した。

「早くても一日かかりますよ」と係官は言った。

「頼む」と沢村は言った。

 

 僕はきくに電話をかけた。

「きく」

「はい」

「今日は遅くなる」

「夕食は食べますか」

「ああ、食べる」

「では、待っています」

「そうか」

「はい」

 

 僕は未解決事件捜査課に行って、みんなに「今日は沢村と私は残業する。他の者たちは、定時になったら、帰るように」と言った。

 

 一時間後に、取調は始まった。午後三時半頃だった。

「二〇**年四月**日、午後三時半。これから、中里孝司の取調を開始します。取調官は鏡京介と沢村孝治です」とマイクに向かって言った。

「今日私たちがあなたのところに行ったのは、坂下一家惨殺事件について、聞きに行くためでした。それなのに、私たちを見るなり、あなたは逃げ出そうとした。それは何故なんですか」と僕が訊いた。

「警察官にいきなり来られたら、逃げ出したくもなりますよ」と中里は言った。

「普通は、何の用ですか、ぐらいは訊くでしょう。でも、あなたはすぐに逃げ出した。おかしいでしょう」と僕は言った。

「黙秘権ぐらいあるでしょう」と中里は言った。

「ありますよ」と僕は答えた。

「だったら、黙秘します」と中里は言った。

 それから、沢村孝治と取調を代わった。

 沢村はいろいろと中里に訊いたが、中里は一切しゃべらなかった。

 午後七時になった。

「今日はこのくらいにしよう」と沢村が言うと、「帰れないんですか」と中里が言った。

「ああ、明日も取調をする」と沢村は言った。

 沢村は「二〇**年四月**日、午後七時。これで、今日の中里孝司の取調を終わりにします」とマイクに言った。