十
次の日、黒金署の安全防犯対策課に行った。
デスクに座ると、品川署から電話がかかってきた。岸田信子からだった。
「鏡課長ですか」
「はい、私です」と僕は言った。
「おはようございます」と岸田が言った。
「おはようございます」と返した。
「車の鑑定結果が出ました」
「そうですか。で、どうでした」
「当たりでした。バンパーとタイヤから、凉城恵子さんの血痕が見つかりました。この車が凉城恵子を轢いたのです」と言った。
「ということは運転していた高橋丈治が轢き逃げ犯ということになりますよね」と言うと「はい。そうなります。それで、昨日、北軽井沢署から問合せがあって、高橋丈治をある別荘で見つけ、事情を聞こうとしたら逃げ出したので、公務執行妨害で緊急逮捕したそうなんです。今、高橋丈治は北軽井沢署の留置場にいます」と言った。
「だったら、轢き逃げ犯として品川署に引き渡すように要請すればいいのではないですか」と言ったら、「ええ、ですから、朝一で、向こうには護送してもらえるように連絡しました。午前十時頃には、向こうを出るそうですから、こちらに着くのは午後になると思います」と言った。
「取調には立ち会えますか」と訊いた。
「直接には無理ですが、ミラー越しならそうできるように手配します」と答えた。
「取調はいつになりそうですか」
「こちらに着いてからですから、今日というわけにいきません。多分、明日、土曜日の午前中からでしょう」と言った。
「時間が分かったら教えてくれませんか」
「わかりました」
「念のため、携帯の電話番号を教えておきましょうか」
「はい、お願いします」
「******です。午後五時過ぎなら、携帯に電話してください」と言った。
「わかりました。では、失礼します」と言って電話は切れた。
明日は土曜日だが、品川署に行かなくてはならなかった。ミラー越しでも、高橋丈治に会ういい機会だった。この機会を逃す手はなかった。
僕は気持ちがはやったが、ここは待つしかなかった。
午前中は、高橋丈治にどう対応するかを考えて時間が過ぎていった。
お昼になったので、鞄から愛妻弁当と水筒を取り出して、屋上のベンチに向かった。
今日は海苔の佃煮でハートマークが作られていた。
鶏の唐揚げとミニコロッケと煮物をおかずに弁当を食べた。
お茶を飲んで、安全防犯対策課に戻った。
品川署から電話がかかって来たのは、午後四時だった。
「鏡です」
「岸田です。今日の午後二時に、高橋丈治はこちらに護送されてきました」
「そうですか」
「今はこちらの留置場にいます」
「…………」
「それで明日の取調の件ですが、午前九時から始めることになりました。来られますか」
「行きます。必ず行きます」
「では、取調開始の十分前には、受付に来てください。わたしが取調室にご案内します」と言った。
「よろしくお願いします」と言った。
「では、これで」と言って電話は切れた。
僕は明日のことで頭がいっぱいだった。
取調官は単なる轢き逃げ事件だと思っているだろう。しかし、これは轢き逃げに見せかけた殺人だ。そこを取調官にどう追及させるかが、勝負だった。
午後五時になったので、安全防犯対策課を出て、家に向かった。
きくが出迎えてくれた。
「どうだった、病院に行って」と訊くと「すごかったです」と答えた。
「赤ちゃんが動いているのが、あんなにもよく見えるんですね。前にも見せてもらいましたが、その時は、何だかよくわからなかったんですが、今日は元気よく動いているのがわかりました」と続けた。
「そうか」
「先生は、わたしの質問に何度も丁寧に説明してくださいました。だから、わたしにもわかりました。これからは食べる物にも注意しなくてはなりませんね。バランス良く食べるようにしないと」ときくは言った。
「十分、バランス良く食べていると思うよ」
「ええ、だから、それを続けていきます」と言った。
「きく、明日は仕事で出かける」と言った。
「明日もお仕事ですか。土曜日ですよ」ときくは言った。
「そうなんだが、どうしても出かけなくてはならなくなった」
「わかりました。何時に家を出られますか」
「そうだな、八時には出るからそのつもりでいてくれ」と言った。
「はい」ときくは応えた。
次の日が来た。午前七時に目が覚めた。
軽く朝食をとって、着替えて、午前八時前に家を出た。品川署は新馬場駅から十分程度の所にある。四谷三丁目駅からいくつか乗り換えて、新馬場駅に着くのは、八時三十七分だった。午前八時五十分に品川署の受付に着くのには、ギリギリだった。
電車が遅れないことを祈ったが、電車は定時に運行され、僕は午前八時三十七分には新馬場駅に着いた。そこからは走って、品川署に向かった。
品川署には午前八時五十分前に着いた。すぐに受付に行った。
岸田信子が待っていてくれた。挨拶もそこそこに取調室の隣のミラー室に案内された。
取調官はすでに椅子に座っていた。
午前九時になった。取調室のドアが開いて、高橋丈治が警察官に連れられて入ってきた。
そして、取調官と相対するようにデスクを挟んで座らされた。
「取調官の浅井克典です。これより、高橋丈治の取調を始めます」とマイクに向かって話した。
僕は時間を止めて、ズボンのポケットのひょうたんを叩いた。
「あやめ。高橋丈治の頭の中を読んで来てくれ」と言った。
「はい」とあやめは言った。
時間を動かした。
「人定質問をします。あなたは、高橋丈治、生年月日は****年**月**日。住所は不定。それで間違いはありませんか」
「ありません」
「では、事件状況を記した調書を読み上げます」
取調官の浅井が、調書を読み上げた。
「二〇**年**月**日**時**分。****の交差点で、青信号で横断歩道を渡っている凉城恵子さんを轢き、そのまま逃走した。これに間違いないか」
「間違いありません」
意外に素直に高橋丈治は答えていた。
時間を止めた。
「あやめ。読み取れたか」
「取れました」
「流せ」と僕は言った。
高橋丈治の意識が流れ込んできた。
島村勇二から携帯に電話がかかって来て、「素直に轢き逃げを認めろ。轢き逃げなら、殺人罪より刑は軽い。七年ぐらいで出てこられる。早く決着をつけろ」と言われていた。
『だから、取調官の言うとおりに轢き逃げ犯になってやるから、さっさと検察に送ってくれ』と思っていた。
高橋丈治は五十万円で凉城恵子を轢き殺すことを請け負っていたから、轢き逃げで処罰される方が刑は軽かったのだ。
「あやめ。取調官の意識も読んでくれ」と言った。
「わかりました」とあやめは言った。
時を動かした。
「どうして逃げた。人を轢いたら、車を止めて、救助に当たるのが義務だろうが」と取調官は言った。
高橋丈治は「動転してたんです。とにかく、逃げなきゃと思ってしまって」と答えた。
高橋丈治は過失運転致死罪で逃げようとしていた。