小説「僕が、警察官ですか? 3」

二十四

 僕は中上が逮捕されたことで、ひとまずホッとした。

 家に帰り、風呂に入って、リビングでビールを飲んでいた。

 しかし、二つ問題は残っている。前の三件の連続放火事件については、中上は犯人ではない。ただ、このうち、二件は中上にアリバイがあるから、犯人とはされないだろう。ただ、もう一件がどうなるかは分からなかった。放火事件全体を否認するかも知れなかった。

 もう一つは、声明文だった。犯行の詳細な記述がどうしてできたのか、これは問題にされるだろう。仮に実行犯ではないとしても、犯行を教唆した可能性は残る。その場合、別に実行犯がいるということになる。おそらく、取調ではそのあたりが訊かれることになるだろう。しかし、実行犯はすでに亡くなっているのだから、中上には答えようもないだろう。実行犯を特定できなければ、教唆は成り立たない。

 取調はそこで暗礁に乗り上げることになる。

 実態から言えば、放火事件よりも、パソコンを使った他人のパソコンの乗っ取りと偽物のウイルス除去ソフトを使わせたことの方が罪が重い。最終的には、そちらの取調で終わるものと思った。

 夕刊には、『連続放火事件の犯人、捕まる!』という見出しが踊っていた。まだ、一報の段階なので、詳しい状況は説明されていなかった。

 

 今日の夕食はパエリアだった。

「このところイタリア料理が多いな」と言うと、「今見ている料理番組の講師の先生がイタリア料理店をしている人なの」ときくが言った。

「そうか。明日は和風料理が食べてみたいな。きくの煮物は美味いよ」と僕が言うと、「そうですか。なら、明日はそうしますね」ときくは言った。

 

 次の日は金曜日だった。朝刊は、連続放火事件のことがトップ記事になっていた。捜査一課長の談話も載っていた。注意深く、連続放火事件の犯人という言葉は使っていなかった。あくまでも、声明文を出した犯人であることを強調していた。しかし、マスコミは声明文を出した者=連続放火事件の真犯人という構図ができていたので、書き方はそのようになっていた。

 中上祐二の名前も公表されていた。そして、近所の評判も書かれていた。いつも部屋に閉じ籠もっていて、何をしているのか分からない人だったというのが、大方の意見だった。

 

 署に行くと、緑川に「ちょっと席を外す」と言って、五階の取調室のトイレの個室に入った。ズボンのポケットのひょうたんを叩いて、「あやめ、中上の様子を見てきてくれ。それから、私は屋上に行っているが、来れるか」と訊いた。

「わかりません」とあやめは不安そうに言った。

「じゃあ、一度屋上に行っているが、ここに戻ってくるからその時に戻ってこい」と言った。

「わかりました」と言った。

 午前中の取調はお昼まで続くから、その頃まで、トイレから出て屋上に行った。

 そしてお昼になる前に五階のトイレに戻ってきた。

 まだ、あやめは戻ってきてはいなかった。トイレの中でしばらく待つことになった。お昼になった頃、ズボンのポケットのひょうたんが震えた。

「戻りました」と言った。

 映像を送ってもらうと、僕はトイレを出た。

 安全防犯対策課に行くと、鞄から愛妻弁当と水筒を取り出し、屋上に向かった。

 弁当を食べながら、あやめからの映像を再生していた。

 取調官は「この声明文はお前が書いたものだよな。押収したお前のパソコンからも、この声明文は出て来ている。そうだとすると、黙っていても、自供したのと同じことなんだよ。わかるか」と言った。

 中上は何も言わなかった。

 取調官は、中上が書いた声明文を読み上げ、「こんなこと書けるのは犯人以外はいないんだよ」と言った。

 しかし、中上は黙ったままだった。

「いくら黙っていても、声明文の内容は消えないからな」と取調官は言った。

 取調官がいくら中上の発言を促しても、中上は何もしゃべらなかった。

 こうして、午前中は終わった。

 中上のことを小心者だと思っていたが、意外に粘こい奴だとも思った。

 

 午後の取調は、あやめに見に行かせなかった。どうせ午前中と変わらないと思ったからだ。それよりも弁護士との接見が気になった。弁護士は、中上からアリバイを聞き出していた。当然、今日、そのアリバイの裏をとってきているのに違いない。中上にアリバイがあることは、以前より知っている。問題はそのアリバイを弁護士がどう判断するか、だった。

 午後六時になり、中上の取調が終わると同時に弁護士の接見が許された。

 僕は接見場所の近くに行き、あやめに見てくるように言った。

 弁護士との接見は、一時間程度だった。従って、あやめも一時間ほどして戻ってきた。僕はその映像を再生した。

 弁護士の村雨が今までの詳細な状況を確認しながら聞いた後で「今日はどうでしたか」と訊いた。

 中上は「何も答えませんでした」と言った。

「そうですか。わたしの方は、中上さんが主張されたアリバイについて調べてきました」

「どうでしたか」

「武下巌さんには連絡がつかなかったんですが、沢島隆二さんとは直に話ができました。中上さんの言われたように、三月二十八日は、午後八時半頃から午後十時頃までカラオケ店で歌っていたという証言が得られました。それと四月二十九日のアリバイですが、これは旅行会社に連絡を取ったら、名簿に名前があり、それは添乗員も確認してくれました。必要があれば、出入国記録を調べれば、完全なんですが、そこまで調べなくてもアリバイは成立しています」と言った。

「そうでしょう。良かった」と中上は言った。

「ですが、事はそう簡単じゃあないんですよ。わたしは声明文を何度も読み返しました。あそこには、克明に犯行の状況が書かれています。これは犯人しか知り得ないことなんです。中上さんのアリバイは、実行犯ではないということを証明しているのに過ぎません」

「先生。それはどういうことですか」と中上は不安そうに言った。

「有り体に言います。仮に中上さんが実行犯でなくても、他の人がやって、それを中上さんが手引きしたか、主導したとしたら、教唆か共同正犯の可能性があるんです」と言った。

「そんな……」

「そのようなことはありませんよね」と村雨は訊いた。

「絶対にありません。わたしはやっていない」と中上は言った。

「最後の放火については、どうですか」と村雨は訊いた。

 中上は答えなかった。

「あなたがやったんですね」と村雨が訊いた。

 中上は頷いた。

 村雨は息を吐いた。

「状況は非常にまずいですよ」

 中上はうな垂れていた。

「とにかく、アリバイのある二件の放火については、やっていないということを、アリバイがあるということを主張してください。後は取りあえず、黙秘してください」と村雨は言った。

「わかりました」と中上が言った後、細かな確認のやり取りがあって、接見は終わった。

 

 僕は安全防犯対策課に鞄を取りに戻った。メンバーはもう帰っていた。

 僕も灯りを消して、安全防犯対策課を出た。

 

 家に帰って風呂に入った。浴槽に浸かりながら考えた。山田の冤罪を晴らしたいがために、中上に犯行時の喜八の映像を送った。真犯人は喜八だが、もう亡くなっている。喜八犯人説をまとめた報告書は署長が破り捨てた。

 こうなると、喜八のやった放火について、中上に何らかの罪が問われる可能性が出て来た。それは声明文があるからだ。あれは犯行を自白しているのと同じことだった。

 喜八の映像を見せられて、声明文を書いたなんていうことは、誰も信じないだろう。それよりも、中上が実行犯でなければ、他の人にやらせたという可能性の方がよほど信憑性がある。

 一つの冤罪は防げたが、別の冤罪を生んでしまったかも知れないのだ。

 僕は頭を抱えた。

 中上にはアリバイがあるから、大丈夫だと軽く見ていた。甘かった。自分の甘さが許せなかった。

 風呂から出ると、ビールを一気飲みした。そして空になったコップをきくに差し出した。

「何か食べてからにしたら」ときくは言った。

「いいから、注いでくれ」と僕は言った。

 きくは仕方なく、コップにビールを注いだ。