小説「僕が、警察官ですか? 1」

 月曜日は剣道の稽古日だった。

 剣道の道具を持って、西新宿署に向かった。制服に着替えるためと、指示や報告をするためだった。

 午前九時に西新宿署に着いた。係員からは特別な指示はなかった。そのまま、交番に向かおうとすると、係員が「剣道の道具は置いていかないのですか」と言った。

「ええ。これは分身みたいなものですから、持ち歩くときには、置いていくことはしません」と答えた。

「そうですか」と係員は言った。

 僕は交番に行き、赤木圭一巡査から引継ぎをして、勤務に入った。午前九時四十分頃だった。

 午前十時に無線電話に「千人町一丁目交差点で刃物を振り回している者がいるので、急行してください」という指令が来た。

『パトロール中です』の掲示板を出して、自転車に乗った。

 千人町一丁目交差点まで行くと、そこは混乱していた。道路に人がいて、車は停車していた。交差点のほぼ中央で、三十代の男が刺身包丁を振り回していた。

 人々は遠巻きに見ているだけだった。

 まだ、パトカーは来ていなかった。遠くにサイレンの音はするが、他の車が動けない状態では、ここまで来ることができなかった。

 僕は自転車から降りると、その刺身包丁を振り回している男の方に歩いて行った。そうしながら、警棒を抜き、振って、長くした。

「来るな」と男は叫んだ。目が血走っていた。普通じゃなかった。クスリでも打っている感じだった。

 刺身包丁を僕の方に向けた。

 動けないパトカーから降りた警官が走ってきた。

 遠くから「それ以上、近付くのはよせ。刺激するな。すぐ応援が来る。それまで待て」と言った。正論だった。

「大丈夫ですよ」と僕は言って、男に近付いていった。

「それ以上来ると、本当に刺すぞ」と男は言った。そして、刺身包丁を左右に振った。シャシャという音がした。

 男との距離は三メートルあった。まだ、遠かった。その距離なら、男の刺身包丁は届かなかった。

 二歩足を進めた。二メートルになった。

「俺は本気だぞ」と男は言った。そして、またしても、刺身包丁を左右に振った。包丁が空を切る音がした。女性の悲鳴のような声が聞こえた。僕が危ないと思ったのだろう。

「ばかな。止めておけ。無茶はするな」と後ろの警官がかなり近付いて来ていて、そう言った。

 一人で、凶刃の男に立ち向かうのは、警察学校の教えにはなかった。こうしたときは、大勢で取り囲んで、捕まえるのが常套だったのだ。

 しかし、僕はまた一歩、前に進んだ。一.五メートルになった。相手は刺身包丁を振り回していた。

 相手の目が据わっていた。振り回すのを止めて、手を後ろにぐっと引いた。次に僕を刺そうとしていた。そして、実際に刺身包丁を突き出してきた。男には、間合いに入ったと思ったことだろう。だが、まだ遠かった。

 その間合いが遠いまま刺しに来る瞬間を、僕は待っていた。僕は実際に刺されるくらいに間合いを詰めた。

 相手の刺身包丁が一直線に僕に向かってきた。その手を狙った。この時でなければ、刺身包丁を打ち落とすことができなかったからだ。

 僕は警棒を上段に振り上げて、下ろしかけたところで、時を止めた。相手の刺身包丁を持った手に確実に警棒が当たるようにして振り下ろした瞬間に時を動かした。他の人には、時を止めたことは分からなかったことだろう。コンマ何秒のことだったからだ。

 相手の刺身包丁が届く前に、警棒がしたたかに相手の手を打った。男は刺身包丁を落とした。僕は足で、刺身包丁を蹴って遠くにやると、右手で相手の右手を掴んだ。そして背中の方にねじり上げ、同時に左手に持った手錠の一方をかけた。もう一方の手も後ろに回して、後ろ手に手錠をかけた。

 後ろの警官がやって来て、「ひやっとさせるなよ」と言った。

「こんなの大したことありませんよ」と僕は言った。

 そして、僕が振り向くと、「あなたは鏡警部補ですか」と警官は言った。

「そうです」

「全国警察剣道選手権大会は直に見ましたよ。優勝おめでとうございます。どおりで、刺身包丁にも動じなかったわけですか」と言った。

「相手は素人ですから、小手を取る要領で刃物は打ち落とせると思ったんですよ」と僕は言った。

「そうでしょうね。大したもんです。それで、どこから来られたんですか」

「千人町の交番からです」と答えた。

「そうですか」

 後から来た警官が刺身包丁を証拠品としてビニール袋に入れた。

 そして、混乱している交差点を整理して、車を信号通りに動かした。

 車が動き出し、パトカーが到着した。

「後は頼みます」と僕が言うと、さっきの警官は「わかりました。奴は署に連れて行きます」と言った。その時、僕のかけた手錠を外して自分のベルトに戻し、今来た警官の手錠にはめ変えた。

 後から来た警官が後部座席に先に乗り、その後で刃物を振り回していた男を乗せた。

「じゃあ、わたしはこれで」とさっきの警官は、その後部座席に刃物を振り回していた男を挟むように乗り込んだ。

 パトカーは署に向かって、去って行った。

 僕は無線電話で、「ただいま、千人町一丁目交差点で刃物を振り回していた男は取り押さえられ、パトカーで署に向かっているところです。私はこれから交番に戻ります」と伝えた。

「了解しました」

 

 交番に戻ると、午前十時半だった。

 千人町一丁目交差点で刃物を振り回していた男を取り押さえ、パトカーに引き渡したことを日誌に書いた。

 

 お昼になったので、鞄から愛妻弁当と水筒を出して、昼食をとった。

 ハートマークに成形したハンバーグが載っていた。餃子とハンバーグを作った時に、作っておいたものだろう。

 午後二時から四時までパトロールに出て、交代の準備に入った。

 日誌を整理し、午後五時を待った。

  北村孝夫巡査が午後五時半に来たので、引継ぎをして、僕は剣道の道具を持って西新宿署に向かった。

 

 西新宿署に行くと係員に今日あったことの報告をした。刃物を振り回した男に一人で向かっていったことは何も言われなかった。

 そのまま地下に下りて行き、剣道着に着替えて練習場に出た。

 仲間から拍手され、「全国警察剣道選手権大会優勝おめでとう」と言われた。

 僕は「ありがとうございます」と言って頭を下げた。全国警察剣道選手権大会で優勝してから、ここに稽古に来るのは初めてだったのだ。

 着替える時、竹刀ケースの中の定国を触って、その霊気を手に宿していた。

 年長の者が「今日は、鏡に指導してもらおう」と言った。

「分かりました。順番に打ち込んで来てください」と言った。

「じゃあ、始めよう」と言って、僕の前に列ができた。

 礼をして、蹲踞の姿勢を取って、立ち上がると、最初の人が向かってきた。僕は無反動で竹刀を弾いた。その人は体勢を崩して、コート外に出た。そして次の人が向かってきた。やはり、竹刀を重ねると無反動で竹刀を弾いた。一通り当たるのに十五分ほどしかかからなかった。

 二巡目に入った。さらに僕の無反動は磨きがかかった。さっきよりも強く弾いた。その分、相手の体勢が崩れるのも大きかった。試合なら、小手でも胴でも面でも打てるところだった。

 二巡目も十五分ほどで終わった。

 年長の者が「鏡、疲れていないか」と訊いた。

「いや、全然。まだいけますよ」と答えた。ストレスが溜まっていたから、発散することができた。

「だったら、三巡目だ」と言った。

「三巡目は小手を打ちますよ。警戒しておいてくださいね」と僕は言った。

 三巡目が始まった。最初の人が竹刀を交わして、無反動で体勢を崩したところを小手を打った。次の人も同じように小手を打った。そうして、三巡目の人全員から小手を奪った。

 年長の者が「まるで歯が立たないな。これなら、全国警察剣道選手権大会で優勝するはずだ」と言った。他の者も同意した。

 僕と同年代の者が、「あの無反動はどうやって打つんですか」と訊いてきたから、「秘密」と答えた。

 その後、各自、稽古に入ったが、僕は上がることにした。

「先に失礼します」と言って稽古場を出た。

 シャワーを浴びて、更衣室で着替えた。

 剣道の道具を持って、西新宿署から出て家に向かった。