小説「僕が、剣道ですか? 7」

三十五

 部活には、週に一度顔を出し、五対一の対戦だけをすることにした。部員たちがそれを望んでいることが、富樫の話から分かったからだ。監督も了解してくれた。

 部員たちは、五対一で戦うのだから、何としてでも僕から一本取りたいと思っていた。そこでいろいろな作戦を練ってきていた。

 一度にかかってくるのではなく、二段攻撃を仕掛けてくることがそれだった。しかし、二段攻撃は僕にとっては、最も戦いやすい攻撃だった。わざわざ時間を止めずに相手が時間差で攻撃をしてくるのだ。僕はその時間差を利用して反撃すればいいだけのことだった。

 だが、最もやりにくいのは、基本に忠実に一度に攻めかかってこられることだったのだ。だが、それが失敗したと思っているものだから、工夫しようとする。工夫しようとすればするほど、僕のやりやすいようになっていくものとも知らずに。

 

 中間試験は、いつも通り無事切り抜けた。僕も少しは勉強するようになった。それは、きくに教えているからだった。

 漢字を教えるのでも、どれにしようかと迷う。迷うということは、それだけ多くの漢字を見ていることになる。それが自然に基礎的な学力を僕に身につけさせた。それは漢字だけではない。他の学科全般に及んだ。

 小学校で学んで忘れていたことも、必然的に思い出すようになった。

 きくの学習能力は高かった。僕が高校に行っている間もドリルや僕の作った問題集をやっているのだろう。段々、説明しなくても、話が通じるようになった。

「江戸時代ってこんな風だったんですね」ときくは、参考書の社会の箇所を開いて見せた。

 そこに江戸の地図が載っていた。

「わたしたちがいたのはどのあたりですか」ときくは訊いた。

 僕は石原のあたりを指さした。

「すぐ近くに川がありますね」と言った。

「今は隅田川と呼ばれているが、その頃は大川と言った。俺たちの住んでいた所は、ここだから、このあたりに船着き場があって、ここから向こう岸の浅草に行ったんだ」と言った。

 きくは浅草という漢字を指して、「これは、あさくさと読むんですね」と訊いた。

「そうだ。そしてこれが浅草寺だ」と言った。

「あさくさなんとか、って書いてありますけれど」と言うので、「それで、せんそうじって読むんだ」と応えた。

「同じ字なのに、読み方が違うんですね」と言った。

「そこが漢字の難しいところなんだ」と僕は言った。

「両国はどこですか」と訊くので、「この橋を渡った所」と指さした。

「そこですか」ときくが言った。

「昔は、橋を渡っていたろ」と僕は言った。

「はい、そうでした」ときくも言った。

「ここは両国橋と言って、昔からある橋なんだ」

「ここに吾妻橋があるが、これは後から架けられた橋で、僕やきくがいた頃にはなかった橋なんだよ。だから、舟で浅草に行っていたんだ」と言った。

 きくと話しているうちに、風車やみねはどうしているだろうか、と思った。

 今も寺子屋みたいなことをしているのだろうか、と思って、現代はないよな、と思い直した。江戸時代は過去のことなのだ。

 そして、きくを見た。その過去の人がこうして現代にいる。不思議な気がした。

 

 土曜日に、新しい家というか、ビルをきくと見に行った。外側はもうできていた。今は内装をしていると言う。

 表通りではなかったが、一つ入った通りに面した立派なビルだった。

「あそこが新しい家なんですね」ときくは言った。

「そうだよ」

「凄く大きいですね」

「一応、地下一階で五階建てのビルだからな」

「楽しみです」ときくは言った。

「そうだな」

 帰りに家の近くのケーキ屋でショートケーキを買って帰った。

 ききょうも結構食べるので、五つ買った。

 

 日曜日に沙由理と会った。日曜日には目的のシティーホテルは混んでいて、空き部屋がなかった。だから、カラオケ店に行った。

 濃厚なキスはしたが、四時間歌い続けた。誓って言うが、真面目に歌うこともあるのだ。

 

 こうしてまた二ヶ月が過ぎ、期末試験も終わった。

 冬休みにスキー旅行をしようと、富樫に誘われた。しかし、僕は引越しの準備があるからと断った。富樫は「新しい家には真っ先に呼んでくれよな」と言った。

「当たり前じゃないか」と僕は答えた。

 沙由理からも旅行の誘いがあった。同じ理由で断った。

「今、建てている最中なの」と訊くから、「そうだよ」と答えた。

「見に行きたいな」と言った。

「どうして」と訊くと、「将来、一緒に住むかも知れないじゃない」と言われた。

 あちゃー、と思った。母からは、きっぱりと言われている。きくのことはいずれ沙由理にも話さなければならない。となると、一緒に住む可能性は、限りなくゼロに近い。

 でも、そう言えない自分がいる。

「どこなの」と沙由理に訊かれた。

「四谷五丁目」と答えた。

「いい所じゃない」と言った。

「うん」

「絶対、見に行きたい」と言った。僕はその言葉に押し切られた。

 新しく作っている家に案内した。

「うわー、凄い」と沙由理は言った。

「ビルじゃない」とはしゃいでいる。

「今のわたしの家からも近くなったし」とも言った。

「家ができたら、あなたの部屋に招待してね」と続けた。

 何とか、母のいない日に来てもらえないかな、と思った。

 それから沙由理とは喫茶店に入った。

 今見て来た家の話ばかりしている。

 それは僕と結婚することが前提だろう。そう話は簡単じゃないんだ、とは言えなかった。僕は、自分が悪いのは、承知している。沙由理とこうしてつき合っているのだから、沙由理がどんな思いでいるのかは分かる。でも、きくのことを話したら、事情が変わるだろう。それを分かっていて、僕は沙由理とつき合っている。虫のいい話だが、今すぐ沙由理とは別れたくはなかった。勝手を承知で言えば、高校を卒業するまで青春を謳歌したかった。