小説「僕が、剣道ですか? 1」

六-2 

 これで準備ができた。彼らは木刀で打ちかかってきたに過ぎない。そして、打ち負かされた。これでは実戦を経験したとは言えない。
「もう一度だ。今度はさっきより強く打つ。痛いだろうが、それが実戦だ。本気でかかってこい。殺気というものの前に立ったときにいかに剣が出ないものか、教えてやる」
 僕は完全に自分の力に酔っていた。自制できない何かに突き動かされていた。
「今度は七人ずつだ」
 僕は一種の狂気の中にいた。昨日感じた恐怖の体験が忘れられなかったのだ。
 一度、僕に倒されているから、彼らは警戒してなかなか間合いを縮めて来なかった。今度はこちらから間合いを詰めにいった。いくら間合いを詰めようと時間がスローに感じるから、相手の間合いに入ったとしても、僕には届かなかった。七人は瞬く間に倒された。さっきよりも少しだけ強く打ったつもりだったが、彼らにはこたえたようだった。
 次の七人は明らかに怖じ気づいていた。これでは盗賊たちには勝てない。僕は木刀を投げ捨て、「かかってこい」と言った。彼らは一斉に木刀を振り下ろした。僕は、手刀で手首を叩いたり、拳で腹を打ったりした。数分後には、七人とも板の床に倒れ込んでいた。
「次」
 次の者たちが、かかってきたが、僕には、木刀をかすらせることもできなかった。これも数分でみんな板の床に倒れ込んだ。
「次」と言った数分後に、僕はまた「次」と言っていた。
 そして三十分も経った頃には「次」と言っても誰もかかってこなかった。もう全員と戦っていたのだ。
「みんな、立て」と僕は言った。
 全員が立つと「礼」と僕が言って、彼らに向かって頭を下げ、それから振り向いて神棚の方を向いて、一礼をした。これは道場に通っていた時の習慣だった。
 年長の者が「先生」と呼びかけた。
「何だ」
「これでは練習になりません」
「いや、これが練習だ。今日は戦うときの恐怖を教えた。それで十分だ」
「戦うときの恐怖ですか」
「そうだ。今日、私が真剣を持っていたら、全員切られた。それを知ってもらいたかった。何人で、かかっていっても、勝つことができなかった。そのことを知ってもらいたかった。人数が多いとそれだけで、どこか安心してしまう。しかし、実際に戦うときはそんなのは関係がない。一人一人が命がけで相手に向かっていかなければ、相手を倒すことはできない」
「先生の言っていることはわかりますが、私たちと先生とでは力量の差があまりにありすぎます。これでは私たちはどうすればいいのかわかりません」
「今日は、どうすればいいのか分からないほどの力の差を見せることに、私は集中した。それが君たちに必要だったからだ。力の差がある者に勝つにはどうすればいいのかについては、明日から教える。今日はこれで終わりにする」
 若者たちは一斉に「ありがとうございました」と頭を下げた。

 私は井戸のある場所を教えてもらい、女中から手ぬぐいを借り、彼女の前で裸になると、井戸から水を汲み、頭から水をかぶった。それを何度かして、手ぬぐいで躰を拭いて、着物を着た。
「濡らしてしまって済まない」と言って、濡れた手ぬぐいを女中に渡すと、一部始終を見ていた彼女は、腰を抜かしたように座り込んで、手ぬぐいを受け取ると「とんでもございません」と言った。

 風呂は昨日と同じだった。風呂の後は、夕餉になった。
 夕餉は昨日と同じだった。主である嫡男が上席に座り、対面になるように僕が座った。今日はカボチャの煮付けたものが出た。現代のカボチャの煮物とは全然違っていて、ほとんど甘くはなかった。砂糖を使っていなかったからだ。
「今日は、若い衆に稽古を付けてくれたそうですな」
「ええ。ぜひにと頼まれたので断れなくなって」と答えた。
「そなたは凄腕だと言うではないか」
「私なんかはそれほどでもありません」
「そんな謙遜を。話は若い者から聞いているから、知っている。最後は、何と七人がかりを素手で倒したそうだな」
「たまたまです」
「いやいや。三十人余りの者を相手に全員、素手で倒したと聞いている。一人じゃなく、聞いた者全員が興奮してそう言っているんだから、大したものだ」
 僕は答えようがなかった。
 お茶漬けの椀を空にすると、付き添っていた女中がすぐに「おかわりを」と言って手を出した。今日は久しぶりに稽古らしい稽古をしたのでお腹が空いていた。僕にしては珍しくおかわりをした。
 彼女は嬉しそうに茶碗に山盛りにして返してきた。それを見た瞬間に、一杯で止めにしておけば良かったと後悔した。

 夜になった。
 布団に入ると昨日と同じように、若い女が入ってきて、行灯の火を消して着物を脱いだ。そして、僕の隣に躰を横たえた。彼女が抱きついてきたのは覚えているが、その時には僕は非常に強い睡魔に襲われていて、すぐに眠ってしまった。

 次の日、起きると着物を着た若い女が布団から少し離れたところに座っていた。
「おはよう」と言うと、彼女は「おはようございます」と返してきた後、涙を流した。
「どうした」と訊くと、「あなた様はわたしがお嫌いでございますか」と訊いた。
「いいや、そんなことはないが」と答えると、「だったら何故でございますか」と訊いた。
 何のことか分からない僕は「何のことだか分からないんだけれど」と答えた。
 女は恥ずかしそうに「あのことです」と言った。
「あのこと?」
 あのことが何を意味しているのか、僕には分からなかった。
「そうです。あのことです」
「済まないんだが、あのことって何を言っているのか分からないんだけれど」
「あなたは嫌な人ですね。男と女がすることです」
「ああ、そのこと……」と言ってから「ええ」と僕は驚いた。確かに、夜に裸になった若い女性が僕の布団の中に入り込んでくるのは、尋常なことではなかったが、男と女がすることのためだったとは思わなかったのだ。いや、そう思う前に眠ってしまっていた。
 平安時代でもあるまいし、江戸時代にもそんな風習が残っていたとは、ついぞ知らなかった。いや、そんな風習は残ってはいないはずだ。とすれば、あの島田源太郎の配慮なのだろう。とんでもない配慮だと思った。
 女は若く見えたが、僕よりは年上だろうと思ったので「君は何歳なの」と訊いてみた。
「十五歳です」と答えた時、淫行じゃないか、と思った。この時代は年齢は数え年で呼んでいるはずだから、若く見える女の満年齢は十四歳だった。現代に戻ったとすれば中学二年生だ。無理無理、と僕は思った。
 俯いている女を見れば可愛い。何も言わないでいると、彼女に気の毒だと思ったので「疲れていたんだ。昨日は、大勢と久しぶりに稽古をしたもんだからね」と言うと、「その前の晩もすぐに眠ってしまいました」と抗議をした。
「前の晩は盗賊たちを退治したからだ。その話は聞いているだろう」と言うと、女は頷いた。
「そういうわけだ。君のせいじゃない」
「わかりました」
 女は両手を畳に突いて、深々と頭を下げた。